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バース

 グレゴリオ歴 1788年 6月7日




 がたんっとレイの視線が縦に揺れた。

 立派な躯体をした四頭の馬が、ゆらゆらと首を振り悠然と歩みを進めている。

 鞍敷にはアルフォード家の紋章。

 4人乗りである四頭立て四輪馬車コーチの内部には、椅子が向かい合わせに設置されていた。


 レイの正面には、縦縞のドレスで着飾ったイザベラが腰掛けている。

 そしてその隣に座る、イザベラより頭一つ背の高い立ち振る舞いが洗礼された女性。

 歳は30半ばぐらいか。

 薄い色の髪と白い肌に長い手足が、いかにも高貴な身分であることを伺わせる。

 彼女はヘンリーの妹であるベラ・ボネット夫人だ。


 そのとき、車輪が石に乗り上げたのか、再び大きく揺れる。

 何度も椅子にお尻を打ち付けて、真っ先に我慢の限界を迎えたのはイザベラだった。


「――おばさま」


 どこか苛立ちを押えたような口調で、イザベラが問いかける。


「バースにはあとどれぐらいで到着するのでしょうか?」

「そうですね……もう一時間というところでしょうか」

「それは朗報ですね」


 言葉とは裏腹に眉を顰めた。


「もう二時間も遅ければ、私は男性より羽毛のベットを生涯のパートナーとして選んでいたことでしょうから」

「それはいい。まだ見ぬ義兄殿にとってはそちらの方が幸せでしょう」


 と、レイが皮肉を混ぜてそう返す。


「……」


 無言で、イザベラが刺すような眼差しを向けてくる。

 だが、数秒ほどで目を逸らすと、憂いに沈んだ横顔で窓の外を眺めた。


「30マイルがこれほど永遠だとは想いもしなかったわ」


 シチュエーションが違えば、その台詞と容姿も相まってラブロマンスのヒロインといわれても通用しそうだ。


(実際は長旅に辟易として愚痴っているだけなのでただただ残念な少女でしかないのだが……)


 内心で嘆息つつ、イザベラから視線を移す。

 馬車の外は広々と横たわる田園地帯。

 実に雄大で眩しいほどの緑が辺り一面に並んでいる。

 レイは遠い地平線の、なだらかな丘陵に目線を向けて追想にふけった。





 時を遡る事二か月前。

 アルフォードの屋敷には、澄んだような音が流れていた。

 その日はディナーのあとに簡単なピアノの演奏会が催されていたのだ。

 現在は、客間のソファを観客席としたアルフォード家の住人たちから少し離れたピアノの前で、淡い水色のドレスを身に纏った一人の女性が繊細な旋律を奏でている。


「――……」


 憂いを帯びた横顔から紡がれる美しい音色。

 この空間そのものが、まるで一枚の絵画のようだ。

 外が曇天で薄暗い部屋のなかでさえ、その銀の髪は美しく煌めいていた。

 演奏が中盤から終盤のノスタルジックな雰囲気に移り変わる。

 ふいに彼女の視線がこちらを向いた。


「――あ……」


 刹那、視線が絡み合う。


 同時に遥か昔の記憶がよみがえった。


(あの時はたしか、姉さんも10を僅かに超えたばかりの少女であったか……)


