中編
週を明けた月曜日、何時もの様に備品管理局に現れたパトリシアを見た同僚達は、一斉にその動きを止めた。
「ええっと、君パトリシア……だよね?」
「ええ。嫌だ、週末を挟んだら私の顔を忘れたんですか?」
「いや、何時もと随分印象が違うものだから……。その、す、凄く綺麗だね」
「そうですか? それはありがとうございます」
朝魔法庁に着いてから一体何度同じような質問を受けただろう。パトリシアはうんざりしながらも引き攣りそうになる口角を上げ、お礼の言葉を口にした。
とは言え同僚達が驚くのも無理はない。普段のパトリシアは、髪はぴっちりと固く結い上げ顔はノーメーク、服はグレーのだぼだぼのスーツで、靴に至ってはスニーカーという、お洒落からは程遠い地味で愛想の無い出で立ちだ。
それが今日はどうだ。長い睫毛は完璧な角度で垂れ目がちの大きな瞳を縁どり、抜けるような白い肌は赤く艶やかな唇と情熱的な深紅の髪により、何とも言えない色気を醸し出す。
そして何より見る者の目を釘付けにするのは、ちょっとしたスイカの如きパトリシアの胸だろう。
身体の曲線に美しくフィットした黒のスーツは、ともすれば下品に見えかねないたわわな果実を品よくプロデュースしていた。
そう、パトリシアは見事なプロポーションを持つ美女へと変身していたのだ。
ある者が口を開けたまま固まり、またある者が持っていた書類を落とし辺りを紙だらけにする中、パトリシアは簡潔に自分が辞表を提出した事を皆の前で告げると頭を下げる。そして淡々と引き継ぎの予定を組むと、同僚達の動揺に一切気付く事無く倉庫へと立ち去ったのだった。
それからの金曜までの日々を、パトリシアは倉庫部の常連になっている魔法使い達への挨拶と、引き継ぎの作業に費やした。
燃えるような赤い髪を靡かせ魅惑的なラインのスーツに身を包んだパトリシアが、腕に荷物を抱え各部署へ挨拶に回る。その華やかな美貌もさることながら、やはり注目されているのは抱える荷物の下に隠れる、ブラウスからから溢れんばかりのたわわだろう。
コツコツと心地良いヒールの足音に合わせ、たゆんたゆんと上下に揺れる豊かな双丘は、ブラウスのボタンを今にも弾け飛ばさんばかりに主張し、パトリシアの行く先々でちょっとした騒動を巻き起こす事になった。
魔法庁のエリート官僚が所属する執行局では、パトリシアを一目見ようと魔法使いが群がった事で一時的に執務が中断され、魔法庁全体が混乱に陥った。
希少な幻獣やドラゴンを管理する魔法生物局では、パトリシアに自慢の召喚獣を見せようと強引な召喚が相次ぎ、結果魔力不足で倒れる者が続出。
そして研究棟の住人と呼ばれる研究開発局では、パトリシアに持ち出し禁止品をプレゼントしようとして、大量の魔法使いが始末書を書く羽目になった。
ーーパトリシアたわわ伝説が誕生した瞬間であった。
「いやー、パトリシアさんどこでも凄い人気ですね。それにしても今までこれをたった一人でやってたんでしょう? すごいですよねー」
後ろを歩きながら呑気に感想を言うのは、今年入ったばかりの新人ヨルンだ。パトリシアは最終日の金曜日、彼と一緒に引き継ぎの最後のチェックを行っていた。
「こんなの慣れれば大したことないわよ。それよりきちんと担当者の顔は覚えた? 渡す相手だけは絶対に間違えない様にしてね」
「はーい」
アカデミーを卒業したばかりの新人ヨルンは22歳と聞いているが、その愛くるしい外見はどう見ても15、6歳の少年にしか見えない。やる気があるのかないのか分からない所はあるが、優秀な成績でアカデミーを卒業したと聞く。きっと彼なら倉庫番を上手くやれるだろう、パトリシアはそう思っていた。
「じゃあここが最後にして最大の難関だから、くれぐれも失礼のないように」
「はーい」
二人が最後にやって来たのは「魔法庁長官室」。魔法庁トップの部屋だった。
歴史ある魔法庁のクラシカルな建物の中でも一際重厚な扉を叩き中に入ると、長官は何時もの様に大きなマボガニーの机に向かい、熱心に何かをしたためている最中だった。
魔法庁長官エムニネス・ガブリオーサ。
