第1章 エピローグ
グレゴリオ歴 1792年 12月9日
日曜日の休日。
ウィンチェスターの商業区画にある喫茶店で、レイはある人物と待ち合わせしていた。
新聞を片手にコーヒーを飲んでいると、店のドアが開かれる。
見れば、見覚えのある人影が立っていた。
「――ああ、いたいた」
彼は店内をぐるりと見回すと、壁際の席に座ったレイの姿を捉え歩み寄ってくる。
「久しぶりだな、レイ」
「ああ、フィルも無事に帰ってこれたようで何よりだ」
レイが待ち合わせしていたのはフィルだった。
「こっちに戻ったのは8月の半ばごろだったか?」
「そうだ、ちょうど帰路の途中にテュイルリー宮殿であった武力蜂起と重なったんだ」
「8月10日に起きた、あの事件か」
この事件は、パリの民衆と連盟兵団(軍隊)がテュイルリー宮殿に攻め寄せ、守備についていたスイス人傭兵部隊との攻防戦の末に宮廷を制圧し、国王一家を捕らえた第二革命ともいわれる出来事だ。
8月10日事件が起きた背景には、国防の政策を巡ってルイ16世とジロンド派の対立が深刻化し、国王と国民の対立にまで発展したというものがあった。
「そういえば6月にもパリの民衆が煮え切らない国王の態度に抗議して、テュイルリー宮殿内で示威行進していたよな」
レイとテーブルを挟んで反対側に腰掛けながら、フィルがしみじみと呟く。
「今思い返せば、あれがフランス国民の最後通牒だったのか……」
「7月11日に〝祖国は危機にあり〟と宣言した立法議会――今は、国民公会だったか――の募兵活動も、フランス国民の愛国心が燃え上がったのはいいが、そのことが返ってルイ16世の曖昧な態度を際立たせてしまったな」
プロイセン軍が国境に迫っているという危機的状況のなか、それでもなお祖国防衛に非協力的な国王の態度は、もはやフランス国民からすれば許せるものではなかったのだ。
「それにあの事件における民衆側の勝利で、急速に政界の情勢も一変したし」
「ああ、ブルボン王政の終焉で王党派の失脚はもちろん、政権を握っていた穏健共和派も今回の失点は大きく、9月の選挙で革命の主導権を急進共和派に譲り渡すことになってしまったからな」
他にも8月10日事件を契機とし、これまで以上に民衆が革命の表舞台に躍り出てきたのに対して、革命初期の指導者たちは表舞台から退くこととなり、両世界の英雄とまで称えられたラファイエットもオーストリアへ亡命せざるを得ない状況になっていた。
「それを象徴するように、フランスは憲法王国から共和国へと名を変えたのだったか」
9月21日、新たに誕生した国民公会で国王廃止が宣言され、フランス共和国(フランス第一共和政)が成立した。
「そして随分と様変わりしたのは戦況の方もか……」
「王政廃止宣言の前日にあったヴァルミーの戦いが戦局を一変させたからな」
この戦いは、フランス領内に侵攻していたプロイセン軍を迎え撃つべく、革命政府がデュムーリエ将軍を総司令官とする軍を派遣し、両軍がフランス北東部のヴァルミー村近郊で対峙してから3日後の20日早朝に発生した戦闘だ。
「ヴァルミーの戦いか……」
フィルが思い起こすように呟く。
「たしかに、あの会戦は数の上で初めてフランス軍が優位に立った戦闘だったが、その実情は義勇兵との混成部隊だったという噂じゃないか……まさか、そんな寄せ集めの軍隊で欧州屈指の練度を誇るプロシア軍に勝つなんて、レイとローランドの話を聞いてなかったら、絶対に信じていなかったぞ」
ヴァルミーの戦いが勃発する前日の19日に、ケレールマン将軍が義勇兵を率いて援軍に駆けつけたことで、これによりフランス軍50000に対してプロイセン軍34000という数字の上では上回った戦力になっていた。
「噂じゃ、フランス軍5万の兵が皆口々に〝国民万歳〟と叫びながら突撃したらしい……」
「プロシア軍の総司令官ブラウンシュヴァイク公からすれば、革命軍は狂信者か殉教者の軍隊とでも思った事だろうな」
後にも先にもこれほど革命精神、変革への意欲が充満していた戦いも少ない。
「彼が早々とプロシア軍を撤退させたのは、天候不良で大砲の本来の威力が発揮されなかったこともあるが、5万人もの大合唱という異様な光景に気圧されたのも大きかったのだろう」
