前編
パトリシアはその日の朝、自室の姿見の前に立つと入念に全身をチェックした。
普段は目立つのが嫌できっちりまとめている赤い髪は、今日はそのままに背中に垂らしてある。子供の頃は人参と揶揄われ自分では大嫌いな色だけど、こうしていれば多少は顔色を良く見せてくれるかもしれない。
お馴染みのぶかぶかのねずみ色のスーツに代わって着るのは、週末に購入したばかりの黒のスーツだ。
友人のエミリーと店員に強く勧められたスーツは、色のおかげかいつもの自分より痩せて見えるし、何度も丈を合わせたタイトスカートと初めて履く細い5センチのヒールのおかげで、今日は足までも細く見える気がする。
そして仕上げにブラウスのボタンを上から1つ外した所でパトリシア手を止めると、再び目の前の鏡に目を移した。
自分にとってはコンプレックスでもある「これ」が、ある種の武器になることは知っている。職場では何か言われるのが嫌で封印してきたけれど、自分はどうせあと1週間で辞める身。今この武器を使わなくして一体いつ「これ」を使うというのだ。
パトリシアは口元ににんまりと挑戦的な笑みを浮かべると、ブラウスに窮屈に抑えられていた「それ」をぷるんと解放したのだった。
パトリシア・マッケイ、29歳。魔法庁備品管理局に配属されて7年目の彼女が上司に退職届を叩きつけたのは、先週の金曜日の事だった。
王都から遠く離れた田舎の小さな農村出身であるパトリシアにとって、「魔法使い」という職業はそれこそ御伽噺に出てくる憧れの存在だった。
村には魔法が使える人間は一人もいなかった事もあって、村人にとって魔法使いはどこか物語の国の出来事のように遠い存在だった。だから幼いパトリシアに魔力があると判明した時、すわ初めての魔法使いの誕生かと村中が大騒ぎになったものだ。
そして期待を胸に進学した王都のアカデミーでは、パトリシアは早々に自分が井の中の蛙の一人だという現実を知る。国中から優秀な子供が集まるアカデミーの中では、パトリシアの魔力はごく平凡に過ぎなかったのだ。
だがパトリシアは決してめげなかった。魔法使いになれないならせめて魔法使いを助ける仕事に就きたい。その彼女の熱意と弛まぬ努力は見事結実することになった。
そもそも魔法使いというものは徹底した能力主義であり、同時に秘密主義でもある。特に魔力の多い優秀な魔法使いに限ってその傾向は強く、彼等は自分だけしか使えない高度でオリジナルの術こそが至高だと言って憚らない。
そこでパトリシアは自分の少ない魔力を逆手に取り、今まで見向きもされなかった魔力を持たない人間でも使える術の研究に着手した。
まずパトリシアは同学年の魔法使い達に頭を下げ、共同研究と言う名目で彼等が途中で見捨てた膨大な量のデータを集めた。そしてそれらを一つ一つ丁寧に目を通していく過程で、パートリシアはデータにある種の共通性を見い出す。データを纏め統計を取る事でその共通性を数値化したパトリシアは、数値を既存の魔法陣に組み込む事により、陣の魔力消費率の効率を大幅に向上させる事に成功したのだった。
画期的な研究の成果を認められたパトリシアは、見事アカデミーの首席を獲得、そしてとんとん拍子に国の魔法使いのエリートが集まる魔法庁への入庁が決まる。
だが晴れて憧れの魔法庁に登庁したパトリシアを待っていたのは、魔法庁のお荷物が集まると言われる「倉庫番」での仕事だったーー。
魔法庁備品管理局倉庫部、通称「倉庫番」。
魔法庁が所有する広大で巨大な倉庫には、国宝級のお宝から厳重に封印された「いわくつくき」の品、更にはドラゴンの爪や妖精の羽といった貴重品から、羊皮紙やペンなどの一般的な消耗品まで、多岐に渡る物品が保管されている。
それらを管理する備品管理局の仕事の中で倉庫部に割り振られた仕事は、申請のあった品物を倉庫から探し出し申請者に届ける、ただそれだけ。魔法使いが集う魔法庁の中では最も魔法う必要のない部署とも言われ、能力の無い人材が集まるとも言われる所以であった。
だがパトリシアは逆にそんな倉庫番の仕事を気に入っていた。
