主神の子 其ノ弐
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赤子の世話は、青にとってそう難しい頼みでもなかった。
村にいたときも、忙しい時期は畑で働く農夫の夫妻に代わって赤子たちの世話をしていたものだ。
赤子一人などわけない。
そうやってたかをくくっていたのだが、この赤子に限って事はそう簡単な問題ではなかったらしい。
青は泣き叫びながらぱたぱたと手を動かす赤子を見て、重たいため息をついた。
襁褓は少し前に取り換えたので、原因は空腹であろうが、持って来てもらった家畜の乳はお気に召さなかったらしい。
「駄目でしたか」
と、たまたま通りかかったので使いを頼んだ翠麟の従者も、困ったように頬を掻く。
名は珪というらしい。
初めて見る人物だったが、翠麟の従者というのが信じられないくらい正反対の真面目そうな神様である。
仕えているということは翠麟より神格が低いのだろうが、上司にするならこちらの方がいいと思わせるだけの雰囲気があった。
「果実水でも飲ませてみますか?」
「まだ早いのでは?」
「神の子は成長が速いのですよ。すぐに離乳食も必要になります」
いくらなんでも、と思ったが、言われた通りに果実の搾り汁を薄めてみると、赤子は嬉しそうに口に含んだ。
主と違って役に立つ従者である。
頼んだ当の翠麟は我関せずの様子で腕を組んで柱に寄りかかっていた。
「大変そうだな、代わってやろうか」
その気もないのに、いつもの甘い笑みを浮かべながらのたまうので、若干の殺意を覚えながら「結構です」と言っておいた。
そうこうしているうちに早くも一日目が終わり、夜泣きに悩まされながら床についた青は、ほとんど熟睡することも出来ずに朝を迎えたのだった。
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「……いや、早すぎるだろう」
翌朝目の下にくまをこさえて目を覚ました青は、信じられないものを見てげんなりと肩を落とした。
「あばー」
と可愛らしい声を上げながら部屋の中の敷物やら花瓶やらを荒らしまわるのは、昨日まで自分で転がる事も出来ず、生後三カ月そこそこに見えた赤子である。
しかし今では、十か月は過ぎた赤子に見える。
神の子の成長が速いというのは本当らしい。
これで、翠麟の告げた“一週間”という期間にも納得がいった。
一週間も経てば普通に立って歩きまわり、それほど手もかからなくなるのだろう。
(一番手のかかる時期に押し付けられたというわけか)
無責任な翠麟や子供の親たちに吐き気がしたが、何はともあれ赤子をそのままにしておくわけにもいかないので、青は赤子を布で背中に固定し、とりあえず荒らされた部屋の掃除を始めた。
赤子は成長しても、やることはそう変わらない。
襁緥を取り換え、家畜の乳を与え、飲もうとしない時は甘くした葛湯や薄めたおかゆを与えた。
成長が速い分食べる量も多いようで、食べ物を戻すこともなく、すぐに次をねだり始める有り様だった。
三日目になるとつかまり立ちをするようになり、移動に時間をかける分荒らす範囲も狭くなって少し暇ができた。
なので再び偶然通りかかった珪を呼びつけて、調理場から蒸かし芋と砂糖を分けてもらい、布を張った器でこして金団を作ると喜んで芋十本分をぺロリと平らげた。
あっけにとられる青を、珪のおまけでついてきた翠麟は面白そうに笑っていた。
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赤子の世話を初めて、もう四日が経った。
もうつかまる物無しで歩きまわるようになった赤子は部屋荒らしにも拍車がかかり、いろいろ荒らしまわった末に困り果てた青を見ながら楽しそうに笑う様子は、本当に誰に似たのかと思う。
この底意地の悪い性格は、絶対に翠麟の子だ。
ケタケタと笑う赤子を見ながら、こっそり珪に問い詰めてやろうと青は決心した。
「あーお、あーお」
“青”という言葉は赤子にとって口に出しやすいようで、言葉を覚え始めた赤子はしきりに青の名を呼んだ。
「どうしました?」
またご飯かと思ったが、どうやら違うらしい。
赤子は部屋の中と外を区切る御簾を引っ掻きながら、じっとこちらを見た。
王宮の最上階に位置するこの部屋は御簾を閉め切ったままでも充分明るい上に、開けていると赤子が勝手に外に出てしまう心配があったので、そういえば一度も開けた事がなかった。
「外を見たいのですか?」
「あい」
普段は小憎たらしく笑う赤子が、こういう時だけ可愛らしい声を上げるのがどうにも腑に落ちない。
早くも父親の遺伝が垣間見え、青は小さく溜息をついた。
しかし、御簾の外は青も気になる所である。
こんな機会でもなければ朱雀宮の最上階など一生来ることもなかっただろう。
せっかくなので、青も少し外に出てみることにした。
地上から五階層目なので、さぞや高い景色なのだろう。
そう思って赤子が落ちないように抱きかかえて布で固定し、御簾を開けると、思いのほか地面は近くにあった。
光が多く入っていたので勘違いをしていたが、御簾の反対側にも木戸はあったので、そちら側が外に面しているようだ。
なにはともあれ、青は手すりに寄りかかり、赤子が興味を持った方向に身を乗り出す。
おそらく、中庭という物なのだろう。一つ下の階辺りに地面があり、階層を分ける床と天井が取り払われたそこは、太陽の温かな光が差し込んでいる。
しかもそこには明らかに異質なものの姿があり、平凡な中庭を桃源を思わせる異世界へと変えていた。
「……梅の花?」
そこには淡い白の花弁が降り注ぎ、風が吹く度に流れた花弁が渦のようになって頭上へ舞い上がる。
目を奪われている青を後目に、赤子は楽しそうにキャッキャと騒いでいた。
(いやいや、今を何月だと……)
暦の上では冬の入り。冷たい時雨の降り注ぐ十月である。
狂い咲きにも程があるというものだ。
「あーお、あー」
望み通り御簾を上げたにもかかわらず、好奇心旺盛な赤子はまだ何かを欲している。
「……下に降りたいのですか?」
「あい!」
まったく憎らしい赤子である。
けれど、実は青も同意見だったので、下に降りられる場所がないか探してみることにした。
甘味意外ほとんど心を動かすことのない青であるが、さすがに自然の摂理を無視した光景を見過ごせるほど無関心でもなかった。
だが、数歩歩く程度しかない手すりの幅には梯子に使えそうなものは無く、飛び降りられる高さでもない。
仕方なく部屋に戻って納戸をあさってみると、何故か用意周到に縄梯子が入っていた。
以前にもここから下りようと考えた者でもいたのだろうか。
「あぶー」
いざ下りる段になって、やはり大丈夫だろうかと一瞬ためらったが、赤子は青が戻ることを許してはくれない。
青は、どうにでもなれ、とばかりに手すりに結んだ縄梯子に足をかけた。