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ゴシック小説

 グレゴリオ歴 1785年 7月15日




 正午の鐘が鳴った昼下がり。

 屋敷の裏口にほど近い場所にある仕事部屋ジェントルマンズ・ルームで、レイとヘンリーが向かい合っていた。

 ヘンリーは執務机の上にある資料を取り、レイに手渡す。

 受け取ったそれは、定期的に届いているフレッドからの事業報告書だった。


「フレッドによる新たな事業、紡績工場の建設はマンチェスターやバースなど水力のある地方都市を中心として順調に進めているそうだ。年が明ける前には操業できるだろうとその報告書にも書かれている」

「綿工業はこれからまだまだ伸びますから。紡績工場の方がひと段落したら織物工場も建設するように助言しておきたいですね」


 来年の英仏通商条約の影響でイギリス綿製品の国外需要が加速度的に高まるからだ。


「それに先日の裁判によってアークライト氏の特許が正式に無効となったことが大きいです。これでフレッドが水力紡績機を誰に憚ることなく使用できますから」


 従来のジェニー紡績機より太く強い糸を大量に生産できる水力紡績機。

 その開発者であるリチャード・アークライトの特許が史実通り無効となったため、水力紡績機を活用した紡績工場を誰でも建設することが可能となった。

 水力紡績機はこれから急速に普及するだろう。


「ああ、それと特許といえば、瓶詰めの独占権もそろそろ期限切れですか」

「延長を申し出てもこの情勢では難しいだろうな」


 ラキ火山噴火の影響から欧州では異常気象がここ数年多発していた。

 その中でも肥沃な土地に恵まれているフランスの影響は大きく、農業基盤が致命的な打撃を受け、深刻な食糧不足が続いている。


(史実では、今年から数年連続で食糧不足に陥り、フランス革命の大きな要因のひとつとなっていたか)


 それにイギリスでも噴火の混乱が完全に収まっているとは言い難い。

 価格の高騰や有事に備えたい政府からすればフレッドの食品加工会社に限らず瓶詰めをどんどん製造して欲しいというのが偽りのない本音だろう。


「では、そろそろ瓶詰めの改良品を開発してもいいころですかね」

「改良品?」

「ええ。缶詰と呼ばれる保存方法なのですが――」


 鉄板の内側を錫でメッキしたブリキ缶の容器を作り、あとは瓶詰めと同じ原理で食品を詰め、加熱し真空にしたあと、蓋をロウや錫でふさぐいうもの。


「原理自体は瓶詰めの応用なので、ブリキ缶の開発さえできれば、瓶詰めより持ち運びやすく保存状態もよい保存食が開発できる筈です」

「ふむ。ならばフレッドに伝えておこう」





 翌朝。

 アルフォード家の領地にある見晴らしのよい原っぱにレイとイアンの姿があった。

 レイはイアンに背を向け、マスケット銃を構える。

 目標は50ヤード(45メートル)離れた先にある積み上げられたレンガ。


 不発しないでくれよ――と祈りながら引き金を引く。


 鶏頭コックの形をした打ちプリズン

 そこに挟んだ火打ち石がカチッと前方の当たり金を打ち付けると火皿の中にある黒色火薬がパッと点火する。


 タァン!


 一拍遅れて主装薬が爆発し、重い衝撃を肩に感じた――刹那、鉛の弾丸が銃身から叩き出された。


 巻き上がった硝煙が視界を遮る。

 少しして、風が吹いた。


「……命中したか」


 煙が晴れるとイアンがそう呟いた。

 レイも確認すれば、確かにレンガの中央から僅かに逸れたところに、弾痕が発見できた。

 小銃での射撃訓練を始めて三ヶ月――。

 視線を手元に落としたレイは、おもむろに口を開いた。


「これが本物の戦争で実際に使われているマスケット銃――ブラウン・べス、ですか」

「ああ。そいつは四つあるバリエーションのうちのインディア・パターンだな。俺もそのブラウン・べスを片手に戦場を駆け抜けてきた」


 ブラウン・ベスは1722年の採用から、現在に至るまで英国陸軍の制式兵器を務めてきたイギリスを象徴する小銃だ。


(前世では、もう半世紀先の19世紀中ごろまで使用されという記録もあったか)


 大英帝国を築いた銃が手元にある――レイは不思議な気持ちになった。


「ブラウン・べスに限らず滑腔式マスケット銃と呼ばれる小銃の有効射程は100ヤードといわれている」


 だが、とイアンの目つきが変わり、険しさを帯びた口調になる。


「実際の戦場で放たれるのは敵兵士の瞳が見えた距離。ヤードでいえば50ヤード~70ヤードというところか。確実な殺傷力を有する距離としてはその辺りが妥当だろう」

「しかし新大陸の戦場では、植民地軍の施条ライフリングが施されたマスケット銃でブラウン・べスの有効射程を遥かに超える距離から撃たれた、と耳にしましたが?」

「……よく知っているな」


 イアンはレイの指摘に眉をひそめる。


「先の反乱では大半の植民地軍はブラウン・べスを使用していたが、一部の民兵ミニットマンやプロシア(プロイセン)傭兵が東部の森林地帯で、いわゆる施条式マスケット(ライフル)銃を用いてこちらを狙撃してきたことがあったのは確かだ」