 精巧な銀細工を連想させる均整の取れた躯体と豊かな胸の膨らみ。

 過去の記憶にある大人びた少女は、既に艶めかしい妙齢な女性へと移り変わっていた。

 レイはそっと目を閉じる。


 それからしばらくの間、音が連れてきた景色に身を委ねた。




「いや、素晴らしい演奏だったぞ」


 演奏会が閉幕したあと、レイの向かいに座っていたヘンリーが機嫌よさげに拍手する。


「これなら貴族の子息に嫁いでも見劣りする事はないだろう」

「そうか……姉さんも今年で17歳ですからね」


 思い出したようにレイがぽつりと呟く。

 上流階級の令嬢としては、結婚適齢期といってもいい年齢――。


「お父様、私も遂に社交界デビューを?」

「ああ、もともと今年の社交期シーズン中を予定していた」


 そこに隣に座っていたティナが口を挟んだ。


「社交場はどちらですか?」

「バースだ」


 バースとは、イングランドのサマセット州にある温泉行楽地のことだ。

 その歴史はローマ支配時代にまで遡り、ローマがブリテン島から撤退して以降は一時的に荒廃していた。

 しかし、18世紀初頭のアン王女訪問を機に、バースは再び温泉保養地として再生する。

 それから半世紀の長きに渡り様々な開発の手が加えられ、ここ数年ではロンドンに比肩するほどの社交場として社交界の中心地になっていた。


 ヘンリーの隣からエミリアが伺うような視線を送る。


「付き添いシャペロンには誰を?」

「私の妹であるベラに頼もうと思っているがどうだ?」

「ああ、ボネット夫人ですか」


 彼女はオックスフォードシャー州の大地主バリー・ボネットと結婚していた。


「ボネット夫人なら安心してお任せできます。もう何度もバースを訪れていると伺いましたし、素晴らしい知性と教養もお持ちですから」


 そう言うと、エミリアが目を伏せてしみじみと呟いた。


「それにしても、時が経つのは早いものですね。6月にはロイもウェストミンスターを卒業するのでしたか」

「たしかに、ついこの間までボーディング・スクールに通っていたかと思えば……時が過ぎるのは早いものだ」

「卒業後はすぐにグランドツアーでしたか?」

「ああ、7月中には出発する予定だ」


 そしてふとエミリアが思い出したように口にした。


「そういえばグランドツアーの花形ともいえるパリの滞在期間が随分と短いようでしたが」

「……ここ最近のフランスは、どうも政治的緊張が続いているようだからな」


 その指摘に、ヘンリーがほんの僅かに逡巡しながら続きを述べる。


「その混乱に巻き込まれるのを極力避けるためだ」


 フランス革命の始まり――バスティーユ襲撃までにはまだ一年間の猶予がある。

 だが、前世でも今年の6月にグルノーブル屋根瓦の日事件があったように、この世界のパリも史実同様に爆発寸前の火薬庫であることに違いは無かった。


「そうですか」


 エミリアのどことなくがっかりしたような口調。


「ロイも残念でしょうが、それでは仕方ありませんね」

「――暗い話はここまでにしましょう、母上」


 二人のやりとりを見たレイが、思わず口を挟んだ。


「もともと姉さんの社交界についての話だったはずです」

「そうですね。少し話が逸れましたか」


 顔を上げたエミリアが、そう話を戻した。


「それで旦那様は、イザベラをどれほどの期間滞在させるおつもりですか?」

「6月の初めに出発して、約4週間というところか。そうだ、それぐらいなら――」


 そう腕を組んだヘンリーが思案顔を見せたあと、向かいのレイに目を向ける。


「この際だ。レイも一緒にバースに行ってみてはどうだ?」

「……私もですか?」

「ロイのグランドツアーとまではいかないが、バースで外の世界に触れてくるいい機会だろう?」

「確かに、これまでのほとんどを領地内で過ごしてきましたが――」


 僅かな思考の末、


「……そうですね。いいかもしれません」


 レイはその提案を受け入れる。


「私も姉さんとご一緒させて頂きましょう」


 こうしてレイのバース行きが決定したのだ。




 レイが回想にふけっているうちに一行はバースに到着した。

 馬車はバース周辺の美しい景色の中を通り過ぎ、それから街の通りを走って宿へと向かう。

 レイはこの世界で初めてみる都会に内心興奮していた。


 窓から顔を出し興味津々で周りを見渡す。

 道の両側には過剰な装飾のない、直線とシンメトリーの景観美の建築物が並んでいる。

 それらは統一感のある淡い蜂蜜色の外観と調和して優雅な街並みを形成していた。


 しばらくして大きな広場に到着する。

 そこはたくさんの人で溢れていた。


「凄い人だ」


 これほどの人混みに紛れたことなど前世も含めて一度もない――。


 そんなことを思いながら、レイは頭の片隅で思考を重ねる。


(もともとイギリス人のほとんどが上流志向だ)