一呼吸置き、レイが思い返すように口を動かす。
「それに両軍共に被害は殆どなかったらしいが、敗戦続きだったフランスが初めてプロシア軍を退却させたという事実は、大いにフランス国内を沸かせることになった」
両軍の損耗率は1%以下であり士気の高さが勝因の第一という事情から軍事的、戦術的な意味においては価値のない戦闘。
(それでも、近代国民国家が絶対君主制国家に初めて勝利したという歴史的意義には無視できないものがある)
革命政府によって、身分、学歴、年齢に関わらず実力と実績によって何処までも昇進できる、という国民軍的性格のものに軍を改編した成果が、ヴァルミーで初めて発揮された形だ。
「10月に起きたジェマップの戦いも、その勝因の一つにヴァルミー勝利の勢いがあったのは間違いない」
オーストリア領の南ネーデルランド(ベルギー)国境の町ジェマップ。
ここはオーストリア軍のキャンプ地であり、10月6日にはフランス北部軍の圧力を受けてオーストリア軍が撤退していた。
しかし、ヴァルミー勝利を受けて勢いに乗っていたフランス軍40000は、この後退に追尾して間髪入れずに攻撃を敢行し、オーストリア軍13000を撃破したのだ。
「そして、フランス軍の勢いは留まるところを知らず、16日にはブリュッセル(現ベルギーの首都)を占領し、最終的にはアントワープ(沿岸近くの港湾都市)まで攻め上がったのだったか?」
「……アントワープまで占領されたのは、祖国にとっても無視できない痛手だったな」
英国にとってアントワープ――いわば大陸の沿岸は国防線であり、フランドル(オランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にかけての地域)の沿岸地帯は重要な貿易地帯でもあったからだ。
「実際、その一件でピット首相も各方面に戦争準備を命じて――って、そうだった」
と、思い出したようにフィルが声を上げた。
「遅れたけど、中尉昇進おめでとう。レイ」
「ありがとう」
苦笑いしつつ、レイはそう返した。
「とはいえ、これといって戦功を立てたわけでもないけどな」
11月、戦争準備に入ったイギリスの軍備拡張による様々な人事の結果、第53歩兵連隊の小隊長職に空きができ、連隊旗手であったレイがその枠に収まる形で小隊長に任命され、中尉へと昇進していた。
「フィルも連隊旗手に任命されたのだろう?」
フィルから届いた手紙にその旨が書かれていた覚えがある。
「ああ、第28歩兵連隊のな」
「おめでとう。これでお互い戦場行きの資格を手に入れたわけだ」
皮肉るような表情から一転し、レイは真剣な顔でこう告げる。
「祖国も経済権益の防護が至上命題な以上、口実さえあれば近いうちにフランスとの全面戦争を選択する筈だ」
そして、真っ直ぐにフィルを見据えた。
「戦場で死ぬなよ、フィル」
「レイこそ、出世を焦り過ぎてしくじるなよな?」
こうして軽口を叩き合ったあと、ほどなくして喫茶店を後にした。
年が改まった1月の終わり。
休暇を利用して屋敷に帰省したレイは、玄関ホールである人物を出迎えていた。
「あらためてローランド、よく来てくれた」
「せっかくご招待して貰ったからね」
黒髪の青年が、人の良さそうな笑みを浮かべる。
ローランドもフィル同様、この年明けにストラスブールからイギリスへと帰還していたのだ。
すると、後方から声がした。
「あらレイ兄さん、お客様ですか?」
吹き抜けになっている二階から、ティナがそういって顔を出した。
階段を下りて歩み寄ってきたティナに、ローランドは右足を後ろに引いて、頭を下げ丁寧なあいさつをする。
「お初にお目にかかります。僕はローランド・ヒルと申します」
「初めまして。わたくし、アルフォード准男爵家のティナと申します。お目にかかれて光栄ですわ」
対してティナも、右足を左足の後ろに持っていき、小さく膝を曲げて淑女らしい返礼をした。
二人が挨拶を交わし終えたところで、レイが口を挟んだ。
「ティナ、私達は客間で話しているから、あとで紅茶でも届けさせるよう使用人に伝えてくれないか?」
「ええ、そう伝えておきます」
そう応えるとティナが踵を返し、そのまま立ち去る。
