紳士の条件
グレゴリオ歴 1780年 10月2日
あれから数日後、レイは屋敷廊下の窓辺に寄って空を見上げていた。
「今日も曇り空か」
窓の外は相変わらずの曇天模様。
「イギリスらしい天気と言えばそれまでだが……」
日本で生活していた経験からすると降水量それ自体は変わらないか、むしろ日本の方が多いぐらいだ。
それでも短時間だが毎日のように曇り空や雨の日が多かった。
「……はあ」
吐息を洩らしてレイが窓辺に寄りかかる。
先ずは、近辺状況を整理しよう。
俺――高橋黎一がレイ・アルフォードとして転生したこのアルフォード家だが、数日かけて情報収集につとめた結果、身分・階層集団としてはジェントリの家柄に該当することが分かった。
18世紀のイギリスで領地を抱える身分は大まかに4つに分類される。
最上位は君主、王族――かの有名なロイヤル・ファミリーだ。
次が最上層の貴族である公・侯・伯・子・男の爵位保持者たち、ここまでは日本でも馴染みがあるだろう。
そして、次に来るのが地方領主――日本人に馴染みのある言葉で言い換えれば紳士階級である。
紳士階級は、さらに四つの序列に分類され、第一の「准男爵」は、貴族最下位の「男爵」に次ぐ序列であった。
第二は「騎士」で、中世の「騎士」身分の子孫と言っていい。
以上の第一と第二の身分に属する者の名前には、「サー」の尊称を付した。例えば、サー・アーサー・ウェルズリーというように。
次に第三は「従騎士」で、中世における「騎士の従者」の後裔に当たる。
第四は単なる「紳士」(日本でも使われていたような、広義的な紳士とは別で序列としての単なるジェントルマン)だ。
以上が紳士階級で、このすぐ下の序列が中間層を形成する自営農民ということになる。
第三と第四の身分は、名前の前に「ミスター」の尊称を付して呼ばれるが、両者の相違はあまり明確でなく、古い家柄を示す紋章によって前者が後者と区別される、というのがこの時代の一般的な慣行のようだ。
ジェントリの形式的な身分は平民だが、貴族との間に称号(貴族院、議員資格)以外の特権的な差異は存在しないことから、イギリスにおいて準貴族とでもいうべき社会的集団を形成し貴族と共に支配階級を形成していた。
その中で、アルフォード家は従騎士の家柄に当たる。
とはいえ、いくらアルフォード家が支配階級の従騎士でも、レイ・アルフォード個人は次男であり近い将来独立しなければならない。
そして、この時代に紳士階級の次男という立場で立身出世を目指すなら、選択肢はそう多くなかった。
「……軍人だな」
その答えを確かめるように呟いた。
「だが、そうなると海軍か陸軍の二択ということになるが」
レイは瞳を閉じて思案する。
(通常、イギリスで立身出世を果たしやすいのは、断然海軍だ)
18世紀末から19世紀初頭の英国海軍の提督や船長は、フランス海軍のフリゲート船や捕獲した敵国の私掠船(敵船捕獲略奪の免許をえた民有武装船)を自分のものとし、積荷類を競売にかけ大金を得ることができた。
更に海軍は陸軍と違い実力主義の側面が強く、社会的地位の低い生まれ(貴族や紳士でないという意味)や財力がなくとも出世する機会に恵まれている。
あのイギリス最大の英雄とされているホレーショ・ネルソン提督も牧師の六男という中産階級の生まれだ。
イギリスで栄達を果たすなら海軍も魅力的だが――。
「……陸軍にしよう」
自然とその言葉がレイの口をついて出ていた。
(確かに海軍という選択肢がベターではある)
しかし海軍は生涯の仕事であり高度な能力が要求され、非常に専門的な職場だ。任官には長期の訓練が必要なばかりか、航海術、地図作成法、 造船術など様々な技術が要求される。
要はせっかく、前世の記憶と知識を持っていても陸軍より活かす場が少ないのだ。
「しかし陸軍であれば、纏まった金が必要になるか……」
18世紀の英国陸軍では、中佐までの階級に売官制(士官の地位、部隊の役職を金銭で取引)が採用されている――これは賄賂などの秘密裏なものでは無く公然とした権利とされていた。
それゆえ英国陸軍で昇進するには、莫大な金が必要だった。
