卒業
グレゴリオ歴 1791年 10月28日
放課後。
レイとフィルの二人はいつものように、講義を全て終え、士官学校の食堂で夕食を取っていた。
夕食の時間帯だけあって、辺りには賑やかな声が響いている。
だがそれとは別に、レイは数カ月前と比べ、ざわめきが険を帯びたものへと変化しているように感じていた。
「皆、相変わらずざわついているな」
同じく変化に気づいた様子のフィルが、そうぼやいた。
「……やっと落ち着いたと思っていた国内情勢が、ここ数カ月で再び緊迫してきたんだ」
レイは注文したばかりのコーヒーで唇を濡らす。
「それを考えれば無理もないだろう」
「たしかにここ最近はフランス全土がどこか緊張をはらんでいる空気だからな……」
フィルがしみじみと口にする。
「先日の憲法制定に関しても未だ反革命派の貴族たちが猛反発していると耳にしたし」
9月3日には、フランス最初の憲法が制定され、これによってフランスは立憲君主制の道のりを歩き始めた。
だが、新体制へと移行すればするほど、旧体制の象徴である貴族たちとの対立が激化するのも自然の成り行きである。
「ピルニッツ宣言を利用してフランス人の敵愾心を煽っているのは反革命派の貴族だけでなく亡命貴族の手の者もだったか」
「彼らはオーストリアの軍勢を利用して革命派の政権を討ち倒せば、フランスに戻ってこれる、と考えているのだろう」
「と、なるとレイの言っていた通り戦争になりそうだな」
フィルがそう述べた直後、レイは背後から肩を叩かれる。
「――面白そうな話をしているね」
振り向くと視線の先に黒髪の青年が立っていた。
「……ローランドか」
「隣に座っても?」
「ああ、かまわない」
ローランドと出会ってから2カ月ほどで、レイとフィルはお互いに親しくなり敬語もなく名前で呼ぶようになっていた。
礼を述べて隣に腰掛けたローランド――その事実に、レイは胸を震わせる。
(自分の隣に座っているのが、あのローランド・ヒルだなんて、未だに信じがたいな)
フランス革命戦争とナポレオン戦争の四半世紀にも及ぶ大戦争。
その戦役で数々の英傑が誕生したが、その中で英国を代表する英雄を三人選べというなら大半の人は、真っ先にホレーショ・ネルソンを挙げることだろう。
あのナイルの海戦やトラファルガー海戦が、もはや伝説ともいうべき空前絶後の大勝利であったことは今更いうまでもない。
次に来るのは、おそらくアーサー・ウェルズリーの名だ――。
前世の日本では残した偉業の割にそれほど認知されていなかったが、半島戦役、ワーテルローの戦いを通じて英国陸軍史上最大の成功をおさめた人物である。
ウェルズリー――後の初代ウェリントン公が世界の命運を左右するワーテルローの戦いでナポレオンと一大決戦の末に連合軍を勝利に導き、これ以降軍事用語で〝ワーテルロー〟とは雌雄を決する戦いと同義になったといえば、その功績と偉大さが少しは伝わるだろうか。
そして、ここまでは予定調和であり、大半の者が悩まずに選出する。
しかし最後の一人については、少し悩むかもしれない。
シドニー・スミス、ラルフ・アバークロンビー、ジョン・ムーアなど陸海問わず英国の英雄候補は多い。
(それでもあと一人だけ選べというのなら、俺は自信をもってローランド・ヒルを三番目に選出する)
ローランド・ヒル――ヒル将軍はウェリントン麾下の将軍で最も有能であり、親父と親しまれ、あらゆる階級の兵士たちに絶大な人気を誇った名将中の名将だ。
元々ウェリントン公は軍団規模の指揮でも、官売制と年功序列の弊害(無能な将軍の誕生)から師団指揮官を介さずに直接指揮をしていた。
けれどもヒル将軍にだけには独立指揮を預けていたことからも、その能力の高さが伺い知れよう。
それだけの人物という事もあり、最初は同姓同名の別人かも知れないという疑念を持ったレイだが、彼の年齢や出自、軍歴から、まず間違いなくあの英雄ローランド・ヒルであるという確証を得ていた。
そんなレイにとってネルソンやウェリントンに比肩するような英傑が目の前に現れたのだ。
(今はだいぶんマシになったが、それを自覚したばかりの頃は日常会話ですら緊張で満足に話せなかったからな……それを思えば、こうして名前で呼び合える関係になるとは感慨深いものがある)
