フランス革命戦争
グレゴリオ歴 1792年 1月5日
「ただいま戻りました」
ストラスブールから帰還したレイが屋敷の玄関ホールに入ると、ティナとエミリアに出迎えられた。
「お帰りなさい、レイ兄さん」
「壮健なようで何よりです」
「だいたい一年と半年ぶりですか。皆も相変わらずのようで安心しました」
数秒後、遅れてイザベラが姿を見せる。
「久しぶりね、レイ。もう何百年ぶりになるのかしら?」
「姉さんもお変わりないようで。最初、なかなか出てこなかったのでやっと何処かに嫁いだものかと勘違いしてしまいましたよ」
と、二人の間で恒例のやりとりを交わし、エミリアと共に屋敷の廊下を歩きだす。
「ところで父上はどこにいるのでしょう?」
「今は所用で外出しています。ですが、もうそろそろお戻りになる時間ですから、仕事部屋の方で先に待っていては?」
「そうですか。ありがとうございます」
そう応えて、レイは裏口の方角に向かう。
ほどなく、レイが革張りのソファに座っていると仕事部屋のドアが開いた。
ヘンリーが隙間から入ってくる。
「レイ、帰っていたのか」
「お久しぶりです。父上」
立ち上がって挨拶を交わした際、レイはあることが気になった。
「ところで、父上が両手に持っている物は何でしょう?」
「これはお前へのプレゼントだ」
そう言って、ヘンリーはピストルとサーベルを差し出す。
反射的に受け取ったレイが、一先ずピストルの方をまじまじと眺める。
「素晴らしい仕上がりですね」
ズシリと重いそれは、持ち手の部分に見事な装飾が施され、高級感が漂っていた。
「どちらも特注品だからな」
誇らしげなヘンリーの口調に、レイはサーベルへと視線を移した。
黒革の鞘からサーベルを抜くと、研ぎ澄まされた幅広の刃が銀色に輝いている。
「もしかしてこのサーベルは、ゾーリンゲン製ですか?」
ゾーリンゲンとはドイツ西部にある中世以降から刀剣生産で有名な地方都市だ。
貿易都市のストラスブールに近いこともあり、何度か商業区画で見覚えがあった。
「ああ、士官学校の卒業祝いにな」
「ありがとございます」
一度頷くと、ヘンリーは口元を引き締めた。
「それで軍の方には何時頃入隊するつもりなのだ?」
「所用が済みましたらすぐにでも」
「そうか」
真剣な顔で頷き返し、ヘンリーは最後にこう告げた。
「やるからには最善を尽くしてこい」
翌日。
屋敷の中庭にいくつもの銃声が連続で鳴り響いていた。
遥か先に立て掛けられた人型サイズの的は、射撃手以外の者からすれば豆粒ほどの大きさにしか見えないだろう。
レイは慣れた動作で弾薬と弾丸を詰め替える。
再び構えた――直後、銃口が火を噴いた。
硝煙が渦巻く中でレイが目を凝らす。
(手ごたえは感じているが)
しかし、何といっても200ヤード(182メートル)先の標的なので、射撃手であるレイにもはっきりしたことは分からない。
「10発中10発――全弾、命中ですな」
ふいに背後から声をかけられ、レイは振り返る。
30半ばの男性が望遠鏡を片手に立っていた。
声の主は、エゼキエル・ベイカー。
ホワイトチャペル(銃職人が多く住むロンドンの区画)出身の高名な銃職人だ。
「この距離で全弾命中とは……」
実験を見物していたヘンリーが驚きに目を見開いた。
「レイ、素晴らしい腕前だ!」
「いえ、これは私の腕というよりこの小銃のおかげでしょう」
右手の新式ライフル銃を一瞥して、ベイカーに向き直る。
「流石です。ベイカー氏」
「ふはは、私ならばこれぐらいは当然ですな」
レイの称賛に、ベイカーが上機嫌な笑みを返す。
「この新式ライフル銃――ベイカー銃であれば、200ヤードまでは百発百中で、風がなければ300ヤードでも命中する事でしょう」
史実においてイギリスの名銃と謳われ、1800年に完成したベイカー銃。
しかし、この世界ではレイの介入したアルフォード家によって、多額の報酬と工房、将来独立する際の資金援助という破格の条件と共にホワイトチャペルからエゼキエル・ベイカーを領地に招いていた。
