交渉 sideナポレオン(書籍版第9部相当)
グレゴリオ暦 1787年 11月27日
あれから一年の月日が経ち、年の瀬も近づいた11月下旬。
神秘的な噴水と芸術的庭園に、濃いクリーム色の王宮。
大国フランスの威信にかけて建築された絢爛豪華の極致ともいうべき建造物群は、まさに絶対王政の象徴であった。
そんなヴェルサイユの敷地内で、人目を気にせず叫んでいる青年がいた。
「くそ!またダメだったか!」
正装たる砲兵将校の軍服を身に纏い、激昂に駆られた端的な顔。
宮殿に併設された官庁機関から追い払われたばかりのナポレオンである。
「――あのっ話の通じぬ役人どもめっ!これだけ浪費しておきながら金がないだと!」
振り返った先の煌びやかな宮殿に向けてそう吐き捨てながら、ナポレオンはこれまでの経緯を思い出す。
レティチアへ自信満々に言い切った翌日。
ナポレオンは先ず副司教であるリュシアン大伯父のところまで足を運んだ。
ミレーリの土地を牧場から元通りの畑に戻したいという説得とそれに要する資金の援助を頼み込むためであった。
ところが、吝嗇と頑固さで有名な大伯父に、ナポレオンの話は取り合われず追い返されてしまう。
そこで、話を持っていく相手を本土政府へと変えることに。
本土政府にとって、ジェノヴァからわざわざ買い取るほど領有の意義が大きいコルシカ島。
それだけにフランスはジェノヴァ時代の教訓を活かし、コルシカの恒久的支配を実現するために人心の収攬に努めていた。
その占領政策の一環として、養蚕を起こすと補助金が支給されるという制度があったものの、つい最近契約切れを理由に打ち切られていた。
そこに目を付けたナポレオンは、当初コルシカから契約延長の嘆願を重ねるも、一行に進展が見られない。
そこで、翌年の1786年10月。
健康を理由にさらに半年近い休暇延長を願い出ることで時間を稼ぐことに成功したナポレオンは、直談判しようとパリとヴェルサイユに訪れたのだ。
しかし。
「相変わらず、今日もていよく言葉を濁すばかりッ」
もう二ヶ月近い時間を費やしているにも拘らず、その効果は現れていなかった。
「母さんに、あれほど豪語しておいてこのざまか……」
苦しいものが胸中にこみ上げる。
「……いや、このままでは終われない」
きつくナポレオンはかぶりを振り、滅入りそうな気分を追い出す。
「とりあえず、ヴァランスの連隊には患った病が治らなかったことにして、再び休暇の延長を願い出るか」
18世紀フランスの砲兵隊で佐官以上の上級将校が、年間に勤務するのはわずかに半年ほどであり、下級将校たちにも二年に一回は半期休暇の権利が与えられていた。そうした現代とは異なる時代背景から、ナポレオンが再度の休暇延長願いを出すことに躊躇いはなかったのだ。
年が明けた1788年の初頭。
「ナポリオーネ、ナポリオーネじゃないか!」
夕日に照らされたバスティアの街中で、見覚えのある顔を見つけたデ・マジはそう呼び声を上げた。
「おお、デ・マジ!?」
どこか驚いた様子で資料のような大きな荷物を抱えたナポレオンが歩み寄る。
「どうしたんだ、こんなところに?」
「いや、ちょっとバスティアの分遣隊に用があってね?」
ひらひらと手紙を持ち上げて、肩をすくめるデ・マジ。
そうして、不意にナポレオンを見やり表情を改めた。
「ナポリオーネこそ、病気はもう大丈夫なのか?」
「……病?」
一瞬、何のことかとナポレオンは少し眉を寄せたものの、直ぐに名目上の休暇理由であることを思い出し、たどたどしく後を紡いだ。
「っ!ああ、まあ、な……」
そろそろとこちらを伺ってくる珍しいナポレオンの態度。
思わずデ・マジはまじまじと見返す。
ほどなくして。
思案顔であったナポレオンは、デ・マジならいいか、と呟き何かを決心したように口を開いた。
