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イーデン条約

 グレゴリオ歴 1786年 9月28日




 静寂に包まれた早朝。

 アルフォード家の所有地である森には複数人の人影があった。

 その中の一人であるレイは、片膝を突き、ヤーゲル銃(ドイツ製ライフル)を構えている。

 息を殺して、狩猟の獲物を待っているのだ。


 木の葉の間から差し込む強烈な木漏れ日にレイが目を細める。


「……出て来たか」


 待望していた獲物の姿を捉えた。

 約50ヤード先に、森の奥深くから現れた親子の鹿。

 レイは、狙いやすい手前に位置した小鹿に照準を合わせる。


「……――ッ!」


 刹那。

 響き渡った銃声で、早朝の森は騒然となった。

 傍らの小鹿が血を流して倒れると、咄嗟に親鹿が茂みに身を隠し、驚いた周囲の野鳥も飛び去っていく。


「ふぅ……」


 深く息を吐いて、レイが銃口を下ろす。


「――見事だったぞ」


 背後から声がする。

 振り返れば、狩猟服のヘンリーとその背後に控える大男。

 髪を短く刈り揃え、筋肉質な体格の男の名前はジョン・デニー。彼は、アルフォード家の者が狩猟する際の引率役だ。

 さらに二人の足元にはブラック・ハウンド種の猟犬。

 彼らは初めて獲物を狩るレイを後ろから眺めていたのだ。


「去年から小銃を取り扱うのは許可したが、これほど上手くなっていたとはな」

「誠に。とても初めてとは思えない技量でした」


 レイは絶賛の二人に一言、感謝を述べる。


「おほめに頂き光栄ですが、今回はお二人の助言もありましたから」


 そして寄ってきた小型の猟犬を撫でながら言う。


「リックもよく獲物を見つけて来てくれた。感謝するぞ」


 このブラック・ハウンドは、数年前からアルフォード家で飼ってきた猟犬だった。


「私も腕が鳴る。紳士としてまだまだ息子に狩猟で負けるわけにはいかないな」

「お供します。旦那様」


 ジョンが軽く頭を下げる。

 18世紀の狩猟はイギリスの上流階級アッパークラスにとって、もっとも華やかなスポーツだ。

 そして狩猟権と土地所有は密接に結びついており、そのことから狩猟(鹿などの大型四つ足動物)は上流階級アッパークラスだけの特権であった。

 ただ、庶民にも例外的に野兎や野禽類などの狩猟は許可されている。


「それでこの小鹿はどういたしましょう?」

「初めてレイが狩ったのだ。家の料理人コックに調理をさせて家族か知り合いの誰かにでも振る舞えばよい」


 現代の釣りのような感覚か、とレイは思う。

 貴族や紳士は猟師と違い生きるためではなくスポーツとして獲物を狩るが、最終的に至るところは同じなようだ。


 ――ところで誰を招待しようか?






 帰宅後の中庭。

 もはや日課となったイアンとの訓練である。

 今日から実践的な訓練に入るようで、レイとイアンは対峙していた。

 イアンは木剣を自然体で構えている。

 彼の表情に気負いはなく、全身の佇まいにも隙を全く感じさせない。

 少し悩んだ末にレイが中段の構えをとった。

 眉間の皺をよせたイアンが、訝し気な眼差しをこちらに向けてくる。


「なんだその構えは?俺は教えていないぞ?」

「それはこれから分かりますよ!」


 その言葉を口火に、レイが地を蹴った。


 そもそも間合いからして違うのだ――。


 体力も筋力も負けている以上、距離を取られればその時点で勝機は無い。


(恐れずに踏み込まなければ戦いの土俵にすら上がれない以上先手必勝あるのみ)


 迎え撃つイアンの間合いに踏み込んだ。

 同時に、木剣の刺突を躊躇なく繰り出す。

 それをしゃがみ込みことで、イアンは悠々と避けた。


 ここだ――。


 顔面めがけて渾身の膝蹴りを打ち込んだ。

 が、それを予測していたイアンにあえなく手のひらで受け止められる。

 膝を掴まれたことでレイの顔が歪んだ。


「しまっ――」


 次の瞬間には、華奢な躯体が大きく跳ね上がった。


「ふぐっ!」


 肺から空気が吐き出され、何度も地面を転がる。

 数メートルほど回り続けて、やっと勢いを失った。


「ごほっ……うぐ……!」


 レイは顔中泥まみれになりながら倒れ伏す。

 そんな彼をイアンが憮然と見下ろして、ゆっくりと歩み寄ってくる。


「あまりに自分にとって都合がいい展開だとは考えなかったのか?」

「――ッ」


 その言葉に全てを察する。

 しゃがみ込んだのは、フェイクで全てこのカウンターのため伏線――。

 所詮、十歳の子供の突きなのだ。

 改めて思い返せば、イアンは最初の突きを弾くことも、後ろに避けることも出来た筈だった。


(それなのに俺は……酷い勘違いと傲慢だッ)


