転生
天井も壁もカーテンも全てが真っ白な病室。
その中央に横たわっているのは、まだ二十歳にも届いていない少年。
外界から隔離されたこの空間こそが、十六年と四ヶ月という人生の大半を過ごしてきた彼――高橋黎一の小さな世界だった。
次第に薄まっていく意識。
黎一は最後の気力を振り絞り、ゆっくりと首を動かす。
視線の先のサイドテーブルに積まれているのは使い込まれ本たち。
所々傷んでいるそれらは、動乱の時代を駆け抜けてきた偉人たちの物語だ。
アレキサンダー大王、チンギス・ハン、ナポレオン・ボナパルト。
その軌跡は、今もなお歴史に燦然と輝いている。
例え彼らの最後が自身と同じ病死という結末だったとしても、その偉業と災厄の爪痕は過去から未来にかけて永遠と語り継がれていくことだろう。
それほどまでに誰も無視できない輝きを放った生涯ならば、どれほど満足に逝けただろうか――。
(ああ、違いすぎる)
何も為せず、何も得られず、何も残せなかった――自分の境遇とは。
「……こん、な……無様な、まま……終わりたく、ない……」
英傑のそれにはまるで及ばない惨めな死にざま。
このままでは死にきれない――。
「……俺は、認め……ない」
その未練が、不治の病に蝕まれた少年に、最期の言葉を紡がせた。
『くく、それほどまでに生を渇望するならくれてやる』
意識が途切れる間際――幻聴が聞こえた。
『戦乱の世と第二の人生を、な』
視界が真っ暗になる。
これが高橋黎一の人生における最初の終わりだった。
混濁する意識の中でゆっくりと瞼を開いた。
最初に目に入ったのは、黒茶色で統一した飾り気のない天井。
知らない――いや、不思議と馴染みがある。
見覚えない筈なのに馴染みがあるというおかしな感覚。
周囲に視線を巡らせれば、床には高級そうな絨毯が敷かれ、家具は上品なアンティークで統一されている。
(ここは……)
困惑しているとベッドの傍から驚いたような声がした。
「なんと!あの状態から持ち直したのか!?」
「ああ、主よ!感謝します!」
「奇跡……まさに奇跡だ!」
騒がしさに眉を顰めながら身体を起こす。
同時に白衣を纏った初老の男が話しかけてきた。
「御身体の調子はどうですか?何処か痛いところなど?」
その言語は英語だった。
耳馴れない言い回しもあったが英語である事は間違い。
なのにそれが、まるで母国語であるかのように頭の中で理解できる。
(意味が、分からない)
「レイ坊ちゃま?」
レイ――そう呼ばれた時、自身が何者かを思い出した。
「俺は……いや、私はイングランド、ウィルトシャー州の地方領主であるアルフォード家次男――レイ・アルフォード」
思わずそんな言葉が漏れる。
(いや、ほんとにそうだっただろうか?)
何かが欠落しているのでは――。
「……今は何年だ?」
「は?いえ、今は西暦1780年ですが」
1780年、と口に出して反芻する。
「そうだな……そうだった」
「……記憶に混在があるようですが、どうやら身体そのものは大丈夫のようですね」
「……ああ、特に問題ない」
「それはようございました。念のため診察させて頂きます」
大人しく診察されていると、今度は医者と同席していた女性がベッドの傍に跪いてこちらを見上げる。
「レイ、心配しましたよ」
歳は30前後だろうか。
白を基調とした大人しめのドレスに、ゆるく波打った金髪がよく似合っている。
涙の浮かんだ鳶色の瞳と視線が合う。
この女性は――。
「……母上」
意図せず口から零れ落ちた。
彼女の名は、エミリア・アルフォード。
このレイ・アルフォードの母親に当たる人物だ。
「私はいったい……」
「どうやら、起きたばかりで混乱しているようですね……」
エミリアが優しく語りかける。
「貴方は病を発病して以来、ずっと生死の境をさまよっていたのですよ?覚えていませんか?」
「……」
一度落ち着いて頭の中を整理した。
確かにこの数日、酷い腹痛や嘔吐下痢に苦しんだ記憶が存在する。
その経験した症状と知識から、腸閉塞であることが推測できた。
(だとすると、この時代の医療技術では不治の病だが)
そこで慌ててかぶりを振る。
(いや待て、この時代とは何だ?それになぜ、そんな事を知っている?)
