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パブリックスクールとグラマースクール

 グレゴリオ歴 1784年 10月18日




 ディナーの時刻。

 広々としたダイニングルームの食卓には、いつもより豪勢な食事が並んでいた。


「我が夫ヘンリー・アルフォードが准男爵に叙されたことを祝しまして」


 エミリアの口上を口火に乾杯の声が重なる。

 レイもグラスを掲げ、それから果汁ジュースに口を付けた。

 すると、食卓の一番奥に座っているヘンリーが嬉々とした顔で口を開く。


「しかし、我がアルフォード家が准男爵に叙されるなど夢のような話だ」


 この6月の終わりごろに去年のラキ火山噴火に対する支援という名目で保存食などを中心に国家に大量の寄付をしたアルフォード家。

 その功績を称えられ、つい先日ヘンリーに准男爵の爵位が叙された。

 ヘンリーの右隣に腰掛けていたエミリアが静かに微笑んだ。


「国王陛下と現在のピット内閣が旦那様の貢献をそれだけ大きく評価したという事でしょう。誠にめでたいことです」


 年が明けたこの3月に一旦国会は解散されたが、そのあとの5月にあったイギリス総選挙で勝利したのは、去年の12月に24歳の若さで第一大蔵卿(事実上の首相)に就任したウィリアム・ピットであった。


「私からすれば、お父様が准男爵に叙されたことよりも小ピットが未だに首相であることの方が驚きなのだけど……」


 レイの向かいに座っていたイザベラが小声で言う。

 確かに去年、ウィリアム・ピットこと小ピット(こ

同姓同名の父と対比して名付けられた渾名)が首相に就任した際に、その24歳という若さから年長の政治家が後を継ぐまでの短い中継ぎだと多くの国民が予想していた。

 そして、アルフォード家でも史実を知っているレイとヘンリー以外はその例から洩れていなかったのだ。


(ここまでは史実通りだな)


 小ピット就任までの過程も結果も変化は見られない。


 前世ではそれから17年も小ピット政権が続いたが、この世界ではどうなることか――。


 レイはローストビーフにフォークを伸ばした。





 祝宴から一夜が明けた翌朝。


「はあッ!」


 古い樹木が生い茂った広々とした中庭で鋭い声をあげながら、木剣を振っているレイの姿があった。

 彼の前には一人の偉丈夫。

 歳のほどは40ぐらいだろうか。

 顔にある古傷が彼を歴戦の強者であることを思わせる。


「坊主、腰が入ってないぞ!」

「サー・イエス・サー」

「声が小さい!」

「サー・イエス・サー!」


 反射的に声を張りあげる。


 レイが師事しているこの男の名はイアン・アスカム。

 イアンは七年戦争とアメリカ独立戦争(去年の9月にパリ条約を以って正式に和睦)に従軍した経歴を持つ生粋の陸軍軍人であった。

 しかし、独立戦争の終戦間際になって脚を負傷して、後遺症を患ってしまった。

 右足に力が入らず、日常生活でも引きずって歩く他ない。

 当然、軍人としての道は閉ざされた。

 そんな途方に暮れていた彼の前にヘンリーが現れ、軍事関係の家庭教師としてアルフォード家に招いたのだ。


 イアンの指示通りに、レイは既定回数の素振りを終える。

 すると、今度は6フィート(182センチ)ほどの棍棒を突きつけてきた。


剣術シングルスティックの次は槍術クォータースタッフだ。先ずは突きの動作200回からだ。始めろ!」

「――サー・イエス・サー!」


 鼻先に突き出された棍棒を乱暴に引っ掴んだ。

 レイは虚空に向け刺突を繰り出す。


「はッ!はぁっ!」


 背中に汗が浮かび上がる。

 イアンに師事して半年。

 その訓練は8歳の子供に課すものとは思えないほど過酷を極めていた。




「そこまで!」


 イアンの声が響いた。


「一旦休憩を挟むぞ」

「はあ、はあ」


 息を切らせながら、レイは地面に寝転がる。

 下草が優しく身体を受け止めた。

 天を仰げば、抜けるような青空に白い雲が流れている。

 それをぼうと眺めているとその隣にイアンが腰を下ろした。


「なあ坊主」

「なんですか?」

「どうして、こんな辛い訓練をしようと思ったんだ?旦那からは自ら申し出たと聞いたが……」

「どういう意味ですか?」


 唐突な質問にレイが首をかしげる。

 質問の意図が掴めなかったからだ。


「なに陸軍の士官として昇進するなら大金が必要だ。そして陸軍士官を目指して金を持っている身分といや、貴族や紳士あとは大商人の子弟ってところだろう。実際、坊主の身分なら最初から士官として任官できる筈だ」


