出会い
グレゴリオ歴 1791年 9月4日
翌日に新入生の入学を控えた昼下がり。
レイは士官学校の敷地内を出て、街のなかを散策していた。
人で溢れた大通りは、様々な言語が飛び交っている。
それも東西間の中継貿易拠点であり、二言語併用主義が採用されているストラスブールではありふれた光景だ。
そして数多くの言語の中でも、一番喋られているはドイツ語であった。
(まあ、ドイツ語といっても、低地アレマン語――いわば方言が強すぎて、留学した当初は理解するのに苦労したが)
次に多いのがフランス語だろうか。
ストラスブールの住人では、エリート層が使用する言語である。
それゆえ、士官学校でも教官の多くはフランス語で講義していた。
(そもそもストラスブールはフランスなので、それが普通といえば普通なんだよな)
独自性が強すぎて、偶にこの街がフランスに帰属しているのを忘れそうになる――。
そんなことを考えているうちに、通りを抜けた。
小道に入り街の中心に近づくほど、木造で統一された家群から赤茶の混じった石材建築物に移り変わっていく。
この独自の景観は、ストラスブール由来の石材不足が大きく影響している。
周辺地域では数少ない石材の採取地であるヴォージュ山脈。
その赤砂岩を使用できるのは、資材輸送のコスト面から裕福な市民だけであり、他の庶民は木造建築を余儀なくされたことが、この街の景観をかたちづくる要因となっていた。
途中、門閥貴族の屋敷前を通る。
辺りを見回せば、広い敷地の邸宅が他にも立ち並んでいた。
一年前は革命の傷跡が色濃く残っていたこの辺りの区画も、今ではすっかり復興している。
しかし、全てが元通りというわけにもいかないようだ。
その証拠にどこの門閥貴族の邸宅を見ても、華美な装飾などが見られない落ち着いた印象の外観ばかり。
(不自然なデザインや所々に目立つ凹みからして、どうやらこれ以上民衆の反感を買わないように意図的に外しているようだな)
かつては権勢を誇っていただろう門閥貴族たちも、封建制度の廃止により過去の栄華までを取り戻すことは出来ないということだろうか――。
思考に耽りながら、レイはあてもなく歩を進めた。
10分ほど歩いて、街の中心部にある広場に辿り着く。
ふと足を止め、レイは天を仰いだ。
そこには天に突き刺さるような尖塔と荘厳な彫刻装飾の大聖堂がこちらを睥睨していた。
それは全長142メートルの高層建築で、現時点では世界一の高さを誇っている。
東側はロマネスク様式の特徴が色濃く残り、西側はゴシック的な彫刻が幾多にも施されていた。そのことが大聖堂の歴史と風格を感じさせる。
ストラスブールの象徴をしみじみと眺めていると、レイの後ろから聞き覚えのある声がした。
「おお、レイじゃないか!」
広場の方から、歩み寄ってきたのはフィルだった。
「こんなところで会うなんて奇遇だな!」
「ああ、全くだ」
同じ街といっても士官学校の敷地内以外でばったり出くわすなど滅多にない。
「フィルは何か用事でも?」
「別に用事があったわけじゃないんだ。ただ、いい天気だったから街のなかを散歩していただけさ」
「確かに、イングランドじゃ一日中晴れている日は珍しいからな。こっちに滞在しているうちに天気を楽しんでおく、というのも悪くないか」
「レイはどうなんだ?」
「こっちも只の散策だよ。やみくもに歩いていたら、たまたまこの大聖堂に辿り着いてな。この街の象徴だし、いい機会だから一度じっくりと眺めていたんだ」
そう言うと、フィルが笑みを返してくる。
「それなら時間がありそうだな。せっかくだしこれからディナーを兼ねて食事しつつ話でもしないか?」
「ああ、かまわない」
レイは大聖堂に背を向け、先導するフィルの後に従った。
その場から歩いて、10分少し。
士官学校からほど近い酒場に場所を移して、雑談を交わすことになった。
未成年の飲酒に対する法整備がされていない時代なので、学生でも引き留められる心配もない。
レイとフィルは二人掛けのテーブル席に座る。
メニューをみれば、エール、葡萄酒、果実蒸留酒など種類豊富な酒が揃えられていた。
数分ほどで、お互いの注文した飲み物が届けられる。
「――乾杯」
辺りに掛け声が響いた。
木製のジョッキを掲げ、その中身を口にする。
芳ばしく、風味豊かな味わいと喉越し。
さすがに、この地の酒が欧州中に知られているのも納得できる味だった。
ほどなく大皿に載せられた料理が運ばれてきた。
テーブルの上には、キャベツと豚肉をジャガイモで合わせたシュールックに、塩漬けした川魚、フォアグラとベーコンを包んで焼きあげたパイなど、次々と置かれている。
