ギャンブル
グレゴリオ歴 1787年 11月18日
11月はイギリスで最も霧が多い時期。
その日も例に洩れず屋敷の外には深い霧が降りていた。
レイとヘンリーは外出を控え、書斎にあるソファに向かい合わせで腰掛けている。
中央のテーブルにはチェス盤が置いてあった。
レイが先ずは白のポーンをe4に動かす。
「そういえば、缶詰の試作品を去年の終わりごろに見せて頂きましたが、瓶詰めから缶詰に移行する際に問題などは起きていませんか?」
「ああ、順調に移行しているらしい」
ヘンリーは黒のポーンをe5に進める。
「年が明ける前には工場で量産している瓶詰めと缶詰の生産数が逆転するだろうとフレッドから報告が上がってきていたぞ」
「フランスへの輸出に関してはどうでしょう?」
ナイトをf3に指しながら、そう尋ねる。
「今年からロシアとオスマン帝国が戦争状態に突入していますが?」
1787年4月。ロシアのオスマン帝国へ対する領土割譲要求をきっかけに、第一次露土戦争(1768~1774年)以来となる第二次露土戦争が勃発していた。
「販路の方には大きな影響は見られないだろう。両国の国境地帯から海戦の主戦場は黒海だからな」
ヘンリーは黒のポーンをd6に出した。
すると懐かしい光景が盤上にあらわれる。
「……フィリドール・ディフェンス」
「ん?レイもこのオープニングを知っていたのか?」
僅かな逡巡の後に、レイは頷く。
前世では、オンラインチェスでも定番だったこのオープニングを何度も使用したものだ――。
「私は先日、アンドレ・ダニカン・フィリドール氏の著書を拝見した際にこのオープニングが紹介されていてな。チェスの名手として有名なかの御仁に倣ってみることにしたのだ」
そういえば――、
レイはあることを思い出す。
「かの御仁は今、フランスではなくイングランドに在住しているのでしたか?」
「そうだ。彼はロンドンを拠点にして名士たちにチェスの指導をしていたはずだ」
後世に名が残る偉人と同じ時代に生きている――。
改めて過去に転生したことを強く実感した。
「レイも彼の著書を読んで知っていたのではないのか?」
「いえ。私は夢の中で彼のテクニックを知りました」
「そんなところまで現実と同じなのか……やはり、この世界の未来を見たというレイの話は事実なのだろう」
ならば話を戻すが、とヘンリーがじろりと射竦める。
「今回の露土戦争、勝つのはロシアか?」
「ええ。夢の内容では来年オスマン帝国側でスウェーデンが参戦しましたが、露土戦争そのものはロシア側の勝利で終戦していましたし、現時点でも陸海ともにロシア有利で推移しています」
レイはd4へとポーンを移動させる。
「やはりそうか」
そう言って黒のポーンで動かしたばかりの白のポーンを取った。
「かつては隆盛を極めたオスマン帝国も今となっては見る影もないな」
「そうですね」
実際、この後の19世紀においても露土戦争は合計で4回も起きるが、英仏の支援を受けたクリミア戦争を除いて全てロシア側の勝利で終わる。
ナイトをd4に動かし、レイが黒のポーンを奪う。
「しかし、恐るべきはスヴォーロフ将軍だな」
感嘆の吐息を洩らしながら、ヘンリーはc5にポーンを動かした。
「かの将軍は10月にあったキンブルン岬の戦闘でまた勝ったというではないか」
「この前哨戦の敗戦によりオスマン軍の将校、兵士達は彼の存在をより深く畏怖することになるでしょう」
そう言うとレイがナイトをb3に置く。
「ただでさえ前回の露土戦争でもオスマン帝国軍はスヴォーロフ将軍によって手痛い被害を出しているからな」
「コズルドジの戦いですね」
コズルドジの戦いとは第一次露土戦争で、当時少将であったスヴォーロフ少将が8000の軍を率いて40000のオスマン軍を撃破した戦闘だ。
「あの戦いはオスマン帝国にとっての決定的な打撃となり、ロシアにとってはオスマン帝国から数多の利益を引き出させた大勝利であったからな」
当時のことを回想しつつ、ヘンリーはナイトをf6に展開する。
「ですが、真に恐ろしいのは――」
一呼吸おいて、レイはナイトをc3に動かした。
「その戦いも将軍の戦績からすれば数ある輝かしい勝利の一つでしか無いところでしょうね」
アレクサンドル・スヴォーロフが残した栄光ある功績は、ワルシャワ踏破や4倍の連合軍撃破など数多あれど、一言でスヴォーロフの凄みを表すならこの言葉が最初にくるだろう。
生涯戦績60戦無敗。
