彼の見据える光景
グレゴリオ歴 1782年 7月15日
朝日が昇り始めた頃。
アルフォードの屋敷から少し離れた小道で三人の人影が馬上で揺れていた。
少しして一行が大きな囲い地のなだらかな坂道にさしかかる。
すると、一団を率いていたひと際大きな人影――ヘンリーが叫ぶ。
「――よし、では行こうか!」
言うが早いか先頭を切って駆け上がる。
ヘンリーに従っていたレイも遅れずに鞭を打とうと振り上げた、その間際。
「レイ、どちらがより速く父上に追いつくか競争しよう!」
隣から話しかけてきたのは、夏季休暇を利用してボーディングスクールから帰省してきたばかりのロイ。
「この半年間の習練の成果を見せて上げましょう!」
「はは、その意気だぞ!」
ロイは乗っていた馬に一鞭当てて、いきなり全力で走り出した。
「――ッ」
レイも咄嗟に馬の両腹を足で蹴る。
それだけで、馬は乗り手の要求していることを理解したのだろう。前を行くロイの後を追って走り始めた。
数十分後。
「はぁ……はぁ……まだまだ……体力が付いていないか」
レイは呼吸が苦しくて眉をひそめた。
もうすぐ体力の限界だ――。
前世、現世ともに病弱であったことから転生してからしばらくの間は身体の様子を見ていて、体力作りに励んでいなかった。
(身体の異変も感じなかったのでここ一年ほど前から体力づくりを始めたが……元々の水準が低すぎたな)
病院生活の前世と紳士の身分であり幼少な現世――これでは体力が付く下地など全くなかった。
吐き気がしてきたところで、この辺りで一番高い丘の頂上に辿り着く。
この丘は、村と村の境をなしており、アルフォード家の屋敷がある村の全景を見渡すことができた。
頂上には見覚えのある二人の人影。
「遅かったな、レイ!」
得意げな顔でロイが迎えてくる。
「……はあ、今日も負けましたか……」
「だが、乗馬を始めて半年にしては上手く馬を操れるぞ」
ヘンリーの励ましの声に、レイが頷きを返す。
「あとは基本的な体力さえつけば、もう2、3年後にはロイを追い越しているかもしれないな」
「何をおっしゃいます父上!まだまだ弟には負けません!」
からかうようなヘンリーの言葉に、ロイが不満げな様子で言い募る。
それを尻目に馬から降りたレイは、遠くに視線をやった。
「それにしても、相変わらず広い領地ですね」
「そうか?アルフォード家の領地は他の紳士たちと同程度だぞ?」
そうは言うが、そもそも18世紀末葉の紳士階級たちの平均的な領地がだいたい2000エーカーというところ。
1エーカーが約4064平方メートル。
日本人に分かりやすく例えれば、2000エーカーの土地は東京ドーム約173個分に匹敵する。
それゆえ、ここから見渡す限りの広大な土地のほとんどがアルフォード家の領地に当たる。
「何より貴族ともなれば、それこそ桁違いだ。確かに欧州には名だけで領地を殆ど持たない貴族も少なくないが、この国の貴族なら最低の男爵位でも我が領地のおよそ5倍は土地を所有しているのだからな」
「……5倍、ですか」
2000エーカーの5倍ということは、10000エーカー。
まさに想像を絶する面積だ。
「驚くのはまだ早いぞ?スコットランド(大英帝国を形成する大ブリテン島の国の一つ)のサザランド公爵など100万エーカー以上の土地を所有し、同じイングランドのリッチモンド公爵も20万から30万エーカー近い領地を所有している。我がアルフォード家とはもはや比較にもならならん」
「……はあ」
レイが感嘆の声をあげる。
(なるほど、18世紀以前のイギリスで貴族と紳士が権力を持っているわけだ)
視線をヘンリーから領地に戻して言う。
「あれから領地そのものもずいぶん発展しましたね」
最初に見たころより、瓶詰め工場やその従業員の住居が新たに建てられ、村というより町に近いところも出始めている。
「これも父上の尽力あっての賜物でしょう!」
ロイの自慢げな言葉に、ヘンリーがチラリとこちらを見やる。
前世の知識に伴う助言は全てヘンリーやフレッドの功績であるということにしていた。