どれもアンザス地方の名産で昔ながらの郷土料理だ。
二人は食事に手を付けながら、気さくに言葉を交わす。
「明日には新顔が士官学校に入学するし、俺達ももう二年目になるんだよな」
「そういや訓練課程の方は順調か?」
「悪くはないね。卒業も通常よりは少しばかり早くできそうだ」
フィルがちらりと見て、こう切り出す。
「レイはずいぶんと順調らしいな?」
「ああ、遅くとも年明けまでには卒業できそうだ」
現時点で卒業に必要な全課程の七割ほどを修了していた。
(このペースなら半年ほどの繰り上げ卒業が可能だろう)
塩漬けされた川魚をレイが口元に運んだ。
と同時に、右隣のテーブルから、男二人の話し声が聞こえてくる。
「くそっ!ヴェレンヌの一件以来、またこの国に暗雲が立ち込めてきやがった」
「ああ、せっかくパリの混乱が終息に向かっていると思っていたのに……今度はプロイセンとオーストリアが侵略してくるなんて言いやがる!」
「……以前からあった、国王が外国と謀ってフランスに攻め入ろうとしている、というあの噂もこうなってくると本当の話かも知れないな」
「ちくしょう……国王は革命派じゃなかったのかよ!」
それを耳にしたフィルが声をひそめる。
「……ヴァレンヌ、というと国王が密かに国外に亡命しようとしたあの事件か……」
「実際には、国外に亡命しようとしたのではないようだがな」
ヴェレンヌ事件とは、軟禁状態にあったルイ16世一家が6月20日早朝にパリを脱出し、22日に東部国境付近のヴァレンヌで逮捕された一連の事件のことだ。
「此処だけの話、逃亡したルイ16世はモンメディ要塞でブイエ将軍と王党派に合流し、軍隊とともにパリに取って返して国王としての主導権を取り返すつもりだったらしい」
「モンメディ要塞というと、王妃の実家であるハプスブルク家が領有する南ネーデルランドに6マイル(約10キロ)ほどしか離れていない所じゃないかっ……オーストリアの支援と軍隊を以ってパリを制圧しようとしたのだから、フランス国民からみればどちらにせよ裏切り行為以外の何ものでもない」
「国王にとってはそうでもなかったのだろう」
歴史的に欧州の諸王家はお互いに親戚同士のような意識が強い。
つまり、ルイ16世からすれば自身の妻マリー・アントワネットの生家であるハプスブルク家の協力を以って王政を立て直す、というのは他国の軍勢を自国に引き入れるというより少しばかり親戚の手を借りる、という認識だったのだ。
「でも革命派と呼ばれていた国王がどうして逃げたんだ?革命政府でも敬意をもって接していたと聞いていたが……」
「ルイ16世が革命派であったことは間違いない。それは国王に主導権があった頃から、国王領で農奴制を廃止したことや貴族や僧侶の免税特権を無くそうと率先して動いていた事実からも伺い知れる」
なにより革命が既に起きたこと――この事実が革命派の国王であるというこの上ない証明になる。
(もし仮にルイ16世が反革命派の国王だったのなら、軍隊を動員し徹底的弾圧をおこない、革命の芽を摘み取ることで、革命が本格化するのをもう少し先延ばしにすることも出来たはずなんだ)
思考を巡らせつつ、レイが答えを返す。
「……ただ、息苦しかったのかもしれない」
「息苦しかった?」
「国王の権限はどんどん縮小され、革命家たちには意にそわないことも強制される毎日。そして今年の4月18日には毎年恒例だったサン=クルー宮殿への行幸も妨害される始末」
いくらルイ16世が革命派の国王とはいえ、これまで曲がりなりにも絶対王政の世界で生きてきたのだ。
「これまでと全く違う自由の効かない環境のなかで、精神的に追い詰められていたとしても、そうおかしくない」
自由を謳った革命で最も自由でなくなってしまったのは革命派の国王だった。
しばし思案顔を見せたフィルが、こちらに目を向ける。
「……レイは先月にあったピルニッツ宣言をどう思う?」
ピルニッツ宣言とは、8月27日にザクセンのピルニッッ城で会見していた神聖ローマ皇帝レオポルト2世とプロイセン王ヴェルヘルム2世が発した共同宣言だ。
その内容は、相互に協力し必要な場合は軍事力をもって迅速に行動する、というもので、要はフランスに対しての〝国王に危害を加えるな〟という恫喝であった。
「両国にとっては口先だけの外交辞令だろう。もともとの主な会談内容は先日にあったポーランド・ロシア戦争の戦後処理でポーランド分割の共同歩調といわれているぐらいだ。戦争準備もしてないようだし形式上の威嚇でしかない」