 イアンの視線が問うてくる。


「そんな身分に生まれついた奴は、わざわざガキの頃から一兵卒の訓練なんてやろうとは思わねえよ」

「ああ、なるほど」


 確かに、10にも満たない紳士の子息が自ら一兵卒の訓練を志願するなど違和感があるか――。

 レイが身体を起こした。


「いくつか理由はありますが、先ずは体力づくりですね。仕官でも軍務につく以上は体力が必要でしょう?」

「そりゃそうだ」

「ならば視野を広げる意味を込めて、一兵卒の訓練で体力をつけようかと思いまして」

「ほう」

「士官になれば必然的に部下になる兵卒の経験を身でもってしれば理屈倒れの視野狭窄に陥りにくいかと。まあ、それは言い過ぎとしましても部隊を指揮するうえで判断材料が増えるかのは確かでしょう」


 ま、子供の浅知恵というものです、とレイが苦笑いで言い添えた。


「坊主は何のために陸軍に入ろうと思ってんだ?」

「名誉と地位が欲しくなりまして」

「上流階級の人間らしいな……歳の割にしっかりとした考えを持っているから、他人とは違う理想でも抱いているのかと思ったが……」


 呆れ顔でイアンがつぶやいた。


「失望しましたか?」

「いや、呆れはしたが失望はしてねぇよ」


 風がやさしく身体を撫でる。


「俺のような下士官や兵卒からすれば、生き残させてくれる上司こそが唯一にして最上の存在だからな」


 イアンの最終階級は曹長。

 下士官としては最高位だ――様々な上司をその目で見届けたことだろう。


「その点からすりゃ、この歳から兵の存在を強く意識している坊主は将来期待できるか」


 イアンが勢いよく立ち上がる。

 彼が数多くの戦場をくぐり抜けてきたことは、その燃えるような紅い瞳から読み取れた。


「さあ、休憩はここまでだ、未来の将軍殿」






 あれから数時間後。

 イアンと別れて、レイは自室に戻っていた。

 しばらくして、ドアがノックされる。


「どうぞ」


 ノックに応えると現れたは一人の女性だった。

 織細な顔立ちと優しい黒い瞳の美人で歳は30手前というところ。

 彼女はメイ・シーモア。

 座学の家庭教師だ。

 ある地方領主ジェントリの長女で、はかなげな美人ながら幸は薄いらしく結婚市場で敗れ去ってからは、こうしてアルフォード家の家庭教師をして日銭を稼いでいる立場であった。


 レイが隣の椅子を勧める。

 そこに腰掛けたメイと軽く雑談を挟んでから、いつも通り彼女の講義が始まった。

 最初は数学の講義だ。


 今日は三角関数か――。


 問題文を一目見てから、羽ペンにイングをつける。


「――正解です。レイ坊ちゃま」


 十数分で全ての答えを書き上げたレイに、覗き込んでいたメイが言う。


「流石に数学は優秀ですね。パブリックスクールでも上級生の問題だったのですが完璧です」

「ありがとうございます。シーモア嬢」


 前世では義務教育過程の学校にほとんど通えなかったが、身体がそれほど末期で無いころに病室で勉強を続けていた。

 今思えば、ある日突然病が治り学校に復帰できるかもしれない――という未練がどこかにあったのだろう。

 レイが遠い目になっていると横から視線を感じた。


 見れば、冷たい瞳を向けてくるメイ。


「古典の授業にもその優秀さを分けて欲しいですよ」

「は、はは」


 乾いた笑いが口から出る。

 この時代、教養としてラテン語やギリシャ語、シェイクスピアの英語古典などが好まれていた――生憎と苦手科目だが。

 短くため息を吐いたメイが新たな教材を取り出す。


「ラテン語ですか……」


 レイが口ごもる。


「何か?」

「これは古典が苦手だからと愚痴っているのではないのですが……」


 と、前置きしつつ、少しだけ思案する。


「この国が『犬のラテン語(Dog Latin)』を公的な文章や契約書で使われなくなって、もう長い年月が経つというのに未だパブリックスクールでは『犬のラテン語』を習っているのは何故でしょう?」


 去年、ウェストミンスターに入学したロイがそう愚痴っていたのを思い出す。

 ちなみに犬のラテン語とは、16世紀頭まで公的な文章などで使用されていた実用的なラテン語のことだ。


「……犬のラテン語とパブリックスクールの関係ですか。少し長くなりますが、せっかくですのでパブリックスクールの歴史を振り返りながら軽く語りましょうか」


 メイが深呼吸をひとつする。


「7世紀ごろにイングランドにキリスト教が伝来し、教会や聖堂、僧院などが作られました。その際に多くの学校スクールも併設されたのですが、当時の教会の礼拝はラテン語で行われていたためラテン語の教育が主な役割でした。これがパブリックスクールの源流となるグラマースクールの誕生ですね」