「……ゲリラ戦ですか」


 何気なく口にした一言に、イアンが疑問の表情を浮かべる。


「ん?ゲリラとは何だ?」

「あ、いえ……スペイン語で小さな戦争という意味ですが」


 そういえば、ゲリラという言葉が広まるのはナポレオン戦争期での半島戦争がきっかけだったか――。


「それで、どれぐらいの性能差があったのですか?」

「だいたいブラウン・べスの有効射程に比較して二倍というところだ。命中率も向こうの方が上だったな」

「……ブラウン・べスの二倍」


 と、レイは50ヤード先の標的を見ながら言う。


「此方からは届かない距離で高い命中率を誇る敵軍に一方的に撃たれるというのは、想像以上に士気が下がる。俺も何度か苦しめられた」

「実戦帰りの経験から施条式ライフルマスケット銃は戦場で有効だと思いますか?」


 イアンは腕を組んで思案顔を見せる。


「確かに森林地帯などの特定な戦場では、長い有効射程と命中率の高さという利点を活かせる。それでも施条式ライフルマスケット銃には欠点があり従来の滑腔式マスケット銃の倍は装填時間が必要だ。先の反乱同様に戦術次第では有効であるのは間違いないが、この国で大量に導入されても扱いきれないだろう、というのが正直な感想だな」


 それはレイにとって意外な反応だった。


(しかし、よくよく考えてみると無理もないのか)


 あのナポレオン・ボナパルトすら、当初は射撃間隔の遅さからライフル銃には見向きもしなかったぐらいだ。

 未来を知らない者達からすれば、そう簡単に実用には踏み切れないか――。


「実際、ある程度の射程距離と命中率は弾幕で補える」


 じろりと睨めつけてイアンが言う。


「何よりそれだけ戦場では早く撃つというのが重要だ。何故なら射撃間隔が短ければ短いほど総合的な火力に繋がり、何といっても先に殺さなければ、此方が殺されるのだからな」


 確かに道理であった。

 射程距離と命中率は一糸乱れぬ一斉射撃で補えることもあるが、撃つのが遅いのはどうしようもない。


「だからこそ、次は坊主を毎分3発で撃てるように訓練する」

「……毎分3発」


 イアンの言葉を反芻して、レイが頭を巡らせる。


 18世紀の軍隊では小銃の装填時間は、練度の低い部隊が毎分2発、平均的な部隊は3発で、練度のいい部隊では毎分4発ともいわれていた。


「アスカム曹長は、毎分でどれぐらい撃てるのでしょうか?」


 歴戦の軍人がどれほどのものなのか、レイは興味本位で尋ねた。

 イアンは不敵な笑みで答える。


「俺か?俺は毎分5発というところだ」


 驚愕に見開かれたレイの瞳。

 その何気ない一言が、イアン・アスカムという戦士が潜ってきた修羅場の一端をうかがわせた。






 あれから数時間後。

 訓練を終えたレイが屋敷の廊下を歩いていた。


「ん?」


 そこで、ふと気づいたように足を止める。

 微かな話し声が耳に届いたのだ。

 そしてどうも声の源は、この先の客間からだった。

 僅かに開いているドアから、中をのぞき込む。

 広い部屋の中央にはクラシック模様のテーブルを挟んで向かい合う二つのソファ。

 その片側のソファに二人の少女が並んで腰掛けていた。


「ティナと……もう一人はイヴか」


 楽しそうにおしゃべりしている。

 イヴは初めて出会って以来、アルフォード家の住民と交流するようになった。中でもティナとは一番仲がいい。

 すると二人は何かを取り出した。


「あれは、本か?」


 それなりに新しそうな表紙から、刊行したばかりの書籍であることがわかる。


「何の本なんだ?」


 レイが気になって身を乗り出した。

 ――直後、体に当たったドアが軋んで周囲に鈍い音を響かせる。

 ぱっとこちらに振り返った二人の少女と目が合う。

 レイは気まずい思いに駆られた。


「あ、ああ、二人とも」

「……のぞき見は趣味が悪いですよ。レイ兄さん」


 ティナの恨みがましいジト目。

 そんなつもりは無かったが――。

 軽くかぶりを振ったレイは、ため息交じりの声で話題を投げる。


「それで二人は何をしてたんだ?」

「……何でもいいでしょう」


 ティナは手に持っていた本を小さな身体で隠す。


「……?」


 その行動を不審に思ったレイが、隣の少女に視線で問いかけた。

 しかし、イヴも顔を赤くして目を逸らす。

 二人の様子に、レイは内心首をかしげた。


(なんだ?言いにくいことなのか?)