(最初は、父上も子の功績を盗むようなマネに渋っていたが……)
それが誰にとっても幸せということを力強く訴えかけ、最後には納得してくれた。
そもそも前世の知識は俺の功績でなく、先人たちの功績なのだ――。
物思いに耽っていると、曇り空の切れ目から陽日が顔を出す。
レイはヘンリーたちと共に、太陽に照らされて幻想的に輝く大地を見つめていた。
屋敷の大きな門をくぐり玄関ホールに帰ってくるとヘンリーに話があると耳打ちされ、レイはその足で書斎に向かう。
数分後。
書斎の扉をくぐるとヘンリーは奥にある執務机と共に設置された椅子に座っていた。
どうやら新聞を見ているようだ――。
レイはその向かいのソファに腰を下ろしながら話を切り出す。
「父上、それで話とは?」
手元の新聞からヘンリーが顔をあげた。
「――この春、ノース卿が首相を辞任し、ロッキンガム侯爵が後を継いだ」
だが、と一度そこで話を区切る。
「そのロッキンガム侯爵も病気で重体となり、つい先日亡くなられた」
「……今月に入ってすぐのことでしたね」
「全てレイの言った通りに物事が進んでいる。もはやお前の話を疑う余地などない」
見る者を居竦ませる瞳が、レイに向けられる。
「だからこそ聞きたい。レイはその力をどうするつもりなんだ?」
「――それは」
そういえば、父上には伝えていなかったか――。
「軍人になろうかと思っています」
「は?軍人だと?」
ヘンリーが意外そうな顔をした。
「そして勝利の栄光、勇者の誉れ、軍人としての名声、その全てを手に入れようかと」
「成功を手にしたいなら何も軍人でなくともかまわないだろう。お前には予知能力と呼んで差支えのないほどの力があるのだから」
確かに前世の知識があれば、商人や政治家としても大成できるかもしれない。
「軍人ではどんな知識があろうと流れ弾一発で亡くなる危険が付きまとう。少なくとも今から軍人を選ぶ必要など――」
「安全に手に入れた栄達にどれほどの価値がありましょう?」
ヘンリーの言葉を遮るように言い、レイは野心を内に秘めた瞳を向ける。
「これから先の世では、祖国が、ヨーロッパが未だかつて体験したこともない大乱の時代がやってきます」
欧州のあらゆる列強が国家の存亡を賭ける人類史上初の総力戦。
「そんな激動の時代の中で、海の向こうのフランスでは小さな島の貴族から、世界皇帝と称されるまで駆け上がった男がこの時代には生きている」
ナポレオン・ボナパルトのように世界中に轟く名声を――。
「そしてこのイングランドでも牧師の六男として生まれながら、最後には王としてセント・ポール大聖堂に葬られた海の英雄も既に存在しているはず」
ホレーショ・ネルソンのような不朽の勝利を――。
「伯爵家の三男という立場から、世界皇帝と雌雄を決する戦いに勝利し、公爵にまで叙された英傑の姿もあるでしょう」
アーサー・ウェルズリーのように約束された栄達を――。
「彼らは歴史に名を刻みその功績は遥か彼方の遠い先の世にすら轟き渡っていました」
ずっと憧れていた英傑たちが同じ時代に生きているのだ。
「どうせいつかは死ぬ人生ならば、彼らの様な一生を駆け抜けて死にたいのです」
「戦場で死ぬことになってもか?」
「……確かに死ぬのは怖い」
ですが、と前世の記憶を思い起こす。
「何も為せず、何も得られず、何も残せず――そんな何ものにもなれない人生は死ぬことよりも恐ろしい」
我ながら度し難い英雄願望と上昇志向だと思う。
――それでも、もう自分の気持ちに嘘を重ねながら逝きたくない。
そう力強く言い切ったレイに、ヘンリーは息を吐いて目を伏せる。
「……ある意味で紳士の息子らしくはある。しかし、お前は何をそんなに……」
「何か?」
「――いや、何でもない」
気分を切り替えるように、ヘンリーがかぶりを振った。
「それで話を変えるが、レイも今年で6歳になる」
「ええ、まあ」
突然の話題変更に曖昧な返しをする。
「つまり、来年にはこれまでの家庭教師による基礎教育を終え、学校に入学できる年齢というわけだ」