「では戦争にはならないと?」
フィルに問いに、レイはかぶりを振った。
「そうは言い切れない」
「はあ?オーストリアとプロシア(プロイセン)の両国が本気ではない、とレイは言ったばかりじゃないか」
周囲を見回し、辺りに人影がいないことを確認した後、レイがポツリと小さな声を漏らした。
「……戦争は何も一方の陣営だけで完結されるものではないだろう?」
「な、そんな馬鹿なッ……フランス側から仕掛けるとでもいうのか!?」
狼狽した口調でフィルが続ける。
「革命で混乱している今のフランスがオーストリアと戦争して勝てるはずない!」
客観的に見て、現在のフランスは戦える状態になかった。
将校である貴族と兵卒である平民の間には軋轢が存在しており、国内は王党派と革命派に別れて内戦状態。政情不安から充分な軍需品だって揃えられる当てもない。
(しかも、相手はオーストリア――否、この場合は神聖ローマ帝国というべきか)
21世紀のオーストリアからは想像しにくいが、18世紀のオーストリアは領土や軍事力、国際的影響力からいって欧州でも一二を争う超大国である。
「逆だ、フィル。革命期のフランスだからこそ戦争に突き進むしかないんだ」
ピルニッツ宣言を発した両国にとってはただの外交圧力でしかなかった。
けれども、革命の熱に浮かされたフランス人は、その宣言を最後通牒と受け取ってしまう。
「革命を起こしたフランス〝国民〟は、革命を潰そうとする者を許さない。例え、それがオーストリアという超大国であろうと、フランス国王だろうと決して、な」
革命によってフランス人の頭からは臣民という意識がすでに希薄なものとなり、国民という意識が芽生え始めている。
それは国民主義――ナショナリズムという近代的理念が欧州において花開いた瞬間だった。
フィルは一層、声をひそめる。
「では、無謀な戦争に突き進んだ結果、フランスが惨敗すると?」
「それは……」
この世界の人間からすれば、フランスが勝てるはずない、という認識なのだろう。
実際に史実でも開戦当初はフランスの連戦連敗だった。
「……その答えは、しばらく保留しよう」
フィルの訝しげな眼差し。
フランスが惨敗する結末以外の何があるのか、という声がレイには聞こえてきそうだ。
その反応も無理はない。
(未来を知らない人間に、ナショナリズムという劇薬の効果を想像しろ、というのは理不尽が過ぎるというものだ)
達観した思索の末、レイは続けて口にする。
「なんといっても歴史を知っている人間はいるが、未来を知る人間はいないのだから、な」
添えられたレイの一言に、フィルは戸惑いながらもうなずいた。
酒場での食事を終え、二人は肩を並べて士官学校への帰路を歩んでいた。
「――ん、あれは?」
校門が見えてきたところで、レイは歩みを止める。
視線の先には、軍人らしき人物が校門前で佇んでいた。
「どうやら、祖国の軍服みたいだな」
隣のフィルが真顔で呟く。
英国陸軍の象徴である緋色の軍服。
それを優雅に着こなしており、腰には値打ちものサーベルを携えている。
肩章をチラリと見れば少尉の階級章だった。
(どうやら上流階級出の英国士官のようだが)
そんなことを考えつつ、レイはそのまま観察する。
直後、絶えず左右を確認していた彼の瞳がこちらを捉えた。
「お、こっちに歩み寄ってきたぞ!」
フィルの言葉通り、男が優雅に歩み寄ってくる。
歳は20に届くか届かないかというところか。
短く切り揃えた黒髪と、軍人には似合わない優しげな顔立ちが印象的だった。
「やあ、君たちはここの学生かな?」
「はい。少尉殿」
少尉の言葉に、レイは姿勢を正した。
未だ軍に所属しているわけではないが、祖国を共にする軍人だ――。
敬意を払い、真摯に対応する必要があった。
しかし、青年将校は思わず顔をしかめる。
「そんなに畏まらないでくれ、これから同じ士官学校に通う仲間なのだから」
「と、言いますと少尉殿も、こちらの士官学校に?」
「その通り。だからこそ少尉殿というのも、やめてくれると嬉しい」
朗らかな笑みを浮かべて、少尉はそう申し出た。
「ここではむしろ君たちの方が先任なのだから」
「では、なんとお呼びすれば?」
二人のやりとりを見ていたフィルが、反射的に口を挟む。
「あ、そうだった。僕としたことが、自己紹介するのを忘れていたな」
恥かしそうに後頭部をかいた青年少尉。
「僕の名前は――ローランド・ヒル」
その名を認識したレイは、驚きのあまり絶句する。
なぜなら目の前にいる青年が、前世の英国陸軍史にその名を刻んだ、かの英傑と同姓同名であったからだ。