月曜日の憂暮れ
書類に記した今日の日付は不格好に見えて、自分が本当に成長したのか不安にさせた。
大学生活も残りわずかになった五月頃に、僕は内定をもらった。インターンから参加していた企業で、第一志望だったこともあって、満足いく結果だった。はずだった。
何故か、気分が晴れない。
その日は、何も無い月曜日だった。
内定をもらい、祝ってもらい、報告もし、散々騒いだ数日を経て、ようやく落ち着いた休日は、皆社会で忙しなく動き回る初日でもあった。
休日であったが、僕にとってもその日は、憂鬱な日だった。
散々浮かれていて忘れようとしていた他の企業からの内定、面談までしてもらった企業、それらの企業に自分の決意を述べる日は、その日と決めていた。
憂鬱に目を背け、起きたのは十時を過ぎた頃だった。起きた途端に、緊張や妙な不安が脳裏をよぎり、静かにバスタオルを掴み取った。
ちゃんとしなきゃ。そんな思いが、心のどこかにはあった。メールで辞退を告げる奴、選考をサボる奴、周りにはいくらでもいた。そいつらが悪いとか、そういう訳でもないが、自分は真摯な姿勢を持たなければと、ちっぽけなプライドを持っていた。
四月の初め、周りはどんどん決まっていく。要領よくやっている奴、自分以上に時間と労力を費やして就活していた奴、そんな周りに囲まれながら、内定を持ってない僕は焦っていた。真面目にやってるつもりだった。夏から始め、早いタイミングから選考にも参加していた。しかし、役員まで来て落とされる。自分が本当にこの会社でいいのか、そんな不安を見透かされているように、不採用の数だけが積もっていった。
解禁と同時に選考に進んだ五社、その内の三社は二次選考で落とされ、僕はただ不安と焦りに身を震わせていた。
何であいつらは受かるのに、何でこんなにやっているのに、見当違いの嫉妬が頭を巡っていた。
そうした中でようやく、自分の将来について本気で向き合えたのだと、思う。
結局は何がやりたいかもそうだが、大事なのはそれが妥協出来るかだった。どんな企業を見ても不安要素や難点はいくつでもある。やりたいことがあり、不満を妥協出来るほどか、それが僕の中の就活で導き出した就きたい企業を導く方程式だった。
僕は大人になろうとしている。社会に出て、働いて。そこまでの過程で身につけたものは、輝くような憧れと、それに相反するような諦めだった。
それに気づいた時、僕は初めて、内定をもらった。
第一志望の企業と、もう一つの企業は、全くの異業種だった。やりたいこと、出来ること、それぞれ違って迷いもあったが、結局可能性と妥協の折り合いがついたのは、第一志望だった。やりたいことや可能性それらが無限に広がっている確信が持てた第一志望でさえも、やはりどこか諦めの部分もあった。それが虚しく、自分に怒りも覚えた。
シャワーを浴び終わり、僕はハンガーにかかったワイシャツを着た。家を出るつもりもなかったし、部屋着でも良かったが、それでなければならない気がした。
電話を掛けるその瞬間、緊張が走った。人生の岐路がここにあるような気がして、本当にこれでいいのかと悩んだ。それでも、悩み抜いたその答えを信じて、電話を掛けた。
採用担当の人は、最終面接の待合室で話をした人だった。穏やかなその声を聞いた後、本題に切り出した。
なんだか聴きたくないな、そんな砕けた言葉を、その時かけられた。
電話はものの数分で済み、あっさりと終わった。終始残念だという言葉をかけられて、頑張ってくださいと言われて電話を終えた。
もう一つの企業も、同様だった。そっちはまだ面接まで進んでいなかったことや、予め第一志望を伝えていたこともあって、大変喜んでもらえ、やはり頑張ってくださいと言われて会話は終わった。
ネットではいろんなことを言われる内定辞退も、結局は、あっけない終わり方だった。
その日の夕方、僕はたまらなく喪失感に駆られて、一人みなとみらいの海を眺めていた。気分転換に買い物に行った帰り道に、ふと海を見に行こうと思ったのは、まだ自分自身整理や踏ん切りがついていなかったからだろう。
幼い頃何度か遊びに来た臨港パークは、大学生になってから何度かすがりつきたくなる場所になっていた。コンクリに固められた地面と向こうに広がる海。砂浜ではないこの海の場所に落ち着きと哀愁を感じて、僕は度々訪れていた。友達と、好きになった人と、そして一人で。この場所には、大学生活の想い出の一部が、密かに埋まっていた。
シーバスの駅舎が見えた時、まだ日は登っていて明るかった。ぼんやりとその風景を眺めた僕は、下の自販機でペットボトルの緑茶を買った。
特に意味はなかった。見たいものも、やりたいことも、あったわけではなかった。けれど何故かその時の僕は、日が沈むまでその景色を眺めていようと思った。
ここに来て帰るまでの時間、覚えている限りでは、日が沈む前の間か日が沈み切った間かだった。日が沈むまでのみなとみらいの景色を見れば、僕のこの憂鬱も何処かに沈んでいってくれると、僕はぼんやりと信じていた。
海が見渡せる石段の上に一人座った。周りにはカップルや散歩している人、ランニングしてる人、釣り人なんかもいた。ただこの場所に居座っているだけなのは僕だけな気がして、どこか特別感と孤独感を抱えながら、ペットボトルの緑茶を空ける。
お気に入りの曲を携帯から垂れ流し、ぼんやりと海の先を見つめる。涼しい風が体を打ちつけ、髪をかき乱す。誰に見られているわけでもない、そう思い気にせず海を見続けた。
足元の虫が動き回る、後ろをランニングウエアの人が通り過ぎる、釣り人が警備員に話しかけられている、周りも気になり全く集中は出来ていない。集中する必要も、そんな気もなかったが、なぜか細かいことに目がいく自分に不快感を覚えて、目線は携帯に向いていた。
ツイッターには意味のない呟きで溢れていた。僕も同じようなもので、どうでもいいことを吐き込んでいた。流し見で全てのツイートを眺めて、携帯をポケットにしまい込む。
景色は徐々に暗く沈み込んでいった。
すっかり暗くなった頃、僕は臨港パークをイヤホンを付けたまま出た。少し風が冷たかったからか、手は若干冷え切っていた。
本質は、何も変わっていない。僕を取り巻く不安や環境はこの時間を通じて何一つ変化していないし、未だに不安はつきまとっていた。
けれど、さざ波と沈みゆく景色は、僕の不安を日と共にどこかに連れ去り、そっと沈めてくれたように思う。