毎日何十件と届く申請品の中には、時としてパトリシアが思いもよらない品がある。例えば「虹の袂の土」、「雨の最初の一雫」、「聖女のラブレター」。そんな物本当にあるの? と疑いたくなる品を探すのは謎解きや宝探しの様で楽しかったし、そして難しい品を探し出し申請者に届けた時の、そのなんとも嬉しそうな顔を見るのも好きだった。
だが30の誕生日を間近に控えたある日、パトリシアはふと思った。
何年たっても私の仕事は倉庫から言われた物を探す、ただそれだけ。目立った功績がある訳でもないパトリシアは、きっとこの先も仕事が変わる事はないだろう。そして何より倉庫番はパトリシアでなくとも出来る仕事だ。
幸いな事にアカデミー時代の横の繋がりはまだ切れていない。卒論の共同研究のメンバーは未だにパトリシアと一緒に仕事がしたいと熱心に誘ってくれる。もし仕事を変えるとしたら、この30の誕生日はいい契機だしラストチャンスになるのではーー。
そんな葛藤でパトリシアが悩んでいた矢先に、その出来事は起こった。
先週の金曜日の事だった。仕事が終わった定時、備品局の局長ディアンは自分のデスクから何時もの調子でパトリシアに声をかけた。
「おうお疲れ、パトリシア。どうだ今日こそ一緒に夕飯でも」
「お疲れ様です、局長。生憎ですが今日は先約がありますので」
ディアン・モーガン、備品管理局局長、32歳。
パトリシアはこのディアンという男が苦手だった。こいつは自分の顔が良いのを自覚しているのか、平然と歯が浮くようなセリフを女性に言ってのける。そして何が目的かは知らないが、わざわざ皆が見ている前で頻繁にパトリシアを食事に誘うのだ。だが隣に立つと自分の地味で平凡な外見が目立つ事を自覚しているパトリシアとって、彼の誘いは苦痛以外の何物でもなかった。
この日ディアンは眉間に皺を寄せると、鋭い目つきで曖昧な笑みを浮かべるパトリシアを見つめた。
「おいパトリシア、いつもそうやって断るが、本当にその先約っていうのはあるんだろうな」
「ええ勿論です。ちなみに今日は同期のエイミーとの約束なんです」
うふふと笑うパトリシアに、ディアンは忌々し気に舌打ちすると椅子から立ち上がりった。そしておもむろにパトリシアのデスクへとやってきたかと思うと、彼女の座る椅子をぐいと自分の方へと向けた。
細い銀縁の眼鏡を外しほつれたグレーの前髪を上に撫でつけたディアンは、顔を寄せるとアイスブルーの瞳でパトリシアを覗き込んだ。
「……じゃあ一体いつなら週末が空いてるんだ。俺はお前と食事に行きたいんだ」
間近で見るディアンは30代の男盛りといった色気が溢れている。嫌味なく第二ボタンまで開けられた仕立ての良いシャツからは鍛えられた筋肉が覗き、微かにシトラスの香水が香る。これが好きな相手だったらさぞ嬉しかっただろうが、全く興味のない相手にされてもかえって白けるだけだろう。パトリシアはついと目を逸らすとわざとらしく手帳を開き、スケジュールを確認するフリをした。
「えーとそうですね。来年になればなんとか空くとは思います。はっきりわかったらお知らせしますね」
そう言って席を立ちその場を離れようとするパトリシアの腕を、ディアンは強い力で掴んだ。
「ちょっと、やめて下さい!」
「……俺を焦らして何が楽しい。こうやって大人しく誘ってやるのもお前が20代までだ。あまりいい気になるなよ」
「ああら」
入局当時からしつこくパトリシアを誘うこの男は、全ての女が自分の言葉で喜び、誘えば喜んでついて行くとでも思っているのだろうか。
確かに顔はいい。魔法庁の抱かれたい男5年連続1位のタイトルホルダーは伊達ではない。そして仕事もできる。ディアンが備品局の局長になったのは、パトリシアが魔法庁に入った年と同じ今から7年前。当時入局したばかりのパトリシアですら、入庁最速で局長就任というセンセーショナルなニュースに驚いたものだ。
だがパトリシアが求めるものは恋愛ではない。やりがいのある仕事だ。そしてこの男はこんな地味な女をからかって一体何が楽しいのか。
ーーパトリシアは静かにブチ切れた。
「誘ってもらえるのは20代までなんですか? 私もうすぐ30だからそれはちょっと困ってしまいますね」
そう言ってパトリシアは机から小さな封筒を出すと、ディアンを上目使いに見上げにっこりと微笑んだ。