レイが自身の成長を実感していると、
「それで二人してなんの話を?」
未来の英雄が、微笑を浮かべてそう尋ねた。
「フランスの国内情勢が戦争前夜に似ているなって話さ」
「なるほど、戦争前夜か……」
フィルの言葉に、ローランドが逡巡するように目を閉じる。
「……今月の頭にあった新しい議会でも開戦派が多数派を占めているようだし、戦争は避けられないかもね」
これまでの憲法制定国民議会はその使命を終え解散し、10月1日に新しい議会――立法議会――が招集されていた。
その立法議会で最大の議題となったのが開戦か否か、であったのだ。
「政権を掌握しつつある共和派諸派閥でも開戦論を主張する者が出始めているのだったか」
「それもあって民衆の間でも開戦論が高まっているし、フランスには開戦を止められる者がいない状況だよ」
革命派が無謀な戦争に突入しようとしているのだから、現状革命に不満を抱いている国王・宮廷も反対する理由がない。
(革命戦争へのカウントダウンは既に始まっているという状況だな)
レイが思案に耽っているなか、フィルがある疑問を口にした。
「開戦が予定調和だとすると、フランスの対外戦争はどうなると思う?やっぱりフランスの早期降伏か?」
「正直、僕には読めない」
そう前置きし、ローランドは持論を語り始める。
「ただフランスの早期降伏という可能性以上に、泥沼の長期戦というのもあり得ると思っている」
「泥沼の長期戦だと?とてもじゃないが今のフランスが臨戦態勢を整えられるとは思えない」
「たしかに現在のフランス政府では、満足な軍需品を揃えることすら難しいだろう。それでも――」
彼は真剣な表情でそれを告げた。
「簡単に兵士の士気が落ちることはないだろうね」
「どうしてそう言える?」
「――国民国家の戦争だからか」
横から口を出したレイの言葉に、ローランドが静かに肯首する。
「フランス国民は、自分たちの力で貴族の圧政から解放され革命を成した。だがそれも今度の対外戦争で敗戦すれば、革命の成果である共和主義的な政治体制は潰え、再び絶対王政のもと貴族による苛烈な圧政が再開されるであろうことは明白だ」
これまで通りの旧体制であるフランスの方が欧州の王政諸国にとっては好都合だ。
そうであるならばフランスの対外戦争の敗戦は、再び亡命貴族たちを中心とした身分社会の時代へと逆戻りするのと同義であった。
「元国王軍のほとんどが革命政府に忠実でない以上、国防のためには新たな軍隊を創設せざるを得ない。そしてそれは自国の市民を軸とした――いわば革命によって意思統一された軍隊となるだろう」
この時代の軍隊では、未だ私兵は一般的で無い。
将校が上流階級出身者から構成される一方、兵士に関しては傭兵制が採用されており、必ずしも自国人民の中から募られたのではなかった。
愛国心に燃え上がり多くの市民が参加したアメリカ独立戦争ですら、相対的にみれば外国人傭兵と逃亡者や捕虜の徴兵が中心だったぐらいだ。
「つまり今回の戦争はこれまでのような絶対王政の政権が手段として軍事力を行使するのではなく、国民が選んだ政権と国民志願の軍隊が自分たちの自由を勝ち取るために戦うんだ。士気が高まらない筈がないしそう簡単に落ちるとも思えない」
「……そう言われると兵の士気が高揚するのは理解できた」
そう言って、フィルが一応の理解を示した。
「だとしても、軍人としての訓練を受けた将校貴族の大半が亡命している現状だぞ?頭がなければいくら優秀な手足があろうと結局は烏合の衆だ。やっぱり長期戦になるとは到底思えない」
「フィルの言う通り、軍組織の中枢である将校貴族の多くが亡命しているのは間違いない」
だけど、とローランドが口元に弧を浮かべた。
「それは同時に、組織内に流動性があると言い換えることも可能じゃないかな?」
「流動性?」
「将校不足な以上は何処からか持ってくるしかない。しかし今から教育するのでは間に合わない。となれば身分などのあらゆるしがらみにいっさい関係なく軍人として有能な人物を上に引き上げるしかないのは道理だろう?」
「実力主義、か……確かにそれは革命家たちが掲げた啓蒙思想とも相性がいい」
そう口にしながら、レイは内心舌を巻いていた。
(つくづくローランドは先見性に富んでいるな)
