家族
グレゴリオ暦1781年 11月29日
レイは深い眠りに落ちていた。
「……ぃさん……にいさん……」
すぐ近くで、人の声がする。
これが夢なのか現実なのか釈然としないが、それは幼い女の子の声だった。
先ほどより体が強く揺すられる。
「レイ兄さん、いい加減に起きてください」
重い瞼を開ける。
見慣れた天井があった。
視線を僅かに右隣に移すと少女――いや、幼女の顔が飛び込んでくる。
「……ティナか……」
彼女はレイの一歳年下である妹だった。
「ティナか、じゃありません。もうすぐ朝食の時間ですよ」
ティナが枕もとに置かれたエレガントな時計を指さす。
時計の針は午前九時の半ばを過ぎていた。
「また遅くまで本を読んでいたのですか」
ティナの視線の先には、オイルランプと開かれたままの書籍。
執務机に放置されたそれらは、深夜遅くまで使われていた物だ。
「何の本を読んでいたのですか?」
「昨夜は……エドワード黒太子の伝記だよ」
「全く、一年前に倒れてから、急に難しそうな本を読もうとするようになって……」
「そうか……もうそんなに経つのか」
この世界に転生してから一年。
レイはゆっくりと身体を起こし、寝間着を脱ぎ始めた。
日が昇ってだいぶん経つというのに屋内にいても肌寒さを感じる。それが21世紀の病室との違いを思い起こさせ、18世紀のイングランドに来たのだと改めて実感した。
着なれた子供服に袖を通しながら、この一年間の経緯を思い出す。
あれから瓶詰めが本物であることを確かめたヘンリーは、自身の秘書でもあったフレッドを独立させた。
資金と貯蔵法の援助を受け、食品加工会社の設立に向けて動き出したフレッドは、最初にアルフォード家の領地にガラス瓶工場を誘致し、そこから保存食品製造所の操業に乗り出した。
次に彼がやったことは知り合いの貿易船船長に試作品の輸送試験を依頼することだった。
そして結果は成功。
仲間内の船長や海上提督の間で高い評判を得られ、着実に売り上げが伸び初めた。
その二か月後、軍部にも本格的な売り込みをかける為、英国の政府機関にフレッド名義で特許を申請。
しかし、政府機関の反応は懐疑的であった。
そこでフレッドは彼らを納得させる策を巡らせる。
簡単な実証実験として瓶詰め同様の保存法で密封された幾つかのミルクを提出したのだ。
これを半年後に開封し試飲すら可能であることを証明したところ、正式に特許を取得。
これにより一定期間の独占権を得られ、瓶詰めの注文がさらに増加し始める。
最近では、この特許取得でアルフォード家以外からも多額の融資が殺到した結果、ロンドン・ヨーク・ノリッジ・ブリストルという主要都市や港の近郊にも瓶詰め工場の建造が始まっていた。
現在はもうすぐ量産体制に入ろうかというところだ。
「――終わりましたか?」
着替え終わったところで、ちょうどよくティナが呼びかける。
「ああ、お待たせ」
「それでは食堂に行きましょう」
自室を退出して一度立ち止まる。
死んだように静まり返った屋敷の天井。
それを一度だけ見上げてから再び廊下を歩き始め、ティナと共に階段を降りた、その直後――幾つかの部屋を挟んだ先にある客間から、ピアノの旋律が流れてくる。
「これは……」
ガラスの楽器のような澄んだ音色。
誘われるように廊下の途中にあった扉をゆっくりと開いた。
視線の先に、一人の少女が腰掛けていた。
清楚に切り揃えられた銀色の髪と白雪を思わせる柔肌。
理知的で何処か冷たいまなざしが、まっすぐ楽譜を見据えている。
その大人びた横顔からは想像できないが、今年で10歳になるのだったか――。
演奏の邪魔しないよう静かに足を踏み入れ反対側のソファに腰を下ろす。
その間、彼女は一度だけ此方をチラリと一瞥し、再び楽譜に視線を戻した。
「――……」
演奏は終盤なのか曲が厚みを増していき、不思議と気分が落ち着いてくる。
彼女が弾くピアノにはその容姿と反対に心がこもっていて、胸の奥が熱くなってきた。
しばらくして――……。
数秒間の余韻を残し、ピアノ演奏が終わる。
そのことを名残惜しく思いながらも、レイは彼女に声をかけた。
「素晴らしい演奏でした。姉さん」
するとその少女――イザベラ・アルフォードが椅子を引いて立ち上がり此方に近寄ってくる。
「――こんな未熟な演奏で満足できるとは、なかなかいい耳をしているわね」
銀の鈴を鳴らしたような声から、熾烈な言葉が飛んでくる。
「姉さんの指があまりにも軽やかに飛び回るので、未熟なことに気付きませんでした。草木も楽しませる演奏の前には教養の有無など些事な問題という事でしょう」
「耳は飾りでも、口のうまさはそれなりかしら?」
イザベラが薄く笑った。
両親が美形な事もあり兄妹には容姿の優れた者は多いが、その中でも長女であるイザベラは突き抜けた容姿を誇る。