 ゆえに上流階級の社交場であるバースに純粋な憧れを寄せている者も多い。

 それが最近開発され始めたばかりの土地ともなれば、多少無理をしてでも移住したいと考えるのだろう。


 流石は大英帝国有数のリゾート地というところか――。


 そして数分後。

 一行が広場を抜けると、馬車は大通りに佇む古びた宿の前で停止したのだった。



 その日、まず引率役であるボネット夫人がしたことは、現在のバースで流行しているドレスや髪形などを調べることであった。

 当然、それは半日で終わるような作業ではなく、それだけで一週間近い日数が費やされる。

 その間にレイがしたことといえば、彼女たちに付き添って買い物したり、前世でも有名だった観光地を巡ったり、温泉に入浴したりして毎日を過ごしていた。



 バースに滞在してから二週間後の朝食どき――。

 ベネット夫人は朝早くから街に出かけていた。

 レイは熟練の髪縫いの手で髪がカットされ、雰囲気が変わったイザベラと食事をとっていた。

 パンを手に取りながら、イザベラに話を振る。


「社交界の方はどうですか?」

「……いい男性はいなかったわ」


 レイの問いに、イザベラは鈍い反応を示す。

 いつもの皮肉的な返しがこないところを見ると本当に疲れているようだ。


「姉さんの理想のパートナーはどのような人なのですか?」

「まず、アルフォード家と変わらない年収の貴族か紳士の長男で、不快にならない程度の態度マナーズと最低限の愛想があれば……まあ我慢できるわね」

「何ですか、それは……」


 当然というような顔でそう言われ、レイは呆れるしかなかった。


「ゴシック・ロマンスのヒロインだってもう少しまともな設定のヒーローの登場を待ち望むでしょう」

「……何が言いたいのよ」


 その物言いに、イザベラが不快げな視線を寄越してくる。


「今の発言は現在のアルフォード家――父上の年収を知っているうえでの発言ですか?」

「数年ぐらい前にお父様が、遂に1万ポンドを超えたって、言っていた記憶があるわね。今も経営が上手くいっているようだし、現在はどうにか2万ポンドに届いているぐらいではないかしら?」


 ちなみに18世紀末の1万ポンドといえば、イギリス貴族階層の平均年収並だ。


「――去年の年額が3万ポンドを超えていました」

「は?」

「来年には4万ポンドに手が届こうかというところです」

「ちょ、ちょっと待ちなさい」


 思わずといった様子で言い募る。


「この国で年額4万ポンドともなれば……」

「ええ、100人もいないでしょう」


 この時代に4万ポンドの年間所得者ともなれば、極々(ごくごく)一部の商人、銀行家と紳士にイギリスでも有数の貴族というところだ。


「多少使用人が増えただけで、屋敷を大きく建て替えたわけでもなかったから、まさかそれほどとは想像していなかったわ」

「准男爵に叙されてからの父上は住居を増築するより、土地を買い占めていることに精を出していましたからね」


 世襲制の爵位を手にしたヘンリーは、その爵位に相応しい土地を得ようと財産が傾きかけた貴族や紳士が手放した土地を買い漁っていた。

 したがって、数年前までは2000エーカーという紳士階級ジェントリの平均的な土地しか所有していなかったのに、現在では5000エーカーを超える紳士でも有数の大土地所有者になっていたのだ。


(それに土地の買占め以外にも、アルフォード家は新しい事業への投資とグランドツアーの費用や持参金の貯金など、収入も大きいが支出も大きい状況が続いていたからな)


 そのうえ周りの生活環境が目に見えて向上したわけでもない以上、イザベラが実感していなくとも無理はなかった。


「……ほんの10年前までは、ごく一般的な紳士ほどの年収しかなかったはずなのに、たった10年で40倍……」


 イザベラは自らが口にした数字に現実感が湧かない様子だった。


「いえ、お父様が精力的に動き始めたのは、8年前だから――」


 何だか嫌な予感がする――。


「たった8年でこれほどの成長なんて……そういう話に詳しくない私でも、これが俄かには信じられない結果であることは理解できるわ」


 首を傾げたイザベラが疑問の声をあげる。


「お父様は悪魔とでも手を結んだのかしら?」

「は、はは……相変わらず姉さんは酷い言いようですね」


 察しの良いイザベラの反応に、レイの背筋が寒くなる。


「全ては父上の才能と努力あっての賜物ですよ」

「だったらもっと前からアルフォード家が豊かに成り始めていなければおかしいでしょう?それが突然8年前から急に……いえ、8年前?ちょうどそのころといえば……」

「そ、それより姉さん。今日も社交界は夕方からですよね?」


 動揺を滲ませつつ、レイはとっさに話題を変える。

 穏やかでない方向に話が向かっているのを察したからだ。


「でしたら朝食後、気分転換でバース寺院 (バースのランドマーク)にでも出かけませんか?」

「何よ突然……まあいいけど」



 イザベラは訝しそうにしながらも、レイの提案にうなずいた。

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