 悔しさの余り、レイが小さな身体を震わせる。


「何をチンタラしている!悔しいならば身体を動かせ!」

「ッ――サー・イエス・サー!」


 こうして中庭には木剣を打ち付け合う甲高い音が響き渡った。



 数時間後。

 レイは背中から地面に倒れ込む。


「はあ、はあ……」


 痛々しい青あざが服の隙間から覗いていた。

 あれから何度も木剣で叩きのめされたのだ。


「常々思っていたが、坊主は理屈が先行しすぎるところがあるな」

「そうですか」

「ガキなんだから、少しは後先考えずに行動してみろ」


 イアンの助言に、レイが顔を引き締めてうなずいた。

 そしてふいにそう問いかける。


「そういや、最初の構えは何だったんだ?」

「ああ、あれですか……」


 あれは剣道でよくある正眼の構えだ。


「何でも極東の島国に伝わる剣技らしいです」

「……また変なことを知っているな」


 呆れたような物言いをして、イアンはため息を漏らす。


「確かに合理性は伝わってきたが、今の坊主ではとてもじゃないが扱い切れていない」

「まあ、そうでしょうね……聞きかじりの剣技でしたから」


 前世の武術で最も馴染みがあった剣道。

 しかし、生涯の大半が闘病生活だったレイは竹刀すら握ったことがなかった。


(見たこと無い構えで一瞬でも相手の虚を突けるかも、などと――甘い勘違いをしていた過去の自分を叩き殺したい)


 恥かしさから、レイは顔の半分を手のひらで覆った。


「それに一対一に特化した剣技みたいだな」

「やはり実戦では使えませんか」

「いや、そうとも言えないぞ」


 意外なことにイアンが首を左右に振った。


「特に坊主のような紳士の出ならな」

「どういう意味ですか?」


 理解の追いつかないような顔でイアンを見上げる。


「一騎打ちだよ」

「い、一騎打ちですか?」


 一瞬面食らったレイに、イアンは真剣な表情で頷き返す。


上流階級アッパークラスの子弟同士が一騎打ちする際に、戦場でも一対一の場面が訪れるはずだからな」

「そんな……本当の話なのですか?冗談ではなく?」

「坊主が何をそんなに驚いているのか知らないが、別段珍しい話ではないぞ?」


 すっと瞳を眇め、イアンは倒れ伏すレイをまっすぐ見据えた。


「フレンチ・インディアン戦争や先日の反乱(アメリカ独立戦争)でもイングランドとフランスの士官クラスの将校が対峙したときは、兵卒を立ち退かせサーベルによる一騎打ちがよく見られたからな」


 思わず目をぱちくりとさせる。

 ――もう18世紀も終わろうとしているのに一騎打ちだと?


「で、では、もし次に戦争が勃発するようなことがあれば戦場で一騎打ちが?」

「当然だろう?」


 至極当然な口調でイアンはそう言うが、レイにとっては青天の霹靂だった。

 それだけ一騎打ちとは剣や弓が飛び交う中世の産物だという印象が強かったのだ。

 風に身を委ねながら、レイは考える。


(18世紀末ともなればすでに産業革命が起きて技術も戦争も発展し、時代区分的にも前近代で――いや、近代という言葉に引きずられ過ぎたのか?)


