告白
俺の耳がおかしいのだろうか。
ご都合主義な展開の漫画アニメゲームに子供のころから触れすぎて、遂に言語能力に致命的ダメージが入ってしまったのだろうか。たった二文字の言葉が、頭の中でリフレインし続ける。
〈奴隷〉
主人たる者の下す命に、絶対的に服従するよう仕向けられた、あるいは躾けられた存在。
そんな、現代の日常生活において先ず耳にしない、使われない言葉が、たった今、目の前にいる少女の唇から発せられた。かのように、少なくとも俺の主観において記憶されている。
「ごめん、よく聴こえなかった」
そう返答するのが関の山だった。
この定型文に繋げて『もう一度言ってくれる?』と声を発するのが普通だが、奴隷などというセンセーショナルかつ破壊的で退廃的な二文字のために己の喉を震わすのは勇気がいるものだ。
そして、そんな勇気は咄嗟に湧いてくるものではないし、そもそも湧きあがらせて良いものか、という疑問が、何より先ず俺をためらわせた。
逸らした目を再び少女に向け、様子をうかがう。
少女は俯いている。眉間に若干の皺を寄せ、床のあたりで視線を泳がせながら、なにか考えを巡らせている、そんな様子だ。
ふと思う、いつも通り可愛いらしい容姿だ。
美少女なんて言葉は最早メディアによって使い古され、ある意味では手あかまみれ、汚れ切っているが、彼女こそは、真の意味で、本来使われていたはずの意味で、その言葉に相応しいだろう。
可愛いという形容と、美しいという形容は、時に相反するものだと思うのだが、その二者が綯交ぜになった、今にも壊れそうな儚い、危ういバランスの上に成り立つ、怪しくも稀有な魅力。
そんなものが、目の前にあった。
〈加瀬七穂〉
同じ高校の、同じ2年生。
同じクラス。出席番号まで同じ。
けれど、彼女の事は、雲の上の存在というか、どこか遠い、異国の人間のように思っていた。
人としてのスペックというか、第三者から見た多種多様な能力が、高すぎるのだ。
スクールカーストなんてものが存在する余地のない、まあ穏やかで平和な学園だとは思うが、仮にそんなものがあったら、俺は間違いなく底辺……いや、底辺を支える地面に転がった石ころみたいなものだ。
彼女は頂点どころか、それを照らす天の光だろう。フリーメーソンのピラミッドの天辺にある、あの印象的な目のように。
ある日の放課後、人もまばらな教室を今まさに去ろうと廊下に出た瞬間、俺は突然背後から声を掛けられ、呼び止められた。人目のない所で話がしたい、と、加瀬はそう言った。微妙な距離を開けながら、二人で、無言で、とぼとぼと廊下を行き、屋上につながるカギのかかった扉の手前まで来るや否や、彼女は、突拍子もない言葉を口にした。
〈奴隷〉
最早、それしか頭に残っていない。
故に、俺はこう返答した。
「ゴメン、よく聴こえなかった」
そして今に至る。
よくよく考えてみよう。
周囲の状況を観察してみよう。あたりは無人。夕暮れが窓から差し込んでいる。加瀬の表情には戸惑い、というか、羞恥心のようなものが見え隠れしている、気がする。
これは、ひょっとして。いわゆるアレじゃないか? 愛の告白。
私と付き合ってください、とか、そういうの。
いや待て。おいおい。それは思考の飛躍というものだぜ。
なぜ俺のような男がこんな美少女から告白されるんだ、バカバカしいにも程がある。おこがましいにも限度がある。何考えてんだ。
「あの」
震えた声がした。
「じゃ、じゃあ、もう一度……言いますね」
最早俺の理解も認知も袋小路のどん詰まりにて行き倒れかけていたところ、遂に再び光明が見えた。
のだろうか。俺は耳の穴をかっ穿ろうとして思いとどまり、耳は澄ませる程度に留めて。
加瀬の次の言葉を待った。
「あの……突然、こんな事、びっくりするかも知れない」
「いや」
いや、ってなんだよ俺。実に頼りないトーンで、情けない調子で、掴みどころのないネガティヴな相槌で即刻応答してしまった。タイミングが、何より最悪だ。これから何か言わんとする加瀬の勢いを、会話のリズム、テンポのずれた言葉で遮ってしまった。気まずい空気が流れる。
「わたし……わたしを、あなたの」
彼女にしてください!?
嘘だろ!?
口をついて出そうになり、慌てて飲み込む。
思考の飛躍が現実になる、のだろうか。
はたして、本気で、この子は、俺のような底辺未満と交際を?
奴隷なんて過激なフレーズが聴こえたのは、勢い余って使い慣れない表現を使ってしまったから、なのだろうか。愛の奴隷、とか、そんな感じの。
「あなたの……ええと、その……うう……」
加瀬の額をひとすじの汗が伝う。両目は充血し、今にも泣き出しそうだ。
最早ブレーキの利かなくなった俺の思考は全力で加瀬を応援している。
頑張れ!
言ってくれ!
その次のセリフを!
「がんばれ」
今のは誰のセリフだ? 俺だ。
おい、何だそのチープな応援は。感情のこもらない震え声は。
我ながら、情けなさすぎる。
しかし、それを聴いた加瀬は一瞬だけ驚いた後、顔を綻ばせ、そして大きく息を吸った。
両目を閉じ、スカートの裾をきゅっと握りしめて。
来る。
言葉がくる。
何か、俺の人生を大きく揺るがすような、そんな一言が来る。
期待に胸が膨らむ。未来に夢をはせる。
加瀬は両目を閉じて、華奢な肩をぴんと張り、言った。
校舎中に響き渡るのではないかというぐらい、大声で、叫ぶように。
「ドレイにしてください!!」
それも、二度言った。
二度目は、より滑舌よく、ゆっくりと、落ち着いて。
透き通った声で。
わたしを、あなたの〈奴隷〉にしてください