未だ欧州の人間が体験したことのない国民国家が巻き起こす近代戦というものを驚異的な水準で理解している。
そしてローランドはいつになく真剣な声音で告げる。
「愛国心により狂信的ともなった兵士と卓越した指揮を誇る名将。これらが組み合わさったとき、フランスは真の脅威となる。今は鳴りを潜めているが、この国の持つ潜在能力の高さはこれまでの歴史からも読み取れるだろう?決して侮れる存在ではない」
そこで一転して柔らかな表情を見せた。
「まあ、そこら辺のことは二人が正式に任官されたときに改めて実感するだろうね。例えば軍という組織に置いて有能な上官がどれほどありがたいか、などというのは特に身に染みて、ね」
「……欧州では官売制が廃れていくなか、我が祖国だけは未だに官売が活発だからな」
能力さえあれば成り上がれる実力主義のフランス陸軍に対して、こちらは金さえあれば出世できる官売制のイギリス陸軍。
どちらの軍隊が強いかなど、戦うまでもなく明らかだ――。
レイは想像した悲惨な未来を頭から打ち消し、既に冷めきったコーヒーを飲みほした。
そうした日常を挟みつつ、歩兵科に必要な全課程を修了し卒業試験も無事に乗り越えたレイはいよいよ帰路に着く日が訪れていた。
今は馬車が用意されるのを校門前で待っているところだ。
「――レイ、道中気を付けてな」
「本当にね。今のフランスは戦争熱にあてられているから」
見送りにフィルとローランドが来ていた。
「気遣いはありがたいが、それはこっちのセリフだ」
ため息交じりに、レイはそれを告げる。
「フランスの対外戦争が不可避なところまで来ているなら、むしろ真に危険なのはこの地に残るお前たちだろう」
深呼吸をひとつして、真剣は瞳で二人を見据えた。
「ストラスブールは国境沿いの街ゆえに、戦争となれば最前線となるのだから」
「仮想敵がオーストリアとプロシアなら主戦場はここより北東部の南ネーデルランド方面になるのでは?」
フィルの反応にレイはかぶりを振る。
「前提が違う……フランスにとっての仮想敵は、欧州の絶体王政に基づく国の全てだ」
二人はレイの返答に言葉を失う。
「そんな……まさか今度の戦争は欧州全土を巻き込んだ大戦になるとでも!?」
意味を察し狼狽するフィルに、レイはあくまで冷静に応える。
「正確には、そう成らざるを得ない、というべきか」
「……なるほど、言われてみれば道理だね」
これまで考え込んでいたローランドが口をひらいた。
「王権神授説が蔓延する欧州でフランスほどの国際影響力をもつ大国が絶対王政から民主的共和制を掲げることなど、王政諸国からすれば許容しえない、か」
「同時にそれはフランスにとってもいえることだ。フランスにとっての国益、いわば共和制を損なわせかねない王政諸国に囲まれているこの現実を許容するのは難しい」
ピルニッツ宣言によって、フランスはそのことをより強く意識したのだ。
「だからこそ、フランスのあらゆる辺境は東西南北に関わらず最前線となりかねない」
「神聖ローマ帝国、プロシア王国、サルデーニャ王国、ナポリ王国、スペイン王国、そして我が祖国――グレートブリテン王国も、か」
それぞれの国益(政治制度)を守るために、隣国の脅威を取り除こうとする予防戦争の火種は何処の国にでも存在している。
「……それ程の大戦に、俺達も巻き込まれるかもしれないのか」
普段のフィルからは想像もつかない、沈んだ声。
一瞬の沈黙。
そんな悲観的な空気を破ったのはレイだった。
「つまり、それだけ栄達の機会には恵まれているということだ」
「ふふ、イングランド人らしい上昇志向だね」
「俺に限った話じゃないだろう?上流階級出の子弟が軍に入る理由など大抵はそんなところだ。二人はそうじゃないのか?」
「ああ、その通りだ」
レイの挑発的な視線に、フィルが威勢よくうなずいた。
三人で顔を見合わせて笑っていると馬車がやってくる。
「じゃあ、そろそろ行ってくる」
「ああ、今度は祖国で再会しよう」
「君の栄達を祈っているよ、またねレイ」
レイは再会を約束して馬車に乗り込む。
それを確認した御者が馬の手綱を引いた。
戦争前夜のためか、馬車の窓から見える街並みは、どこか熱気を帯びている。
ストラスブールでの生活を振り返るように、レイはしばし流れる景色を眺めていた。