仮に聖職者や軍人、法律家の家系という、いわゆる中産階級以下の生まれであれば――仮にそうでなくともあと10年も遅くアルフォード家に転生していれば、選択の余地などなく海軍一択だっただろう。
「それにしても、この時期に貴族でなくとも次男とはいえ、紳士階級の家柄に転生したのは運がいい」
フランス革命戦争まで12年、ナポレオン戦争までには23年もの時間があるのだ。
「準備期間があるなら、むしろ陸軍の方が成り上がりやすい」
読んでいた戦記や軍事関係の書籍もどちらかといえば陸の話に偏っていたこともある。
(そもそも前世では船に乗ったことがないどころか、海を直接この目で見たこともないしな)
それを言い始めれば戦争など経験したこともないのだが、それでも海で戦うというのがどういうことなのか全く想像できないことに比べ、財力さえあれば早い段階から確実に昇進できる陸軍の方が未来への明確な展望を持ちやすい。
「将来的には自身の連隊も持ちたいが……」
とてもじゃないが、現在のアルフォード家の財力で連隊組織など不可能だ。
アルフォード家の年収はジェントリ全体でみれば平均より多少マシ程度のようだが――。
(エスクワイアで平均より多少マシ程度とは……)
没落しているとまではいかないまでも、上手くいっているとはお世辞にも言い難い。
「ん、待てよ」
――逆に言えばこれまで没落していない以上は、産業革命という激動の時代を乗り切ったという意味に他ならないか?
額に指を当て自問する。
(だからアルフォード家を遡り3代ほど前から現当主である父――ヘンリー・アルフォード含め「資本的」な経営の最低限の適性はあったといえない事もない……か)
益があり理を以って説けば、ヘンリーも聞く耳ぐらいは持ってくれるだろう。
「問題は話をどうもって行くかだが……」
レイは相変わらずの曇り空に向かって、誰ともなく呟いた。
レイは一階の窓辺からその足で屋敷の二階にあるヘンリーの書斎を訪れた。
相手の予定は把握していなかったが、幸いにもノックに対してすぐに入室を許可する返事が返ってくる。
壁際に毅然と並んだ書架に取り囲まれた部屋。
その中に足を踏み入れると、中央のテーブルを挟むように置いてあった革張りのソファが目に付く。
すると、そこに腰かけ本を読んでいたヘンリーがおもむろに顔を上げた。
「レイか……ちょうどよかった。私もお前に話したいことがあったんだ」
「話したいこと、ですか?」
「ああ」
ヘンリーが促すように、高級感漂う向かいのソファを勧めてくる。
大人しく真正面に腰を下ろし、レイの方から本題を切り出した。
「父上の用件とは、私が病に倒れた際の――いえ、倒れた後の違和感のことですか?」
瞬く間にヘンリーの表情が硬くなる。
しかし、それも刹那のこと――。
「……人が変わったような態度について説明してくれるのか?」
じろりとレイを射竦める。
(流石は父上)
異常なほど話が早い。
ただ、4歳の息子に対する態度ではないが――。
そこで頭を切り替える。
「私は病で倒れていた間、長い夢を……いえ、悪夢を見ていました」
「悪夢?」
「極東のある国で生まれながらに不治の病に犯され、何も為せず何も果たせず最後は無様にベッドの上で死んで逝った――そんな悪夢でしたよ」
前世での経験を夢として説明する。
「そのことは、まあいいです。現実ではこうして病は全快し、何不自由なく歩き回れるのですから」
ヘンリーの顔を伺いつつ話を進めた。
「ただそれとは別に気になる事があります」
「気になる事?」
「もしかすると、私が見ていた夢は遥か先の未来だったのかも知れません」
何を馬鹿な、といいたげなヘンリーの表情。
それを無視して淡々と言葉を続ける。
「夢の中の私は、歴代の偉人や戦争の歴史ついて興味があったらしく、それらの書籍を読み漁っていたのですが」
深呼吸をひとつして、レイは姿勢を正した。
「その際、このイングランドも参戦した戦役についても何度か読んだ覚えがあります。先の七年戦争はもちろん現在の反乱――アメリカ独立戦争についても」
「アメリカ〝独立〟戦争ということは……」
後に続く言葉をレイが引き取る。