一度、疑問に思うと頭の中から次から次へと疑問が溢れてくる。
(そもそも俺の視界はこんなに低かっただろうか?――いくら生まれながらに病を抱えていて成長が遅かったとしても16歳でこんな低身長では――ッ)
――16歳?
今の俺、私は4歳のはず――いや違う。
ズキッと頭の奥が痛んだ。
次第に呼吸が乱れる。
――頭に流れ込んできたのは、生まれながらの病に侵され、無様な日々を送っていた意味のない人生。
そして、病床で苦しみぬいた挙句、生を渇望しながら前世を去った最期の場面も蘇った。
(……俺は、16歳の日本人にして、平成生まれの高橋黎一だ)
やっと思い出した。
小さくなった手のひらをまじまじと見つめる。
(これは……転生、輪廻転生という状況だろうか)
もし推測通りにこの身体が元々腸閉塞に犯されていたとするなら、それはつまり本来なら、ここで死んでいたであろう少年――レイ・アルフォードの記憶と知識をも引き継いでいるということだろうか。
「落ち着いたか?」
そこで初めて、この部屋にもう一人気品のある男性が佇んでいたことに気付いた。
そちらに目を向けると、30代前半ぐらいだろうか。
華やかな刺繍のモーニングコートに銀色の髪。
持ち前の鋭い目つきながらも心配そうにこちらを見つめていた。
「……はい。父上」
そう応えると、彼――ヘンリー・アルフォードは安堵して、診察していた医者に声を掛ける。
「アーロン氏、息子の具合はどうかな?」
「ミスター・アルフォード信じられない。全く異常が見当たりません」
「それは治ったという事でいいのか?」
「しばらく経過を見るまではまだ何とも」
アーロンと呼ばれた医者は、口元を震わせながら後を続けた。
「なにぶん私も初めて経験することで、正直なところこれからどうなるか予想がつきません」
「それでは――……」
「いいではありませんか」
やんわりとエミリアが告げる。
「今はレイが元気を取り戻してくれた。只それだけを喜びましょう」
「そうだな……レイの前で言い争うことでも無いか」
息を吐いてヘンリーが踵を返す。
「レイの兄妹たちにも報告してくるとしよう」
「では、私は病明けの身体にいいスープを作ってきます」
立ち上がったアーロンがくるりと振り返る。
「奥様、台所を少々借りてもよろしいですか?」
「ええ。もちろん。あと私もお手伝いしましょう。レイのことは執事のフレッドに看ているように言いつけてきます」
彼らは会話が終わるとさっさと退出し、部屋にはレイだけが取り残された。
そしてほどなく、ドアがノックされる。
返事をすると入れ替わるように長身の男が入ってきた。
たれ目がちの柔和な印象で、歳はヘンリーと同じぐらいか。
華美ではないが私服を着ていることから、使用人にしては高い位の者なのだろう。
「――おお、レイ様よくぞご無事で!」
安堵の笑みを浮かべながらベッドの傍に膝を突く。
「お元気そうなお姿を再び拝見することができ、このフレッドめは安心いたしました」
「フレッド、か……お前にも心配をかけたな」
彼はアルフォード家の執事であるフレッド・ボーナム。
もう10年以上もヘンリーの秘書として仕え、他の家族からも大いに信頼されている古参の使用人だった。
フレッドにある疑問を尋ねる。
「……今日は何月何日だ?」
「今日は9月27日です。この様子だとレイ様も聖ミカエル祭を祝えるようで何よりでした」
レイ・アルフォードの記憶を検索した結果、聖ミカエル祭とは9月29日に大天使ミカエル(神の座を狙いドラゴンとして現れた双子の兄弟であるサタンを地獄に落とした)を讃え、豊穣に感謝する祭らしい。
