ラベンダーの香り ⑦
彼のまわりに纏わりつく黒い影。
どんどん増えていって、私は消し方を知らない。
『…本当に美しい。』
「え、」
確かにそう言ったんだ。ぼそっと。聞こえるか聞こえないかの声で。
どんどんどんどん増えていく。これは時間がない。
彼を、桔花さんの元に連れていくわけにはいかない。
「…桔花さんとどんなお話を?」
「たくさん話しました。僕も謝ることができたので満足です。」
話をできる限り続けて、意識を保たせないと。
どうか、まだ理性を切らさず、意識を集中させてくれ。
「久しぶりに会った桔花さんは…」
「変わりませんでした。あの日と。」
変わらなかった…? あの日と…?
きっと坂口さんが言ってるのは、桔花さんがお亡くなりになった日のことだと思う。
でも、「変わらなかった」というのはあり得ないんだ。
絶対に服やら、髪やら、変わることはあるはずなのに。
…ああ、もう侵略し始めてるのか。
でも、今ここでこの人を手放すわけには。
「心残りはもうないんですか?」
「はい、すっきりしましたよ。桔花が最後の心残りだったもので。」
“ 桔花が最後の心残り ”
その言葉が私の頭を巡る。その瞬間、あのラベンダーの香りが漂い始める。
「坂口さん、何か好きなお花とかあるんですか。」
「僕は、桔梗とラベンダーですかね。」
ああ、嫌な予感。こういう時ほど当たるのよね。
『私についてきてもいいんだよ、黒沢華。』
「あなたは…、誰なの…、」
ラベンダーの香りが濃さを増す。少しきついくらい、とでもいうところだろう。
「何で、花なんて?」
「少し、気になったもので。」
濃度が強くなったことで、鼻がおかしくなってくる。
隣のゆずの香りもしなくなってくる。全てがラベンダーで染められていく。
「坂口さん。」
「はい?」
「あなたは今から、何をするつもりですか。」
少し気持ち悪くなりつつも、必死で絞り出した質問。
彼はにこりと笑ってこう言った。
「桔花のもとへ。」
その3秒後、彼は自ら命を捨てた。
私は全身の力が抜けて、その場に座り込んでしまった。
『バカですね、あの方は。』
「…そんな簡単に、」
『言ってませんよ?思ったことを言っただけです。』
あかねさん。最初に会った時と全然違う。どうして。
こんなにも一瞬で変わるものなの…?
『黒沢華。』
急に現れては、私の右隣に立つ男性。右からも左からも冷気が流れ込んでくる。
『今のはどうだった。さぞかし、美しかっただろう。』
「人の心を操ったんですか。それは禁止…」
『誰が操ったと言った。いいショーだっただろう。』
「そんなの…!」
美しいものなんて、何もない。人の心は、1人しか操れないし、1人しか見えない。
それを勝手に弄んだ上にショーだなんて。
『気に入ったのか、ならばもっと…』
「気にいるはずがないわ。こんなもの。」
『ほう。こんなもの。まあいいだろう。黒沢華。黒木ひなたと消滅するときも遠くないだろう。』
笑いながら煙のように消えていくから。
私のそばから温かい空気が流れた。
2週間前、双子の妹と喧嘩をし、その日のうちにいなくなった妹。
たった一言が最後の言葉となってしまったことが、心残りだったようだ。そんな彼も、妹の後を追って自ら命を捨てた。
そんなことしても妹は喜ばない。それを知った上で…。
自分の中でやりたいことはやり遂げたのだろうか。
心残り、後悔、全てなくなったのだろうか。
私の中では、それだけが心残りなんです。
自殺してまでやらなきゃいけないこと、あったのかな。
少なくとも私はなかったと思います。
安らかに、お眠りください。