 冷静になって思い返せば、欧州で貴族や紳士という特権階級の権力はまだまだ根強い。

 それに未だ決闘も廃れていないぐらいだ。一騎打ちというような旧時代の産物が戦場に残っていてもそれほどおかしくないのか――。


「――納得できたようだな?」


 見下ろすように立っていたイアンが声をかけてくる。


「ええ。私にとって一騎打ちとは物語の世界でしたから、こんなに身近な物だったとは正直意外です」

「……相変わらず変なところで無知な奴だな」


 呆れきった口調でイアンがそう返す。


「だが、理解できたならそれでいい。これからはさらに厳しく鍛えてやる」


 その返事に、レイは苦笑しつつ立ち上がった。


「いけ好かない貴族のガキにやられないようにな」

「感謝します。アスカム曹長」







 時計の針が午後4時を回ったころ。

 アルフォード家の食卓には、家族以外にもう一人の少女イヴがいた。

 彼女はレイの招待を受けてディナーに呼ばれたのだ。

 皆が揃ってすぐに使用人たちが料理を運んでくる。


「これがレイ様の捕らえた小鹿のローストですか」


 レイの隣に座っているイヴが感嘆の声をあげた。

 彼女の前に差し出されたお皿からは、ローストの香ばしそうな匂いがこちらまで漂ってきそうだ。


「狩猟にもビギナーズラックは存在するのね」

「本当ですか?実はお父様が獲ったのではなく?」


 イヴとは対照的なアルフォード家姉妹の反応。


「ははは、二人とも信じられない気持ちも理解できるが、この小鹿は間違いなくレイが獲らえた獲物のだぞ」

「まあ、誠ですか?」

「……どうして母上がお答えするのですか?」


 エミリアのあんまりな反応に、レイがそうぼやいた。


「しかも一発で仕留めていたのだからな」

「それは素晴らしいですね」


 見事です、とエミリアの屈託のない明るい笑み。


 先ほどの言葉をまるで無かったことのように微笑まれても反応に困るのだが――。


 家中での扱いに心の中で文句を言いつつ、レイは食事を進めた。

 その拗ねたような態度にヘンリーは苦笑いして、ワインの注がれたグラスに口をつける。


「――うまいな」

「ええ。旦那様」

「このフランス産のワインも先日結ばれたイーデン条約(英仏通商条約)により手に入れやすくなるのか」


 今月、イギリスとフランスの間でイーデン条約――英仏通商条約が締結された。

 これによりルイ14世(フランス・ブルボン王朝の最盛期を築いた人物。渾名は太陽王)以来継続していた英仏の経済戦争が実質的に終結したのだ。


「この条約によって我が国はフランスという巨大市場を得ることができた」


 産業革命により大規模生産が登場したことで、木綿、毛織物産業という新鋭製造業は販売のための自由市場を確保することが至上命題であった。


「フレッドの商社が生産した商品もフランスで莫大な利益を上げ続けるだろう」


 排他的特権を享受し世界的な競争力を無くしたフランス綿工業と、技術革新(産業革命)により蒸気機関と機械化と工業制を取り入れ、コストを大きく下げることに成功したイギリス綿工業。


 どちらが勝利するかは火をみるよりも明らかだ――。


 ヘンリーが続けざまに上機嫌な口調で称賛する。


「そのような我が国有利の条約を締結するとは、ピット首相は父親譲りの傑出した政治家だな」


 そして通商拡張を容易にさせる今回の条約はアルフォード家のような新鋭製造業と共存関係にある者達からの支持を得えていた。


「そうですね。特に今回の条約で関税を下げたのは革新的で合理性のある手段だったと思います。長期の戦争で負債返済が重くのしかかっている我が国の財政を少なからず改善させるでしょう」


 レイの返事に、ティナとイヴが困惑する。


「なぜ関税を下げるといいのですか?」

「私も税収が減ってしまうと思いますが……」


 二人の疑問にレイが答えようと口を開くより先に、イザベラが即座に返答する。


「貿易を活発にして総数の方を増やすつもりでしょう」


 レイは内心、舌を巻いた。


「何よ、その目は」

「いえ、姉さんが政治、経済に詳しいとは知りませんでした」

「ふん。これぐらい何でもないじゃない。あまりバカにしないで」


 イザベラは不機嫌そうに銀の髪をかきあげる。


 ――彼女はそう口にしたが、この時代政治経済に詳しい女性というのは本当にまれである。


 そもそも、女性がその様な教育を受ける機会がないのだ。

 年齢のことを差し引いてもティナやイヴの反応が普通であろう。


 イザベラの返事に虚を突かれた形のレイだったが、すぐに思考を切り替える。


「ピット首相は姉さんが言った理由で関税を下げること以外にも関税徴収を単純化したことで、今まで山のように溢れていた密輸も減らし、結果的にこれまで以上の歳入をもたらすつもりなんだ」

「それだけで、これまで悪いことをしていた人がやめるでしょうか?」

「関税が下がり関税徴収も単純化したことで、入国の手続きの手間や費用が減る事は間違いない。手を汚さなくとも利益が出るなら大抵の商人は密輸なんてしないだろう?」


 密輸はリターンも大きいがリスクも大きいから、と。レイは付け加えた。

 ティナとイヴが曖昧に頷くのを見て、ヘンリーは苦笑いする。


「ふむ。お嬢さん方にはやはり難しい話だったか」

「いいではありませんか」


 エミリアが二人を気遣うような眼差しを向ける、


「二人とも気にする必要はありませんよ。女性の知性と教養は政治を語れるところにあるのではないのですから」

「そうだな。二人の歳であれば今回の条約がアルフォード家の更なる繁栄を約束することさえ分かっていればいい」


 その返事で家族が一様に頬を緩ませるなか、レイはヘンリーの言葉を反芻していた。


 更なる繁栄を約束する、か――。


(残念だが、史実に置いてイーデン条約はそう長く続かない)


 何故ならフランスで不況に陥った全ての製造業者を中心に激しい抗議を受け、1793年1月にフランス革命政府の手でイーデン条約が破棄されるためだ。


 レイはヘンリーのグラスの中で揺れるワインをじっと見つめる。



 歴史の転換点は刻一刻と近付いていた。


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