そして、2年前に新式ライフル銃の製作を依頼し、史実より8年早いベイカー銃が誕生したのだ。
「このベイカー銃、あと一年でどれぐらいの量産が可能ですか?」
「そうですな……一年後でしたら30挺を多少前後という所でしょうか」
やや過大に性能を誇張していた先ほどと打って変わり、量産に関しては慎重そうな口調。
(イギリスの開戦までに、だいたい一個小隊分というところか)
僅かな逡巡の末、ヘンリーの耳元に囁く。
「戦争が始まるまでに量産されたベイカー銃は、私が自由に裁量しても構いませんか?」
「ああ、好きにするといい」
その言葉に、レイは心の底から安堵する。
(正直、心強い数とはいえないが、あるのと無いのでは全く違う。それに使い方次第では――)
レイが視線を遠くにやる。
その瞳は、まだ見ぬ戦場を確かに見据えていた。
「――全体、進め!」
はきはきとした男の声が野原に響き渡った。
雲に覆われた空の下、千数にも及ぶ軍靴が大地を力強く踏みしめている。
ここはハンプシャー州のとある平原。
英国陸軍の第53歩兵連隊が整然と行進を続けていた。
「――……」
戦列の後方では軍旗を掲げたレイがしっかりとした足取りで歩を進めている。
この演習から遡る事、半年前。
ロンドンの官庁街(中央省庁や政府機関が立ち並ぶイギリス政府の中枢)にある陸軍総司令部で所定の手続きを済ましたレイは、英国陸軍第53歩兵連隊に旗持ち少尉として入隊した。
多くの国の軍隊において、軍旗とは隊の精神を象徴するもので神聖視される存在だ。
したがって戦闘中にそれを失うのはこの上ない恥辱とされ、敵の軍旗は鹵獲するべき対象となっている。
それゆえ連隊旗手に任命されるのは、とても名誉な事であり昇進も優先されるため、エリートだけが任命される特別な役職であった。
そんな出世コースの連隊騎手として任官できたのは、准男爵家の家柄とストラスブール士官学校繰り上げ卒業という経歴が評価されたからだろうな――。
「よし、止まれ!」
頭の片隅で考えていると、眼前の連隊長が馬上から号令をかける。
「後列!回れ右!」
そして矢継ぎ早に次の指示を出し、間髪入れずに蹄を鳴らして駆けだした。
「ッ――!」
その場から立ち去る上官の背中を、レイも慌てて追いかける。
連隊旗手には、演習地や戦場のなかで兵士たちに連隊長の所在を知らせ、気持ちを奮い立たせる役目があるからだ。
レイは唇を噛み締めて、広大な平原を駆け回った。
演習を終えたのは夕方前。
駐屯地であるハンプシャー州の州都ウィンチェスターは帰還した第53歩兵連隊の兵士達で溢れ返っていた。
中世の雰囲気を色濃く残す街並みを一度見回し、レイが兵営に足を向ける。
そのとき、後ろから声をかけられた。
「アルフォード少尉」
「ん?」
レイが誰かと振り向けば、同じ年ぐらいの若い軍人がいた。
明るい茶色がかった髪に、涼しげな切れ目が特徴的な美青年。
実年齢以上の大人びた雰囲気を纏っている。
彼は見事な敬礼を此方に向けていた。
「ああ、ボネット少尉」
声の主は、パトリック・ボネット。ボネット夫人の息子でレイの従兄弟に当たる。
パトリックはレイとほぼ同時期に第53歩兵連隊付として配属されていた。
返礼しつつ、レイの方から歩み寄る。
「何か御用ですか?」
「いえ、遅くなりましたが、お祝いの言葉を、と思いまして」
「お祝い?」
「はい。イザベラ・アルフォード嬢がご婚約なされたと伺ったのですが?」
「ああ、なるほど」
ことここに至り、レイはようやく理解した。
先日、イザベラがとある男性から求婚され、それを了承していたのだ。
「お相手は、貴族のご当主だとか?」
「ええ。私もまだお目にかかったことはありませんが、姉のパートナーは数年前に貴族に叙されたウォルスター男爵らしいですね」
ただし、功績を評されたのはウォルスター男爵本人ではなく父親の方だ。