「そうですね」
何となく話が読めてきた。
「我が家のような普通の紳士の次男以降は、地元のグラマースクールで学ぶのがお決まりのコースだが、我がアルフォード家はレイの貢献もあり財政的に余裕ができつつある」
現在のアルフォード家は瓶詰め以外にも、来年以降に起こるであろうラキ火山噴火による冷害に備え、領内でジャガイモの量産や小麦や野菜、防寒着などの高騰するであろう商品を買い込んでいた。
それゆえ来年以降、アルフォード家にはさらなる繁栄がもたらされるはずだ。
「ヨーマンや商人の子弟と机を並べるのが嫌だというのなら、兄のロイ同様、ボーディングスクールからパブリックスクールに入学し、その後は大学に行くか軍に入るかを改めて決めてもいいだろう」
ヘンリーが静かに問うてくる。
「レイに何か希望はあるか?」
「そうですね……」
そこで思考を巡らせる。
目標から逆算して最も最善と思われる進路選択は――。
「……このまま、家庭教師による教育を受けたいです」
「つまり自宅で学びたいと?」
「ええ」
21世紀でこんな事を言えば間違いなく親に反対されるであろう発言。
「なるほど、それも一つの選択肢か。最近の貴族や紳士の間では自宅教育が流行っていることもあるしな」
ヘンリーの発言からも察せられるように18世紀末葉のイギリスの時代背景として、主流とは言わないまでも上流階級の子弟――割合でいうと三、四人に一人が学齢期を迎えても自宅での個人教育に励んでいた。
だから、これは反対する訳ではないのだが、とヘンリーは前置きして。
「人脈や社交性が身につくパブリックスクールやグラマースクールではなく、自宅教育を望んだ理由は?レイぐらいの年頃だと、外の世界に興味を持ちそれらに憧れを抱くものだが――……」
レイの反応にヘンリーは首をかしげる。
(確かに、個人的感情でいえば、前世でも学校に通っていなかった身としても学校というものに興味はある)
しかし、それでは不都合だった。
琥珀色の瞳を見つめ返し、その答えを口にする。
「一言でいえば、私がすでに軍人を目指しているから、ですね」
「ああ、そうか……海軍なら12歳で入隊するのも珍しくない。ならば数年間も拘束される学校教育は不都合か」
「ええ、理由としてはその通りです。ただ私が目指しているのは海軍ではなく陸軍ですが」
「海軍ではなく陸軍だと?」
ヘンリーの表情に、困惑が浮かんだ。
「海洋国家のこの国で栄達を果たすなら、海軍の方が好都合だと思うが……」
さらに言い募ろうとしたところで口を噤む。
「……まあいい。私には見えてないものが見えているのだろう。好きにするといい」
「ありがとうございます」
決意の変わらないレイの顔を見てヘンリーは説得を諦めたようだった。
「家庭教師の件も了承した。ちなみにそちらの方で何か希望はあるか?」
「でしたらフランス語以外にもフランドル語、ドイツ語、スペイン語、ポルトガル語を学びたいので、そちらに詳しい方を連れて来ていただければありがたいです」
「語学に詳しい人物か、いいだろう」
「あとは退役軍人の方に小銃などの取り扱いを学べれば、と」
「流石にその歳で小銃を取り扱うのは危険すぎる。あと数年は待て」
「分かりました。ですが可能な限り早く狩猟にも連れて行って貰えれば幸いです」
家庭教師だと自宅でのプライベートな教育なので乗馬や狩猟というような軍事に役立つ技術を習得しやすい。
(パブリックスクールやグラマースクールというような寄宿制の学校だと、こうした自由は効かないからな……残念だが諦めよう)
そんな思案を働かせているとヘンリーが呼びかけてくる。
「――レイ」
眉間の皺を深くして、そう続けた。
「私もこの国の紳士だ。時に命よりも名誉が大切であることは理解できる、が――」
ヘンリーは一度、言葉を区切る。
「だからといってあまり生き急ぐなよ」
「……」
「人生はお前が思っているより長いのだからな」
「……ご忠告感謝します」
レイは謝意を伝えると、ヘンリーの書斎を辞するのだった。