とはいえ、この通り性格には大いに難があるのだが――。
「もう、二人とも顔を合わせればそんなケンカばかりして」
ふいにそちらを見れば、ティナが頬を膨らませていた。
「別にケンカをしているのではないよ。只のユーモアを交えた会話だ。そうですよね、姉さん?」
「ユーモア?」
惚けたようにイザベラが小首をかしげる。
相変わらずつかみどころのない人だ――。
内心で溜息を吐いていると、ふと視線を感じる。
顔を上げると、イザベラが温度のない瞳でこちらを見つめていた。
「……どうかしましたか?」
「やっぱり貴方、アレから変わったわね――まるで別人みたいに」
しみじみと呟いたその一言。
一瞬にして、レイの血の気が引いた。
「対応が大人になったわ。それこそ年齢に不相応なほど」
「……年齢に不相応なのは姉さんもでしょう」
気まずい視線から逃れるように、目を逸らす。
「生死の境を彷徨えば、嫌でも大人になりますよ」
「……そう」
イザベラの表情に影がさす。
だが、瞬く間にいつもの調子に戻った彼女は言う。
「だけど、頭の悪さだけは相変わらずかしら」
「……姉さんのように口の悪さと性格が全く変わらないという方が珍しいでしょうね」
レイは言葉とは裏腹に居心地の良さを覚えているのを自覚しながら肩をすくめた。
「――これから祖国はどうなるのでしょうか」
エミリアがそんな話題を口にしたのはレイたちがダイニングルームの食卓についてしばらくの事だった。
「ノース首相(第一大蔵卿)は先の敗戦での責任を取り辞任すると噂されていますが……」
「後任はおそらくロッキンガム侯爵になるだろうな……彼はヨークタウンでコーンウォーリス将軍――いや、派遣した英国陸軍が降伏したことで戦争を継続するのは得策ではないと視ているようだが」
ヘンリーが目配せしてくる。
そうなるのだな、と。
ヘンリーとレイは史実通りヨークタウンの戦いが勃発し、その知らせが本国に届いてすぐに改めて話し合っていた。その結果、ヨークタウンの戦いが事前に話していた通りに推移したことでレイの夢――否、知識を信じることに決めたようだ。
「和睦にはもはや十三植民地の独立を認めざる得ないだろう」
「そうですか。残念な結果ですが、長らく続いた戦争が終わるという意味では悪い事ではありません」
火種はまだまだ残っているが、とは敢えて口にはしなかった。
史実では領土的な係争、政治的摩擦、反英感情という幾つもの要因により第二次独立戦争ともいうべき米英戦争(1812~)が勃発する。
「……どうして祖国は負けてしまったのでしょうか……」
レイの向かいに座っていた金髪の少年――ロイ・アルフォードが声を小さくしてぼやいた。
「先の大戦ではフランスやスペインに勝利したと聞いています。なのに我が祖国が植民地人相手に敗戦なんて信じられません!」
今年11歳になったばかりのロイにとっては、イギリスの敗戦など俄かには信じられない事だった。
ヘンリーは吟味するように口を動かす。
「……本国と戦地の距離、補給線、認識不足、外交的失策など敗戦の要因はいくつも挙げられるが、最大の敗因は政府の現実から乖離した戦争指導だろうな」
しみじみとした口調で言い切ると、周囲の皆に目を向ける。
「ヨークタウンの戦いでコーンウォリス将軍が敗軍の将として名を残してしまったが、この戦役全体を俯瞰的視点でみると勝敗の分岐点としてはむしろサラトガでの敗戦が挙げられるだろう」
そして、上層部の無能を最も晒した戦いもあのサラトガの戦いだった、とヘンリーは瞳を閉じて呟いた。
「四年前、当時の英国陸軍の作戦は、軍を二分して実現できそうもない目標を狙い、指揮官に正反対の作戦を実行させるという実にひどいものだったらしい」
ヘンリーの言葉に、レイは思考を巡らせる。
1777年、当時のイギリス軍総司令官ウィリアム・ハウの前にはアメリカの独立を阻止する二つの選択肢があった。
一つは反乱軍の拠点フィラデルフィアに迫りジョージ・ワシントンと運命を賭けた攻防戦に持ち込むか。もしくはカナダを起点にハドソン川を下ってくるバーゴイン将軍とニューヨークから軍を動かしオールバニーで合流するか。
当初、本国政府から命じられた作戦は、一刻も早くバーゴイン将軍とオールバニで合流せよというものだった。
しかし、作戦遂行中の7月に、反乱軍の首都であるフィラデルフィアを占領したあとオールバニで合流せよ、と大幅な戦略変更をハウ将軍に指示したのだ。
地図を広げれば理解できることだが、オールバニーはニューヨークから北に160キロあり、フィラデルフィアは南西に130キロある。両方というのはどう見ても無理があった。
「それこそロンドンの社交界では戦闘が始まる何カ月も前から、敗戦するだろうと噂されていたほどだ」
ため息まじりにヘンリーが後を続けた。
