英国の訪問者 ⑤
華、泣かないの。
それが普通。玲がそういう性格なの知ってたじゃん。
大丈夫。華は私が守ってあげるから。
夢だと分かってはいたけど、思わず目を開いて飛び起きた。
背中は汗で冷たく濡れていた。
どこかで聞いた事のある声で、顔が見えるはずなのに真っ黒に塗りつぶされていて、一切見えない。
どうして。なんなの。あなたは誰。
そんなことを思っていると、後ろから声がかかる。
『怖い夢、でも見たか?』
深夜3時に背後からかかる声にびくっとしながら振り向くとそこにいたのは…
「ひなた?」
『え、何』
紛れもなく、ひなただった。いつもと同じ、変わらないひなた。
一緒にいるだけで安心する、というのはそういうことだと思う。
「なんで、昨日帰ってこなかったの?」
『あの交渉、難しいぞ』
「あの…って、園田理人さんの?」
『ああ』
そう言って彼女は私の目をじっと見つめる。
正直言って、何が難しいのかは分からない。
でも、いつもはすっ、と取ってくるひなたが難しいと言うのだから、それは本当に難しいんだと思う。
私には、未知の世界だけど。
「何が難しいの?」
『もしかしたら、断られる』
「なんで?」
なんで。そう聞くと、ひなたは目を見開いた。
そんなにびっくりすること?なんて思いながら、私は瞬きをする。
『…全力は尽くすが、その時はごめん』
「何で謝るの。その必要はないでしょう」
その時。ふと頭に浮かんだ光景。
見たことのあるけしきで、知っている人なんだけど、思い出せない。
華。
早くしないと、お母さんたち行っちゃうよ!
私の名前を呼ぶ声。これの正体は、なんなのか。
『華?』
「誰かが、私を呼んでる…」
『そんなはず、あるわけないだろ』
ひなたはそう言うけど、本当に聞こえる。華、って。顔は見えないのに、ニコニコ笑っているの。
表情が見えるなら、確実に顔まで見えるはずなのに。
どうして、こんなにも鮮明に覚えているのだろう。
『華、気にするな』
気になるけど。なるんだけど、今は深追いしない方がいいんだろう。
そんな話をしていると、もう朝になっていて、カーテンの隙間から光がのぞく。
『何飲む?』
「じゃあカフェラテ」
いつもは飲まないカフェラテを、少し大人ぶって頼んでみる。ほろ苦い香りが辺りを漂って、私の元に来るまで後少し。
『はい、どーぞ』
「ありがと」
ミルク多めの砂糖多め。9対1の割合で、私はそのカフェラテを飲む。
甘すぎて、まだ子供口の私は、こんなのがちょうどいいなんて思うんだ。
冷めるのが早いカフェラテは、白くなって、泡だけが残る。この泡は、まるで何かを知らせようとしているのか、全然消えない。
『何をボーッと見てるんだ』
「この泡、見てたの」
すぐ消えないなって。
前にも、こんな遊びをした気がする。それがカフェラテだったかは覚えていないけど、泡が残る飲み物で…。
華の負けー!
泡、口の周りにくっついてるよ!
その言葉が、風景が頭に残っている。ずっとずっとループしているんだ。
なんでこんなにも、私は名前を呼ばれているんだろう。誰に言われているのか、呼ばれているのか、分からないのに。
『華』
「え…?」
急に名前を呼ばれたので、じっと見つめているから、少し驚きを隠さないでいる。
言葉も出てこないから、しばらくの間見つめ合っている状態。どこか恥ずかしくなってきて。
「え…、何…?」
『私にも、レモネード』
よく見ると、ひなたの手元にはコップがない。
ああ、私の分だけ作ってくれたんだ。
一人でひなたの優しさを感じた。
「なんで自分の分も作ってこなかったの」
『華の方が…、ちょうどいいから』
素直に言えばいいのに。
そう言いかけたけど、きっとそれは照れ隠しというのを知っているから、何も言わない。
私は笑ってその場を離れた。
華。
その声は、私にも聞こえていた。華の名を呼ぶ誰かの声。この主は、私には分かっているわけで。
でもきっと、華自身がわからないといけないものだと思う。
「ひなた、お待たせ」
『うん』
そっけない返事をして、そのレモネードを飲み込む。やっぱり、この味だな。この味じゃないと、ダメなんだ。密かにそんなことを思いながら、次のことを頭に浮かべた。
「真田さん、どうしようか…」
『絶対に会わせてやる』
「どうやって…」
そんなの一つに決まっているだろ。
『交渉してくる』
私はそれだけ言って、煙のように姿を消した。