「ここでは、何だ……少し場所を移さないか?」
「――へぇ、あの休暇延長にはそういう事情があったのか」
近くにあった酒場のテーブルで、ナポレオンはデ・マジにこれまでの経緯を説明する。
「それで、政府の補助金は引き出せたのかい?」
「……ダメだった」
ブラウンの双眸を伏せ、ナポレオンは言葉少なく応じる。
――結局、三か月にも及んだナポレオンのパリ滞在は収穫なく失敗に終わっていた。
「ええ!ダメだったって、すでに四千本もの桑の苗は買ってしまったんだろう?」
ナポレオンが政府に補助金を出させると、家長(シャルルが亡くなり、兄ジョゼフも神学校在学中で不在)風を吹かして断言していた経緯もあり、傷心のままアジャクシオに戻ると、既にレティシアは莫大な桑の苗を購入していたのだ。
「いったいどうするつもりさ?」
「当然、政府には補助金を払ってもらう!」
デ・マジの瞳を見返してテーブルを叩いたと思ったら、今度は頭を抱えて悲鳴のような声を上げる。
「――でなければ、ブオナパルテ家は破滅だ!」
「でも、本土政府は払うつもりがないのだろう?」
堂々巡りともいえるデ・マジの問い。
「ああ、だから話を持っていく相手を変えるつもりだ」
「それは?」
「ここ、バスティアの知事だ」
「ああ、なるほど。だからバスティアに……」
納得の声を上げるデ・マジに、一度頷いたナポレオンは別の話題を振った。
「それで、最近の本土情勢はどうなんだ?」
「ナポリオーネも知っての通り、相も変わらず各地で暴動が頻発しているよ……まあ、これだけ異常気象で毎年のように凶作が続けば無理もないんだけどね」
フランスは、2500万人の人口うち2000万人以上が農業に従事している農業大国である。
それだけに、季節外れの寒波や嵐など地球環境そのものを変質させてしまったラキ火山噴火の影響は深刻であり、数多の飢餓と貧困に溢れ、飢餓暴動の時代に突入していた。
「国王とカロンヌ財務総監はこの惨状をどうにかしようと、先ずは財政の立て直しを目指して、去年の2月に名士会議を招集した」
この会議は、貴族と僧侶の免税特権を廃止し、全ての土地から上がる収益に同一基準の税をかけようという地租の承認を得るためである。
「けど、当然のように貴族の反発にあって頓挫したよ」
「ふん。だろうな……特権階級の頑固さと人間の利己心を侮りすぎだ」
貧乏であろうと貴族の一人であるナポレオンが鼻を鳴らす。
「それに18世紀に入ってから、フランスはあれだけの戦争でどれほどの物を得た?」
スペイン継承戦争(1701~13)、スペイン戦争(1718~20)、ポーランド継承戦争(1733~35)、オーストリア継承戦争(1840~48)、7年戦争(1756~63)、アメリカ独立戦争への参加(1778~83)など、この百年近い間、フランスは戦争に明け暮れていた。
「結局、莫大な戦費を費やして得たものなど雀の涙ほどの植民地程度だろう?それでは貴族も民衆もついてくるものかッ」
もはやブルボン王朝には、絶対王政最盛期の栄光も威厳も求心力も既になかったのだ。
「……ナポリオーネの言う通り国王の不甲斐なさもあって、ますます混迷は深まりそうだよ。暴動も増えるだろうし、僕たちもさらに忙しくなるだろう」
神妙な声音でデ・マジがそう言い添える。
やがて注文していた料理が届いたところで、二人の話題は自然と雑談へと切り替わった。
こうしたデ・マジとの偶然の再会もありながら、翌日にはバスティア知事との交渉を開始したナポレオンは、その粘り強い交渉の末、どうにか代金を肩代わりさせることに成功する。
されども、これで本格的な経営を始められるという段階で、休暇の終わりが差し迫ったナポレオンは未練がありながらも、帰省してきた兄ジョゼフに後事を託して、1788年5月半ばにコルシカ島をあとにした。