男爵の父ウォーレン・ウォルスターが当主のウォルスター准男爵家は、古くから続く由緒正しい准男爵の家柄で、地元のウォリックシャー州北部一帯の紳士階級グループで代表的な立場にあった。それだけの有力者であったため、州の選挙区から現在まで4代続けてウォルスター家の当主が庶民院議員に当選していたほどだ。
そして、現当主のウォーレンは議員を務める合間に、相続した荘園の改良を続けこの10年で収穫を倍増させた。
その由緒正しい家柄と新農法の業績が評価され男爵位の爵位を打診されたのだったが、彼は庶民院の議席を失う事を嫌い、代わりとして嫡子であったジェフリー・ウォルスター――現在のウォルスター男爵にお鉢が回ってきたのだ。
従って、ウォルスター男爵の年齢は28歳と貴族の当主としては若手である。
(それにティナから届いた手紙でも、背の高い美男子だと書かれていたな)
だとすると、イザベラの容姿とアルフォード家の家柄を考慮しても、釣り合っているどころかお釣りがくる。
(年齢、容姿、身分、年収ととんでもなく優良物件のウォルスター男爵だ。婚約の話を聞いてしばらくは、一体いつ頃ウォルスター男爵が姉さんの性格にうんざりし、婚約破棄することになるのかと気が気でなかった……)
幸いなことに今のところ、本人たちはもちろん両家の両親たちも結婚に前向きなようで婚約がなかったことになりそうな気配はない。
「結婚式はいつごろを予定していますか?」
「まだ正確な日時の方は決まっていません。ただ父ヘンリーはどうにか年内中に挙式を行いたいと望んでいるようで」
「年内ですか?母からは今年の社交期に出会ったばかりだと聞いていましたので、もう少し遅いものかと……」
驚いたような呟きに、レイは苦笑いして答える。
「父は、軍人である私も結婚式に参加できるようにと、大陸の戦争がこの国に飛び火するまでにどうにかして結婚式を終わらせたいと考えているようです」
1792年3月。ヴァレンヌ事件以来周囲からの支持を失ったルイ16世はやむをえずに穏健共和派であるジロンド派に政権をゆだねた。
政権を掌握したジロンド派は戦争による革命思想のヨーロッパへの波及を狙い、新しい自由の十字軍という陣論を展開する。
そして運命の1792年4月20日――フランス革命政府が革命干渉工作を理由にオーストリアへ宣戦布告。
これにより、フランス革命戦争が勃発したのだ。
「大陸の戦争、ですか……」
目を丸くしたまま、パトリックが呟いた。
「しかし、戦況はオーストリアの連戦連勝で、近日中に同盟国であるプロシアも対フランス戦争に参戦するのは確実視されています。それこそ年内には決着するという声も――」
フランスは革命の勢いに乗って自分たちの方から戦争を仕掛けたのだったが、周囲の誰もが予想していた通りに、この2ヵ月間敗北を繰り返していた。
「フランスがこれ以上戦線を拡大する余裕もないでしょうし、我が祖国の外交方針からしても今更参戦して多少の植民地を獲得するより、中立という立場で終戦後の仲介に乗り出す可能性の方が大きいと思いますが?」
この頃のイギリスは、他の列強諸国より革命に寛容的であり不干渉を貫いていたのだ。
「この対フランス戦争は、ルイ16世の不始末を義兄であるレオポルト2世が収拾するための――いわば身内同士の争いとも言い換えられるわけで、そちらの方が両国に恩を売れることは明白です。この程度の事を政府が理解してないとは……」
「ええ。ボネット少尉の仰ることはごもっともです」
パトリックの指摘に、レイが同意するように頷いた。
「しかし、父は戦況次第で祖国が対フランス戦争に参戦する可能性を考慮しているようで」
「まさか、ここからフランスが戦線を押し返すと?」
「そうは断言しませんが、先の七年戦争のような誰も予想できなかった結末も考えられますから」
そう告げて、パトリックの表情を見つめる。
納得したという様子でもないが、反論も見当たらないようだ。
レイはパトリックからそっと視線を外し、高い空を見上げる。
この時刻でも高々と上がった太陽が、新たな初夏の到来を告げようとしていた。