――軍事史上まれな不敗の将軍なのだ。
「ああ、間違いなく当代随一の戦術家だな」
そう応えて、ヘンリーが黒のポーンをa6に。レイも白のポーンをf3に進ませる。
「話を戻しますが、今回の露土戦争終戦以降も欧州から戦いが無くなる事はありません」
同時に、黒のポーンがb5に置かれた。
そこで一旦、レイは手を休める。
「むしろ、これまでの戦争はこのチェス同様の序盤戦に過ぎないのです」
チェスの方はお互いにキャスリングも行っていない序盤戦。
「ここから欧州が未曽有の大戦に突き進むことになるのはお話しましたよね?」
「ああ」
神妙な顔つきでヘンリーは頷いた。
(頃合いだ。盤上を動かすとしよう)
ビッショップを掴んで駒をe3に。
「では、そろそろ軍需産業に参入しませんか?」
――これによりナイドルフ・ヴァリエーションの一つであるイングリッシュ・アタックのポジションが完成する。
ヘンリーが僅かに眉を動かす。
「……フレッドはこれまで派手に動きすぎている。そして背後のアルフォード家の存在も知られていないはずもない。そのうえで軍需産業に参入すれば痛くもない腹を探られることになるぞ?」
黒のポーンがb4に出てきた。
「成り上がり者が疎まれるのは必然なのだからな」
「でしたら、いままでのように最初から大々的に動かなければいい」
レイはナイトをd5に攻め込ませる。
言葉とは裏腹に盤上ではアウトポストに大きく攻勢をしかけていた。
「ここ数年は領民から鍛冶師になりたい者を募り大陸の高名な銃職人の元に派遣しておくだけならばそれほど悪目立ちすることもないでしょう」
少し思案して、ヘンリーがビッショップをb7に指した。
「都合のいいことに来年はロイ兄さんのグランドツアーが予定されています。そこに付き従う使用人たちの中に銃職人希望の領民達を伴えば一時的に周りの目を誤魔化すことも可能でしょう」
18世紀、イギリス上流階級の裕福な家では、息子に文化的先進国のヨーロッパの国に旅に出し、そこで本場の美術、音楽、文化などに触れて教養をつけさせる〝グランドツアー〟と呼ばれる教育の習慣があった。
そして、ロイもパブリックスクール卒業後、大学に入学する前の一年間をグランドツアーに当てていた。
レイはそこに目を付けたのだ。
ビッショップをb4に展開しながら、さらに思考を巡らせる。
(それに1787年といえば、ラキ火山噴火やフランス革命前夜の混乱でグランドツアーを自重する上流階級の子弟が増えているかといえばそうでもない)
それは去年に結ばれたイーデン条約第4条で、英仏臣民にはパスポート無しに加え、免税で自由に入国する権利が与えられたことが追い風となっていたからだ。
「高名な銃職人を招いたり、小銃のパーツを製造する下請け企業を設立するのは、フランス革命が起きてからですね」
「確かに再び情勢が混乱すればフレッドとアルフォード家が注視されることも減少するだろうが、そもそも軍需産業分野で成功する公算があるのか?」
黒のビッショップがe7に移動する。
ヘンリーの言葉は至極最もだ。
d2にクイーンを進ませると、レイが再び口を開いた。
「アルフォード家では施条式マスケット銃を中心に取り扱おうと考えています」
ルークとキングのキャスリングを行うヘンリー。
「施条式マスケット銃?――あれが戦場で役に立つのか?」
レイも左側のルークとキングをキャスリングして疑問に答える。
「次の大戦では、指揮官や砲兵を狙撃するという戦術が確立されます」
「なるほど。そのための施条式マスケット銃か」
黒のナイトがc6に押し上がる。
すかさず白のナイトでf6にある黒のナイトを取り去った。
「なにより現在のイングランドでは、施条式マスケット銃が設計、製造されていません」
「そうか……フレッドが今からライフル銃の製造に取りかかれば、その権益を独占できるわけだな」
ヘンリーがビッショップでf6のナイトを奪う。
負けじとレイもクイーンで、b6のポーンを盤上からどける。
盤上の激しい攻防。
互いの駒が段々と少なくなっていく。
「私はこの国で最初に正式採用される施条式マスケット銃――ベイカー銃を設計した銃職人ことエゼキエル・ベイカー氏も知っており、彼に依頼すればこの世界でも同質の性能に近いものが完成すると考えています」
それに史実と違い軍部主導での設計でないゆえ、既得権益などの様々なしがらみに縛られる必要が無い。