「彼ら植民地の独立は幾つもの幸運と偶然に助けられたものではあったが、我が祖国の敗戦は必然だったのかも知れないな」
すると目を細め、彼が小声で言う。
「こうなってくると改めて先代チャタム伯が病で亡くなられたのが惜しまれる」
初代チャタム伯――ウィリアム・ピットは七年戦争・フレンチ・インディアン戦争でその実力を発揮し、北アメリカ、西インド諸島、インド亜大陸からフランス勢力を追って覇権を構築。世界最大の植民地帝国大英帝国としての礎を築いた傑出した政治家である。
後世ではフランス革命戦争とナポレオン戦争で同じく政治家として手腕を振るった同姓同名の息子であるウィリアム・ピット(小ピット)と対比して大ピットと称されていた。
「彼は当初から植民地に課税するのは反対だった……今思えば先代チャタム伯はこのような結末になることを予期していたのかも知れない」
何処か遠い目で、ヘンリーがしみじみと呟く。
先代チャタム伯は貴族に列せられているが、元々は大地主――つまりアルフォード家と同じ紳士階級出身だ。
父上からすればどこか同族意識があるのかもな、とレイは内心で納得する。
(だが、北アメリカからフランスの脅威を完全に取り除いたのはウィリアム・ピット最大の失策と言い換えることも出来るか)
北アメリカのフランス勢力は油断も隙もない隣人であると同時に、植民地を本国に依存させておく最大の保障でもあった。
(フランスの脅威が少なからず残って居れば、不満があろうと植民地が一丸となって歯向かってくることは無かったはずだ)
そこでふと、ある名言を思い出す。
『分割せよ。しかる後に統治せよ』
これは大英帝国を「日の沈まぬ国」と呼ばれるほど繁栄させた前世の英国女王であるヴィクトリア女王が述べたと伝わっている植民地政策理念だ。
アメリカ独立戦争の敗戦は元をたどれば、この分割統治を怠ったことが全てだったと言っても過言ではないだろう。
(まあ、アメリカ独立戦争敗戦の教訓が政治、軍事にと幅広く活かされたからこそフランス革命戦争やナポレオン戦争の最終的なイギリスの勝利に繋がったのだから、一概に悪い事ばかりでもないし、ウィリアム・ピットの功績が否定されるわけでもない)
これは言いがかりというものか――。
思考を断ち切るようにレイが分厚いベーコンにフォークを突き刺した。
そういえば、とエミリアが唐突に口を開く。
「先代チャタム伯のご子息が恐ろしく優秀と噂されていましたね」
「彼にはご子息が五人いるが、それは恐らく先代チャタム伯と同姓同名である次男の噂だろうな」
椅子にもたれてヘンリーは腕を組む。
「社交界で聞いた噂では、14歳でケンブリッジ大学のペンブルック・カレッジに入学し、今年の1月には庶民院(貴族院と共にイギリスの議会を構成する議院のひとつ。日本の衆議院に相当)議員に当選したらしい」
「今、おいくつなのですか?」
「確か、今年で22歳になったばかりだったか」
「まあ、22歳ですか!?」
エミリアは口を大きく開いて驚愕した。
「両親ともに政治家の家系だからな、天性の才能と縁故という幸運を兼ね備えているのだろう」
もちろんパトロンと学閥に恵まれたのもあるだろうが、とヘンリーは付け加える。
その様子にティナが唇を尖らせた。
「――お父様もお母さまも難しい話ばかりでつまらないです」
その可愛らしい態度に、二人はお互いの顔を見合わせクスリと笑いあう。
「はは、レディの前で政治の話は厳禁だったな」
「そうですね。難しい話はここまでにしましょう」
ところでロイ、とエミリアが話題を変える。
「ボーディングスクール(パブリックスクールに入る準備をする学校)の方は楽しいですか?」
ロイは紳士の長男として将来名門のパブリックスクール――ウェストミンスターに入門するための教育を受けている。
「はい母上!」
元気の良いロイの返事。
しかし、彼女は不安げな顔を隠さずに質問を続けた。
「寄宿舎での生活で不便を感じることはありませんか?」
「同室の友人がいい奴で不便なんて気になりません。あいつとは再会が楽しみで冬休みが終わるのが待ち遠しいぐらいです」
やっと安堵から表情を綻ばせたエミリア。
「それは何よりでした」
「しかし、せっかく帰省してきた実家が退屈では困りものだ」
うむ、と指を顎に当てヘンリーが思案顔を見せる。
「そうだ。明日は久しぶりに乗馬でもしようか」
「おお、それは楽しみです!」
「レイもそろそろ乗馬を習ってもいいころだな」
ヘンリーがレイに話を振る。
「――それは嬉しいですね」
本心だった。
軍人を目指している立場としては、早くから身に付けたかったスキル。
「年が明けたら、私直々に教えてあげよう」
そう言い添えるとヘンリーの関心はイザベラが先ほどまで弾いていたピアノ演奏に移っていた。