「実は私、ずっと局長に渡そうと思っていた物があって……。よかったらこの機会に受け取っていただけませんか?」
「……今この場で読んでいいのか?」
何を勘違いしたのか目の下をうっすら赤くしたディアンは、片手で口を覆いながら封筒を受け取った。
「それは……、この場だとちょっと恥ずかしいので……」
「そうか、そうだよな。わかった。確かに受け取った。これは家に戻ってから読むとしよう」
パトリシアがわざと恥ずかしそうに語尾を濁し目線を外すと、ディアンは頷きさも大事そうにその封筒をジャケットの内ポケットへと仕舞い込んだ。
「よかった。受け取っていただいて安心しました。……そう言えば局長は月曜から1週間出張でしたよね?」
「ああ、そうだったな。国をまたいでの会議だからどんなに早くても帰国は再来週の月曜になる。その、この返事は再来週になるが、それでもいいのか」
「勿論です。ゆっくり読んでください。それでは今日はお先に失礼します」
パトリシアはにこやかに礼をすると、振り返りもせずに備品局の部屋を後にした。
だから彼女は気が付かなかった。ディアンがまるで愛おしい者を見る様に彼女の背中を見つめていた事も、そんなディアンの様子を見ていた備品局の人間が、にやにやしながら目配せを交わしていたのも。
「……という訳なのよ。エミリー。だから私ついに局長に辞表を渡してやったの!」
パトリアは同期のエミリーと入ったパブのカウンターに座るなり、興奮した面持ちでエールを一気に飲み干した。
「あらら、パトリシアにしてはえらく頑張ったわね。でもそれ、あの局長がきちんと受理したの?」
「ええ間違いなく受け取ったわ。それに彼月曜から1週間出張なの。だから私来週の1週間で引き継ぎを終わらせて、残りの退職予告期間は有給消化に当てるつもりよ」
「魔法庁の規定だと、確か予定日の2週間前に退職届を提出しなきゃいけなんだっけ?」
「そうよ。確かに辞表は提出したし有給は1か月も残ってる。もう何も問題はない筈よ」
「んー、まあそうかもしれないけど、でもあの局長が納得するかしらねえ」
「うふふ、それもちゃーんと計算済み。納得するも何も、局長が出張から戻る再来週の月曜に私はもういないんだから」
早いピッチでジョッキを開け頬を紅潮させるパトリシアに、エミリーは思わず苦笑する。普段職場では滅多に感情を出さないパトリシアがここまで興奮しているのだ。余程の腹に据えかねての決断に違いない。
「でも引き継ぎは大丈夫なの?」
「勿論。でもそもそも引き継ぎするべき事なんて殆どないの。各部署の担当が誰とか、申し送り事項なんてそれ位。……結局は誰でもできる仕事って事だったのよね」
パトリシアは少し寂しそうな目をするとふっと息を吐いた。
「……そっか。次の仕事はもう決めたの?」
「ええ、ほらアカデミーで一緒だったリーンハルトを覚えてる? 彼の研究所に誘われてるの」
「ええっ!? リーンハルトって、稀代の魔法使いにして稀代の変人って言われてた、あのリーンハルト?」
「そうよ。ふふ、変人なのは相変わらずで、彼の研究所に人が長続きしないんですって。給料は弾むし私の好きなようにしていいから、とにかく学生の時みたいにサポートして欲しいって」
「サポートねえ……。卒業してからもう7年も経つのにまだ諦めてなかったのか、あいつ。全くあんたはモーガン局長といいリーンハルト先輩といい、とことん執着心の強い男に縁があるみたいね」
「なによそれ?」
そう言って遠い目をするエミリーに、パトリシアはきょとんとする。
「わからないならいいの。……ねえパトリシア、せめて貴女の最後の1週間が素敵な物になるように、私に協力させてちょうだい」
「それは嬉しいけど……。エミリー、協力って何の事?」
「まずはその野暮ったい髪形と服をなんとかしないとね」
いつもぶかぶかのねずみ色のスーツを着るパトリシアの事を倉庫の赤毛のネズミと陰で揶揄する輩も多く、常々エミリーは苦々しく思っていたのだ。
「まあ私に任せなさい」
そう言ってなんだか不敵な笑みを浮かべジョッキを差し出すエリミーに、パトリシアは不思議そうな面持ちで自分のジョッキを合わせたのだった。