冷たい雨 ⑥
「ちゃんと、普通に現れたらどうだ。冷炭」
『あっちゃー、バレた?』
自分でも感じるほど、いつもより強いラベンダーの香り。正直きついと思うほど。
「何しにここへ?」
『なんで、1人になろうとしてるんだ』
そう言うと、あいつは目を見開いて自分をソファーに座るように指示する。
何を隠しているのかも全く分からないけど、やるべきことは。
『なんで、真紅まで…』
「あいつは人間に情が移りすぎたんだ」
『じゃあ、雪は…」
「あいつは論外だ」
話にならない。確かにそう言った。
何が狙いなんだ、そう聞こうと思ったが聞かなかった。言葉が出なかったのだ。正確には、出させてもらえなかった、だろう。
こいつには何を言おうとしているのか分かっている。全身に鳥肌が立った瞬間だった。
「結局は、何を言いに来た?」
『え…?』
何を言いに来たのだろう。自分はこいつに何を伝えたかったのだろう。
ここに来て、全てが真っ白になった。考えていたことも、言おうとしてたことも、やろうとしてたことも、全て。
ああ、やられた。一言でそう思った。
「何もないなら…」
『待て、こかげ』
「その名で僕を呼ぶな!!」
こいつの罵声で窓ガラスにピキピキとヒビが入る。上のシャンデリアも揺れ始め、覚悟をした。
ああ、やばい。みんなこんな気分だったのか。
冷静に見ている自分がいて。
こんな危険な状態になっているのに、どうしてこんなに呑気に客観視できるのだろう。
『逃げようとするな、こかげ』
自分の過去から、名誉から、全てから。
逃げられないんだ、もう、何もかも。
「その名で…」
次の瞬間、ガラスもグラスも、ガラス製品は全て割れ始めた。とうとうこいつの怒りが限界を越えたのだ。
もうやばいと思ったのが遅かった。こいつは、自分に手を向けていた。
「消えろ」
全て、終わりにしよう。こかげ。
*
廊下に出て、芯が短く、炎がついている蝋燭を発見した。もう消えてもいいはずなのに、まだ炎はちらちらついている。
「とっとと消えてしまえばいいものを」
そうぼそっと呟いた声は誰にも届かず消えた。
僕はその蝋燭を吹き消して、また歩き出す。
その蝋燭には「冷炭」という名前が刻まれていた。