「我々は大天使ミカエルに感謝しなければなりませんね」
意識を失う直前に聞こえた幻聴が脳裏によみがえる。
「……俺がこうしているのは天使と言うより悪魔のせいだろうがな……」
「何かおっしゃられましたか?」
「……何でもないよ。それより新大陸の反乱はどうなっている?」
今がグレゴリオ暦1780年のイングランド――グレートブリテン王国だとすると史実通りならアメリカ独立戦争の真っ最中な筈だ。
そのことは、レイの記憶にも黎一の知識にも存在するが、この世界が前世の過去と同様か確認の意味を込めて問いかける。
「レイ様が倒れて、一週間しか経っていませんからね。相変わらず我が祖国は苦戦が続いています」
「先の大戦で自惚れたか?」
この場合の先の大戦とは、七年戦争のことだ。
そもそもアメリカ独立戦争は、七年戦争で多額の戦費を消費したイギリスがその穴埋めとしてフレンチ・インディアン戦争(七年戦争のうち、北アメリカを舞台に繰り広げられた戦闘)でフランス・スペインから新たに獲得した13植民地(アメリカ東部沿岸の13州)に課税したことが始まりだ。
しかし、13植民地は他の植民地とは異なり黒人やインディアンではなく移民として移り住んだ白人であり経営者たちだ。その独立性と有能さから本国の都合のいいように大人しく税を納める筈もなく、なめてかかった結果が現状の苦戦――いや、劣勢というべきか。
フレッドは、我が祖国は世界の嫌われ者ですよ、と忌々しい表情で吐き捨てる。
「2年前から次々とフランス・スペイン、最近では中立だったネーデルランド連邦共和国も正式に参戦しました」
「祖国は中立と謳いながら公然と反乱軍を援助していたネーデルランド(オランダ)の船を沈めたからな」
七年戦争で北アメリカの植民地を奪われたフランス・スペイン。そしてイギリスの一人勝ちに危機感を覚えたオランダ。
アメリカ側の善戦を見た彼らは、正式にイギリスに宣戦布告。こうして独立戦争は七年戦争の復讐戦という国際戦争に発展した。
「そのことでロシアめが余計な横やりを……」
フレッドがいっているのはイギリスの対米海上封鎖(中立国船舶捕獲宣言)に対抗し、ロシアのエカチェリーナ2世が提唱した武装中立同盟のことだ。
このイギリスへの敵対的同盟に参加したのがロシア・スウェーデン・デンマーク・プロイセン(ドイツの前身)ポルトガルの五か国で、これにより欧州でのイギリスの孤立が浮き彫りになった。
「いくら先の大戦の勝者である我が祖国でも、流石に欧州全てを敵に回しては勝てません!」
むしろ七年戦争の独り勝ち含め、技術革新によって経済・軍事共に、ヨーロッパの諸外国から頭一つ突出したイギリスだからこそ、勢力均衡メカニズムが組み込まれた欧州の列強諸国に足をとられたのだろう。
(19世紀以降バランス・オブ・パワーを国家戦略としてきたイギリスが、他国の勢力均衡政策に足を引っ張られている状況は、中々皮肉的といえるか)
未だ祖国の現状に憤っているフレッドを横目に頭の片隅で考える。
(今のこの状況が神の慈悲か悪魔の気まぐれなのかは分からない)
だがそんなことはどちらでもいい――ただ。
(今度こそすべてを手に入れよう)
何も為せず、何も果たせず――ただ惰性の様に生きる人生はもうたくさんだ。
目頭が熱くなり、レイは奥歯を噛みしめる。
(先ずは手始めに、この戦争を利用させて貰うとするか)
レイが決意を宿した瞳で窓の外に視線を移す。
イギリスの天気としては珍しい雲一つない青空が堪らなく眩しかった。