 顎に手を当て思考を重ねる。


(このぐらいの年齢の少女が読む本で、尚且つ隠してしまうようなジャンル、か)


 18世紀末、イギリス、流行、価値観――それらが加味されれば選択肢はそう多くなかった。


「――ゴシック小説か」


 もしくはゴシック・ロマンスとも呼ばれ、18世紀末から19世紀初頭にかけて大流行した中世風の奇怪恐怖小説だ。

 後世ではSF小説やホラー小説の源流とも評されていた。


「うぅ……」


 ティナが恥ずかしそうに呻いた。

 イヴも更に頬を紅くして目を伏せているし、どうやら図星だったようだ――。


「それで題名は?どんな物語なんだ?」

「え……」

「!?」


 二人が意外そうな表情を浮かべる。


「何とも思わないのですか?」

「何ともとは?」

「……私達のことを下品で恥ずかしい女だと」


 横から口を挟んだイヴが、そう言って深くうなだれた。

 18世紀では小説蔑視の傾向はまだまだ根強い。


 ――二人もその影響を受けているのか、と。レイは声に出さずに呟いた。


「二人はゴシック小説の何に引き目を感じているんだ?」

「それは古典や十四行詩ソネットに比べれば、ゴシック・ロマンスなんて低俗だと……皆が……」


 言いよどんだティナに、レイがやさしく諭すような口調で告げる。


「知性と教養を身につける格調高い詩と個人的な時間を楽しむゴシック小説。この二つに優劣などないよ」

「え?」

「それぞれの用途が違いすぎるじゃないか。礼服とナイトウェア(パジャマ)を比較するようなものだ」


 たしかに社交界にナイトウェアで出席すれば常識を疑われる。しかし、だからといって寝る際にまで礼服ではリラックスできない。


「礼服とナイトウェアの違いが理解できない愚者たちに、わざわざ引き目を感じる必要はないと思わないか?」


 肩をすくめて問うと、二人が目を丸くしてこちらを見つめていた。


 少し熱くなってしまったかな――。


 レイはごほん、と咳払いしつつ話を戻した。


「それで、結局その本の題名は?」

「えっと、ホレス・ウォルポール伯爵の『オトラント城奇譚』です」

「王道だな。ティナが持ち寄った作品は?」

「これです」


 差し出したのは、クレアラ・リーヴ著『イギリスの老男爵』。

 どちらも、舞台は中世風の城でテーマは相続争い、荒唐無稽であるが基本的に勧善懲悪に落ち着き、恐怖を娯楽として楽しめるゴシック小説としては雛型ともいえる作品たちだ。


(いや、そもそもゴシック小説の先駆けとして1764年に刊行したのが『オルトラント城奇譚』なので、寧ろこの作品が後のゴシック小説の雛型になったというべきか――)


 物思いに耽っていると、イヴがためらいがちに口を開いた。


「あの、先ほどの話から、レイ様もゴシック・ロマンスに思い入れがあるようでしたが……」


 期待の眼差しでこちらを見上げる。


「レイ様も何かお好きな作品が?」

「ああ、私にも好きな作品が――ッ」


 言いかけて、レイは気づいた。


 前世で読んだゴシック小説は、『ユドルフォ城の秘密』(1794年)『ケレイブ・ウィリアムズ』(1794年)『ノーサンガー・アビー』(1817年)ほか、ジェイン・オースティン作品いくつか――。

 つまり、現時点では未だに刊行されてない作品ばかりだ。


(21世紀でも嗜まれていたのは、どれもゴシック小説の絶頂期である1790年代以降の物が多かったから無理もないのだが……)


 イヴとティナが怪訝とした表情を見せた。

 とにかくこの場を誤魔化そう、と。レイは語り始める。


「そういえばタイトルはちょっと忘れてしまったが――愛読していたゴシック小説の世界に生まれ変わった主人公が、自分はヒロインをいじめる悪役であることに気が付き、予定された悲劇的結末を回避しようと奮闘する――という話の作品を読んで特別好きになった覚えがあるな」

「ん?そんなゴシック小説ありましたか?」

「少なくとも娯楽小説ではあったよ」


 具体的には200年以上先の前世で、だが。


「面白そうな作品なのでぜひ読んでみたいです」


 期待を込めた、無垢なるイヴの笑み。


 18世紀に悪役令嬢モノの面白さを理解するとは、なかなか先進的な少女だ――。


 すると細い眉を寄せたティナが憶測を口にする。


「現実にありえない設定なので、おそらくゴシック・ロマンスの類だと思われますが……」


 ティナの一言に、レイはふと自分の身体を見下ろした。


「意外と、事実は小説より奇なり……なのだがな」



 その呟きは誰の耳にも聞こえることなく、ただ虚空に吸い込まれた。

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