ローランドはホールの二階に上がり、廊下の向こうに消えていく様を見届けると、感嘆の息を吐いた。
「しかし、ミス・アルフォードはとんでもない美人だね。あれほど綺麗な人を僕はこれまでの人生で一度も見た事がない」
「……ティナも、もうそんなことを言われる歳か」
返答しつつ、レイは客間に向かって歩き出す。
今年で16ともなれば、花盛りといっていい年頃だ――。
隣に並んで着いてきたローランドが、視線を向けてくる。
「それにレイのお姉さん――レディ・ウォルスターもまた驚くべき美貌の持ち主だって社交界で噂になっているらしいし、アルフォード准男爵家は美しい容姿に恵まれる家系なのかな?」
去年の終わりにイザベラとウォルスター男爵の結婚式が行われ、正式に二人は夫婦となっていた。したがって、めでたく奥様と呼ばれる立場になったイザベラは、現在ウォリックシャー州に存在するウォルスター男爵家の屋敷に移り住んでいる。
「まあ内面の美しさまでは、それほど恵まれることもなかったようだが」
「君のようにかい?」
じろりと睨め付けるレイに、ローランドが冗談だ、と肩を竦めた。
そんなやり取りをしながら客間に辿り着き、雑談を交わしているうちにあの出来事まで話が及んだ。
「一週間前、ついに革命政府の手によってルイ16世が処刑されたな」
1793年1月21日、ルイ16世はルイ・カペーとして革命広場に設置されたギロチンで斬首刑に処された。
「……僕は、未だに戸惑っているよ」
暗い面持ちでローランドが応える。
「この国でも清教徒革命の際に、国王(チャールズ1世)が処刑された事もあるし、処刑の話自体が昨日、今日出てきた話じゃないことも理解している」
12月の初めに国王裁判が開始されて以来、ルイ16世は何度も国会喚問を受けており、裁判の審理が終わった直後の1月15日から19日の4日間にかけて、その処遇を決定する投票が国民公会で行われていた。
「けれど、まさか本当に投獄や追放ではなく、国王の処刑を選択するなんて……」
「反革命派と連絡を取り合っていたことを示す証拠文書が見つかったことと、弱冠25歳の国会議員による処女演説が決め手になったな」
「確か……サン=ジュスト、という名前だったかい?」
「――ああ、そうだ」
後にロべスピエール(フランス革命期の代表的な革命指導者)の側近となり、恐怖政治を形成したルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュスト。
(人は罪なくして国王たり得ない、だったか)
25歳というフランスの最年少議員は、たった一度の、それも人生で初めての国会演説によって歴史に名を残し、国王であった男の結末までをも決定付けた。
「ルイ16世が処刑されたことで、ピット首相がフランスを非難し、駐英フランス大使に国外退去を命じたね」
「これで、明日にでもフランスから宣戦布告されるのは確実となった」
国外退去の口実は内政干渉とされたが、その真意が革命戦争に参戦することでフランドルにおける英国の経済権益を保護することと、地中海における制海権の確保であることは明白である。
「こうして次にレイと面と向かって話せるのも、戦場から帰還したあとになるのかな……」
「それも死ななければ、だけどな」
そう言うと、ローランドが透き通った瞳を向けてくる。
「幸運を祈っているよ。レイ」
月が変わった2月。
昼過ぎにウィンチェスターの街中を歩いていたレイは、通りの向こうに酷く焦った様子のパトリックを見つけた。
「アルフォード大尉殿!」
そう詰め寄ってきたパトリックの顔には、隠しきれない動揺の色が浮かんでいる。
「こちらにいらしたのですか!?」
「どうした?ボネット中尉」
あれからパトリックも中尉に昇進していたが、月が変わる直前に官売制を利用し、中隊長に就任したレイは、それに伴って大尉の階級を拝命していた。
それ故、上官として対応したレイに、パトリックが感情を押し殺すような声でこう告げる。
「たった今、フランスがこの国に宣戦布告したという報告が届きました」
グレゴリオ歴1793年 2月1日。
フランス共和国は、グレートブリテン王国に宣戦布告。
これにより、イギリスは欧州に留まらず後に世界規模での大戦となるフランス革命戦争へと突入したのだった。