「キリスト教、宗教ですか……今のグラマースクールは学費を払う生徒以外にも奨学生として経済的余裕がない子供に教育を施していますが……」

「それはそのころの名残ですね。当時のグラマースクールは地元に住む聡明な少年に目をつけ、無償で音楽やラテン語の教育を施していました。しかし、それも当初は慈善などではなく、彼らを改宗するのが目的だったのです」


 真剣に耳を傾けるレイに対し、メイは悠然と話を続ける。


「中世においてキリスト教の勢力と重要性が増すにつれ、教会付きグラマースクールもそれに比例して増加し、自然とそこで学ぶ生徒の社会的階層も変わっていきました」

「それは現在のような、農民や職人、商人の子弟が、グラマースクールで聖職や事務職などの出世を目指しているようにですか?」


 その通りです、とメイが優しく微笑みかけた。


「こうしてグラマースクールは、家庭で教育を受けることが出来ない少年に、社会的昇格の機会を与えるという本当の慈善活動へと変わっていきました」


 表情をまるで変えずに、淡々と語る。


「そして16世紀の初め、当時の国王ヘンリー八世(1491~1547)によりローマ・カトリック教会からイングランド国教会を分離させたことが、グラマースクールにとっての大きな契機となります」


 ヘンリー八世は、1588年にスペインの無敵艦隊を撃破したエリザベス一世の父であり、イングランド国教会を誕生させた国王として有名だ。


「彼の手で僧院や大聖堂は没収され、カトリック教会の力は失われることになりました。それにより慈善的教育の役割も教会から国王、裕福な私人や商人などに引き継がれていきます」

「そういえば、16世紀にはたくさんのグラマースクールが創立された時期だと耳にしましたが……」

「それはですね、裕福な私人や商人にとって、グラマースクールの創立は慈善事業であり、自分の子や親戚に教育する機会であり、さらに歴史に名を残す手段でもあったからですよ。彼らは多くの寄付金を集め、その公正な運営のために正式な規則を定めました。現在でも名門と呼ばれているパブリックスクールの多くもこの時期に設立されていますね」


 ですが、とメイは椅子に座り直した。


「最初は無償で優秀な生徒を教育していたこれらのグラマースクールも、次第に学費を払う生徒らにも門戸を開かないと経営が成り立たなくなってきました。現在では学費を払う生徒の方が主流となっているのは、レイ坊ちゃまもご存知ですね?」


 レイは深々と頷き返す。

 18世紀のグラマースクールでは、もう半分以上の生徒が学費を払っていることで、学費を払っていない生徒は奨学生という扱いになっていた。


「こうして学費を払う上流階級アッパークラスの子弟を多く受け入れ、名が知られるようになったグラマースクールを同じく学費を払う私塾と区別してパブリックスクールと呼ぶようになりました。ですから、パブリックスクールと呼ぶようになったのはつい最近なのですよ?」

「そうだったのですか……」


 レイが目を丸くする。


(前世の日本ではパブリックスクールという呼び名こそ有名だったからな)


 もっと昔からそう呼ばれていたのだと勝手に思い込んでいた。


「ここまでが前提として知っておかなければならないパブリックスクールの歴史です。これで、なぜ未だに犬のラテン語が講義されているのか、という当初の疑問についてお応えできます」

「やっと本題に戻りましたか」


 待ち焦がれた様子のレイに、メイが微笑を浮かべた。


「当初犬のラテン語とは、いわば庶民が事務職(公務員)になるために必要なラテン語でした。それが16世紀に古典ラテン語が見直され、一般庶民の理解を超える高尚な言語と見なされるようになったことから、公式文書にラテン語が使われることもなくなりました」

「……」

「それでいて正式なラテン語と見なされない犬のラテン語がパブリックスクールの主な授業科目であり続けたのは、学校創立時に規定された授業科目を変更することが、法律的に難しいからですね」

「だとすると多くのパブリックスクールが創立した直後に、犬のラテン語は時代遅れの遺物と化したということですか……」


 呆れきった口調で、レイがそう返した。

 そんな状態が未だに放置されているのも、上流階級アッパークラスの学生にとって教育を受けて出世する必要がないからだろう。


 どこか釈然としない気持ちでレイはラテン語の講義を再開するのだった。

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