大賢者の証である紫のローブを身に纏い、床まで着くほどの真っ白の髪と豊かな髭を蓄えた一見優しそうに見えるこの老人は、100年以上も魔法庁の長官を務めるエルフの長老でもある。実質的な執務を執り行う事はないが、云わば魔法庁のシンボルとしてここに部屋を構えていた。
パトリシア達に気が付くと、エムニネスはゆったりと顔を上げ鷹揚に微笑んだ。
「おおパトリシアか、待っとったぞ。例の物は見つかったか?」
「残念ですがそれはまだ……。今日は別件でご挨拶に参りました」
「ふうむ、ま、二人共座るがいい」
どこからともなくソーサーとティーカップが応接机に飛んできたかと思うと、見る間に湯気の立つ赤い液体がなみなみと注がれる。パトリシアとヨルンは無言で頷き合うと、応接ソファーに腰を下ろした。
「それで挨拶とは、ここを辞める挨拶かのう」
「流石にもうご存知でしたか。……長官にはとてもお世話になったので、最後にきちんとご挨拶したかったんです」
倉庫にある貴重品の殆どは、このエムニネスが長い年月をかけ集めたコレクションと言っても過言ではない。パトリシアが魔法庁で一番世話になったのは間違いなくこのエムニネスだ。だからこそこの新人をわざわざここに連れてきたのだが……
ちらりと横に座るヨルンを見ると、彼はティーカップに注がれた紅茶にまさに口を付ける所だった。パトリシアは軽く溜息を吐くと改めてエムニネスに向き直った。
「今後はこのヨルンが担当になります。今年入ったばかりの新人ですがきっとお役に立つと思います……よ?」
最後が疑問形になったのはヨルンが飲んでいた紅茶を勢いよく吹き出したからだ。この部屋で出された物に素直に口をつけてはいけない。パトリシアも今までそれで散々な目にあってきたのだから、ヨルンも今後は是非自分の身で体験して学んでいって欲しいものだ。
「それでどうして急に辞めようと思ったのか、その理由を儂にもわかる様に説明してくれるかの」
「ええ。それは……」
パトリシアは正直に自分の想いを語った。
倉庫番の仕事は好きだしやりがいもあるけれど、もう7年も同じ事を続けてきた。功績のないパトリシアがこの先違う部署へ異動する事はないだろうし、退庁までずっと倉庫から出られないのは辛い。そして何よりパトリシアが倉庫番を続ける必要性が感じられない。ならばパトリシアを必要としてくれる場所に行きたいーー。
それを聞いていたエムニネスは何かを考える様に目を瞑ると、自慢の髭を撫でた。
「ふうむ、パトリシアがここに来てもう7年か。人間とは時間の感覚が違うもんでうっかりしとったわい。……どうじゃ、儂の権限でパトリシアを希望の部署に異動させよう。じゃからなんとか思いとどまってはもらえんか」
「それは……もう次の仕事も決めてしまいましたから」
「リーンハルトの研究所か」
「どうしてそれを?」
次の就職先は同期のエミリーにしか伝えていない。パトリシアが驚きのあまり目を瞠ると、エムニネスはにいっと悪戯が成功した子供のような顔をして笑った。
「ふぉっふぉっ、蛇の道は蛇。魔法使いには魔法使いの繋がりがある。……昔からパトリシアを欲しがる人間は多い。それを見越してあの男に預けておったんじゃが、どうやらあいつは全く役に立たなかったようじゃな」
「何の話ですか?」
「ふむ、それもわからんのか。全くあの男は一体今まで何をしておったんじゃ。……まあいい。パトリシア、良い事を教えてやろう。7年前お前さんが発表した論文は、当時魔法庁はおろか有名な魔法使いの間では注目の的じゃった。優秀なお前さんが魔法庁に入庁すると聞いて、各局長は獲得に躍起になったもんじゃ」
「え、でも私が倉庫番になったのは魔力量が低いお荷物だからって」
「ほう、誰かにそう言われたか」
いつもは柔和なエムニネスの目がすっと細くなったのを見て、パトリシアは背筋がぞわりと冷たくなるのを感じた。
「いいえ、それは違いますが……」
「ふうむ、まあいいじゃろう。パトリシア、そもそも備品管理局の倉庫部がどうして『お荷物』と言われているか知っておるか」
それからエムニネスが語った事はパトリシアが初めて聞く、驚くべき真実だった。
