境界
音のした方へ、目をやる。
凹んだ、アルミのバケツが転がっている。
周囲の土は濡れ、黒ずんでいる。
3階の窓から顔を出し、何事か謝罪する生徒がいる。
それだけだ。
俺の足はがくがく震えたまま、録にいうことを聴かない。
心臓の脈動が体のバランスを狂わせ、まるで地面が揺れているようだ。
止まったままの息を無理矢理に吐き出すと、今度は子供の演奏のような滅茶苦茶なリズムで呼吸が始まる。
意を決して。
屋上の方へ、目をやる。
彼女は。
加瀬はじっと、こっちを見ていた。
彼女は、無事だ。
よかった。
本当に、ほんとに良かった。
バカみたいだ。
これほど、恐怖したことが、かつて、俺の人生で、ただ一度でもあったろうか。
根拠のない妄想を抱いて、それに振り回されて。
ああ。
妄想かもしれない。
だったらなんだ。
俺は決めた。
ごく自然に、自由意思のもと。
呼吸を調え、大きく息を吸い込み。
彼女の方を向いて。
前のめりに。
吠えた。
「加瀬えええぇっオレのぉっ!」
勇気など、塵ほども、必要とはしなかった。
「俺の! 奴隷になれ!!」
俺の奴隷になれ。
跳ね返った残響もまた、良く通る。
あたりは静まりかえる。
動くものは何もない。
まるで無人の廃校だった。
あはは。
言った。
言ったぞ。
最高だ。
最高に気持ちいい。
……まあ赤の他人が見たら、最高に気持ち悪いんだろうが。
冷静になってきた。
うん、なぜ、これほど静まりかえっているんだろう。
答えは簡単。
俺の変態じみた犯罪者チックな叫びが全校生徒の耳に頭に胸に記憶に深く深く刻みこまれたためです。
明日は学校休もう。
じゃあ、明後日は?
もちろん、俺の新しい人生がスタートするのさ。
物語は今まさに、始まったばかりだ。
めざせ大検合格!
〰️少年院からの再出発〰️
エピソード1泣き叫ぶ母
エピソード2泣き叫ぶ父
エピソード3いなかったことにされる同窓会
エピソード4エゴサーチで自殺未遂
願わくば、そんな俺と同じ道を、加瀬が歩まぬことを。
変態の同類扱いだけは、絶対、避けろよ、な。
約束だぜ、加瀬。
見ると、窓という窓が開け放たれ、生徒という生徒が、唖然としながら、俺に軽蔑の眼差しを向けている。
俺はそれら衆目を背にして、新たな人生の記念すべき第一歩を踏み出す。
その刹那。
叫び声が、再び。
「はいっ! よろこんで!!」
声の主は。
白いフェンスに体をもたれ、遠目にも分かるほど。
体を揺らし、嗚咽していた。
◆◇◆
それから。
生徒指導室に呼び出され、説教をくらい、解放される頃には、すっかり日も暮れていた。
幸い、お縄を頂戴する事はなかった。
夜道を歩く。
二人ならんで。
言葉はなかったけれど。
俺は彼女に、彼女は俺に、歩幅を合わせ、ただ歩いた。
「あ、あの」
ああ。
また、加瀬に先に話させた。
俺から先に、なにか言葉をかけてやりたかったのに。
「ご、ごご」
え。
「ご主人さま! わたしは、このあと、いったいどうしたら!」
面食らって動けない俺に、さらに追い討ちをかけた。
「ご主人さまのおうちに、置かせていただけるのでしょうか」
「ストップストップストップ! とりあえず、そのご主人さまってのはやめてくれ!」
だって。
「奴隷ってのは、アレだろ? 俺が読み手だから、必然的に作者のお前が、その、なんていうか。別にこっちの、現実の世界でリアルに俺の命令なんか聞かないだろ? な? な?」
早口でまくし立て、今度は加瀬の方が面食らっていた。だが、直後、彼女は頬を膨らませる。
「なんですか、それは。それは、詐欺というものではありませんか!」
何故怒る。加瀬よ。いいのか、本当にいいのか。
「わたしのいった言葉は、比喩とか、もののたとえではありません。条件つきではありますが、世間一般、世に広く知れ渡っている、額面通りの意味で」
お前、やっぱりおかしいよ。
「わたしは、あなたの奴隷です!」
ああ。
俺はいつの間にか、越えてはいけない境界を、後戻りの不可能な一線を、踏み越えていたらしい。
してやられた。
こうして。
契約は成立した。
俺が、彼女の小説を読む。読んであげる。
その代価として、物語が続く限り、彼女は日常生活において、俺の奴隷になる。
完全な奴隷に。
そんな契約を、俺たちは結んだ。
万人に一人もいないほど美しい少女。
それを、現代世界の基準ではありえない程に、我がものにできる。
はたしてその代償は、いかに。
〈1章 了〉