「現在の戦争はイングランドの敗北として後世に伝えられていました」
「本当の、話なのか?」
祖国の敗北を容易には受けいれたくない、という想いが言葉の端々から滲み出ている。
ヘンリーの懇願するような瞳から目を背けて、レイはアメリカ独立戦争のこれからの経緯と結末――そして今後数年間のイギリスの主な歩みをとうとうと語り始めた。
ヨークタウンの戦い、フレディク・ノースの辞任、ラキ火山噴火、パリ条約、小ピット首相就任、そしてアメリカ独立により波及するヨーロッパへの影響――フランス革命。
全てを話し終えたのは窓の外が暗くなりつつあったころ。
「――俄かには信じられない。それが本当に起こる事だとでもいうのか……」
「さあ、夢の内容がそうだっただけで、この世界でも必ず起こるとは限りませんから」
事実この世界が過去なのかよく似た別世界なのかは、自分でも判断がつかないぐらいだ――。
ヘンリーの瞳を見据える。
未来知識を持つ証拠という訳ではないですが、と一度、前置きして続きを述べた。
「今すぐアルフォード家の益になる情報として提示できるアイデアがあります」
「アイデア?」
「瓶詰め――新しい食料貯蔵法ですよ」
瓶詰めの原理と製造法は至って簡単だ。
口の大きなガラス瓶に調理しておいた食品を詰め、コルク栓でゆるく蓋をし、湯せん鍋に入れ沸騰点において30分~60分加熱、ビンの空気を除いたあとはロウで完全に密封する。
「夢の世界、この先の未来では加熱殺菌と真空というこの原理が食糧貯蔵の土台を担っていました」
手始めとして取り掛かるにはこれ以上の物もない。
「瓶詰めか……」
が、ヘンリーの返事はどことなく歯切れが悪い。
その反応に、レイは口調を強くする。
「私が述べたことを全て今すぐ信じてくれとは言いません。自分でも無理がある事だと自覚しています」
ですが、と意識して笑みを浮かべた。
「製造方法が正しいとするなら、それは莫大な富をアルフォード家にもたらすことでしょう。そして瓶詰めの製法が正しいかどうかを確かめるだけなら、リスクはそうかからない」
ローリスク・ハイリターンであるなら試さない理由はない。
「現在の食糧貯蔵は塩蔵、燻製などが中心ですが、これらよりも保存が効き味も保てる瓶詰めは、軍事、民間に関わらず大きな需要が見越せましょう」
今後も欧州で続く情勢不安から、瓶詰めの商品価値は高騰し一財産を築くことも可能なはずだ――。
しかし。
「無理な相談だな」
「なぜですか!?」
ヘンリーが憮然たる表情で視線を寄越した。
「決まっているだろう。それは私が紳士階級だからだ」
「どうしてここで紳士という話に――」
身体が頭を殴られたように硬直する。
そうだった、紳士の条件といえば――。
「思い出したようだな?紳士が製造業に従事すれば紳士の地位を失う事になる」
「――ッ」
「そうなればアルフォード家がこれまでのように敬意と尊敬を集めることは、今後一切なくなるだろう」
その一言に、レイが歯噛みする。
紳士とは製造業の経営に従事しない事が条件とされていた。
つまり政治活動や社会奉仕を事とし、閑暇を娯楽や社交に費やす有閑階級であることを求められたのだ。
(アルフォード家が紳士である限り、自ら労働をして報酬を得るような商人の真似ごとは不可能か)
半ば諦めかけた、そのとき。
あることが閃いた。
「ならば、信用できる親戚か使用人を独立させて資金とアイデアを貸し与えるという形にすればどうでしょう?それなら父上が紳士の資格を喪失することもないはずです」
「……金融ということか。それならば紳士的といえるな」
ヘンリーは一転して乗る気になる。
その反応が18世紀のイギリス経済でモノづくりに携わる工業・製造業よりも、カネを扱う金融・サービス業が優位に立っていることを如実に表していた。
しばらく逡巡するヘンリー。
部屋の中に沈黙が降りてくる。
そして数秒後。
ふっと唇の端を歪め、ヘンリーが鷹揚に頷く。
「よかろう、試してみようではないか」
「おお!」
ぐっ、とレイが拳を握りしめた。
――ここからだ。
ここから、レイ・アルフォードの栄達の物語を始めよう。