魔法庁の中で最もお金が動くのは備品管理局である。巨大な倉庫に保管してある数々の国宝級のお宝は勿論、何より魔法庁全ての部署からの申請品を管理するのだ。取り扱う現金はとてつもない額になる。故に横領に手を染める人間が後を絶たなかったそうだ。そしてその腐敗の温床を一掃したのが、当時執行局に所属していた若きエース、ディアンだった。
「ディアンは不正の証拠を掴み、関わった者全員を魔法庁から放逐した。だがその後がいかん。皆が尻拭いを嫌がるもんじゃから備品管理局の局長がなかなか決まらなくてのう。それがお荷物なんて言われとった所以じゃよ」
どこか懐かしそうな遠い目をしてエムニネスは続けた。
「ついには当事者のディアンにお鉢が回ったが、当時の奴は25歳。入庁してまだ3年目の若造じゃ。自分には出来んと散々逃げ回っておったがな、とうとう観念して最後に一つ条件をこちらにつきつけおった」
「条件?」
「うむ。パトリシア、お前さんを備品管理局に欲しいと言うたんじゃ」
「私を……?」
その話が本当ならディアンは入庁以前にパトリシアの事を知っていたという事になる。でも一体いつ彼がパトリシアの事を知ったというのだろう。
「あの、局長はどうして私を……」
「っていうかパトリシアさんは鈍感すぎるんですよー」
気が付くと顔を真っ赤にしたヨルンがティーカップを片手にパトリシアをじっと見つめていた。はっとしてヨルンのティーカップを奪うと、果たしてかなりきついブランデーの香りが紅茶からは漂っていた。
呆れたパトリシアがじっとエムニネスを睨むと、彼はあからさまに目線を逸らし空を見つめた。
「……エムニネス長官?」
「……これはかなり判りやすいと思ったんじゃがのう」
「っていうかパトリシアさん、局長があれだけ貴女の事を口説いてんのに、どうしてわからないんですか?」
「へっ?」
「だーかーら! 誰がどう見ても局長は貴女の事が好きじゃないですか!」
頬を紅潮させ目を座らせたヨルンが正にパトリシアの肩を掴もうとした瞬間、大きな音がして長官室の扉が乱暴に開けられた。
パトリシア達が一斉に振り向くと、そこには額に汗をかき息をきらしたディアンが立っていた。
「わーい、ディアン局長ー!」
「ふぉっふぉっ、随分時間がかかったのう。もう間に合わないかと思うとったぞ」
「え? どうして? 戻るのは来週の月曜って……」
「……長官、ちょっとこいつを借ります」
何か怒った様に眉間に皺を寄せるディアンは自分の上着を脱ぐとばさりパトリシアに被せる。そして彼女の手首を掴み強引に立たせると、慌ただしく長官室を後にしたのだった。
魔法庁の大理石張りの廊下に響くディアン革靴の音の後に、パトリシアのヒールの音が続く。
手首を引かれるパトリシアは転ばない様に小走りになりながら、ディアンの背中に向かって抗議した。
「局長、一体どういうつもりですか」
「……パトリシア、お前よくも……」
「ねえ、ちょっと待って」
「いいから黙ってついて来い」
「ねえ痛いの! お願い止まって!」
その言葉を聞いたディアンはすぐさまその場に立ち止まった。そして急いで振り向きパトリシアが肩で息をするのを見ると先程の怒ったような表情から一転眉を下げ、酷く申し訳なさそうな顔になった。
「パトリシア……すまない。少し冷静さを欠いていたようだ。その、痛かったか」
掴んでいた手をゆっくり離し丁寧に手首を調べるディアンだが、パトリシアが痛かったのはそこではない。ぶるんぶるんと豪快に揺れていた胸だ。
「大丈夫です。その、痛いのは手首ではありませんから」
「どこを痛めたんだ? ああ、足か?」
そう言って跪きヒールを脱がそうとするディアンをパトリシアは慌てて止めた。
「もう大丈夫ですから! それより局長は一体どこに行こうとしてたんですか?」
「あ、ああ、そうだな……。パトリシア、倉庫の鍵は持っているか?」
「鍵? 勿論持ってますけど、それが?」
「誰にも邪魔されない場所でゆっくり話したい。倉庫へ行こう」
そう言うとディアンは今度はパトリシアの腰を優しく抱き、まるでエスコートするように倉庫へと誘ったのだった。