(アルフォード家主導なら膨大な下請けメーカーに発注して、組み立てまでの工程が複雑化し量産が出来ないという顛末にもならないはずだ)
レイが逡巡していると黒のナイトがd4に斬り込んできた。
「とはいえ、これまでと違い随分とハイリスクな提案だな」
「……ええ、否定はしません」
痛いところを突かれたレイが、クイーンをg3に指す。
刹那、動揺して下手を打ったことに気が付いた。
(――しまった!?キングしか見えていなかったかッ)
顔を歪ませるレイとは対照的に、ヘンリーの口元が弧を描いた。
「まあ、軍人となる息子を間接的とはいえ支援できるのだ。少々の算段がなくとも賭けてみてもいいと思っている」
これまでの貢献もあることだ、とヘンリーは頬を緩ませて付け加える。
しかしそれも、一瞬の出来事――。
瞬く間にその表情が引き締まり、こう告げた。
「だが事がこれほど大きい以上、簡単には了承できないのは理解できるな?」
「……はい」
「であれば、ここは一つ賭けをしないか?」
一旦、手を止め、ヘンリーが盤上を指さす。
「ここまでの手つきを見ていても、それなりやり込んでいるようだ。ならばいっそこのゲームの決着でその提案を受け入れるのかどうか決めるというのは?」
「……本気ですか?」
レイは唖然としてヘンリーの顔をまじまじと見つめる。
「ああ、本気だとも」
その言葉からは、多額の資金が移動する重要な案件をチェスという盤上遊戯に――危険な冒険に結果を委ねることに何の疑問も抱いていないことを伺わせた。
(そういえば、イギリス貴族や紳士にとって賭博とは、神聖な儀式的側面があったか)
命を賭けるギャンブルである決闘が、上流階級の者に限り許されていた特権(決闘有資格者)なのもその精神性が大きく影響しているのだろう。
(もう転生してから10年近く経とうというのに、未だカルチャーギャップを感じることがあるとはな……)
日本人だった頃の儒教精神の名残りで、どこか賭博を悪徳視していたようだ。
「……命を賭けない決闘というわけですね」
「その通り。仮にレイが敗北することがあれば、軍需産業参入はしばらく保留だな」
レイが盤上を今一度、俯瞰する。
形成はほぼ互角から僅かに白が有利というところ。
(さて、どうする?)
フランス革命戦争までにはそれほど時間は残されていない。
可能なら開戦までにベイカー銃を製造したいのは確かだが――。
そこまで思考して軽くかぶりを振った。
(いや、悩む必要などないか)
どこか自虐的にレイが唇の端を歪める。
――何故なら俺は、戦争という命を賭けるある種のギャンブルに自ら挑むほどの、古典的な英国紳士なのだから。
「その挑戦をお受けしましょう」
レイの返事にヘンリーは満足げに歯を見せると、何も言わずにクイーンをb6へ。
「――……」
「――……」
部屋は先ほどとは異なる緊張感で満たされた。
固い面持ちのレイがポーンをe5に指す。
即座にヘンリーが仕掛ける。
「――チェック」
黒のナイトでb3の白のナイトを取り除くと同時にチェックをかけた。
「――ッ」
どの駒で取るべきか――。
しばらく悩んだ末、ビッショップでb3のナイトを排除した。
「ふう……」
その場を凌ぎ、ほっとひと息吐く。
何でもないチェックなのに想像以上の重圧がレイの肩に重くのしかかる。
直後、無言で黒のビッショップがb7に。
今度は此方の手番だ――。
一度、深呼吸して、ルークをd7まで移動させる。
古くから七段目のルークは急所として有名だ――。
ヘンリーが眉間の皺を寄せながら、f8のルークをe8に移動させる。
(その応手は読んでいた)
即座にh1のルークをd1に動かしてルークを重ねた。
「……仕方ない」
そう呟いたヘンリーがa5にポーンを出す。
レイはポーンをe6に進めると、それを黒のポーンで取り去る。
これで完全に主導権を握る事はできた――。
確信をもったレイはビッショップの駒をh6に送った。
「……ふう」
何かを悟ったのか、ヘンリーは深く息を吐きg6にポーンを指す。
(後は仕上げだ)
白のクイーンをe5に。ヘンリーはビショップをf8に下げることで応える。
が、即座にレイは6hのビッショップで盤上から取り除く。
「終わりだな」
ルークでf8のビッショップを排除したところで、ヘンリーが肩の力を抜いた。
その顔はどこか清々しい。
これが名誉の借金というものだろうか――。
レイはコツン、とクイーンをg7に置いて、最後まで付き合ってくれたヘンリーに感謝しながら宣言した。
「――チェックメイト」