主神の子 其ノ壱
***
王宮で働き始めてから約十日。
すでに見慣れたはずの厨房であったが、今日はどこか様子が違っていた。
いつもならば料理長か副料理長しかいない時間帯のはずだが、なんだか今日は若干多い。
しかも皆仕事をしているでもなく、なんとなくもじもじしながら入口付近に突っ立って、ただの障害物と化している。
見れば、いつも厨房に出入りする配膳担当の女官男官ではなく、普段は朱雀以外の宮で働く妖怪達のようだ。
どうりで多いはずである。
中は見えない上に入れないのでとりあえず近づいてみると、傍に仏頂面の副料理長を見つけた。
「おはようございます。何の騒ぎですか?」
青に気付いた副料理長は、やれやれと首を横に振る。
「さあな。寅の刻に番を交代してそれきりだ」
という事は、中にいるのは料理長なのだろう。
一体今度は何をやらかしたのやら。
「とりあえず中に入るぞ」
副料理長はそう言って、人込みをかき分けながら青の手を引いた。
しばらくして視界が開けると、そこにいたのは緊張した面持ちの料理長と、どこかで見覚えがある美人であった。
一瞬女かとも思ったが、来ている官服からして男なのだろう。
腕を組んで柱に寄りかかる様子はたいへん絵になる光景だが、その翡翠の瞳にはどこか険しい色が浮かび、青を目にとめると怖いくらい甘美な笑みを浮かべながらこちらに近づいてきた。
「元気にしていたか、青。ここ何日か姿を見せなかったが」
その言葉に、入口に控えた取り巻きから悲鳴に近い声が上がる。
(ああ、確か翠麟とかいう……)
砂糖一粒にも満たない青の記憶力は、一度か二度会っただけの迷惑な上級神の存在など排除してしまっていたらしい。
周りの反応の既視感で、ようやくこの間この男が厨房を訪れた事があったことを思い出し、青は思わず眉を顰めた。
「特に変わりなく。翠麟様は朝早くにどういったご要件でしょうか」
「冷たいじゃないか。約束をすっぽかしておいて詫びも無しとはなぁ」
約束などした覚えはない。
……と思いたかったが、そういえば一方的に呼び出しをくらっていた気がする。
どうすれば形だけの謝罪と悟られずに穏便に済ませられるかを考えているうちに、「……まあ、いいか」と翠麟は一人で納得してくれたようだった。
やけにあっさりしているな、と思ったら、やはり裏があったらしい。
翠麟はうっすらと浮かべていた甘い笑みを一層強くし、どんなお堅い将軍様でも一瞬で籠絡されそうな妓女の頬笑みを浮かべる。
「お前が必要なんだ」
厨房の入り口付近からはバタバタと何かが倒れる音がしていたが、青にはその笑みが玩具を前にした童の顔にしか見えなかった。
***
そこは朱雀宮で最も高貴な貴神の使用する階層の一角であった。
つまりは最上階。大国主と階を同じくする場所である。
本来ならば青のような下級の女官が立ち入ることは許されず、入り込んでいる事が見つからば解雇で済むか怪しいような場所だ。
青は、いきなりそんな場所に連れ込んでくれた見目麗しい上級神を、まるで親の敵でも見るような目で見つめた。
その上級神こと翠麟の手には、白い布にくるまれた小さな赤子が抱かれている。
まだ生まれて三カ月くらいだろうか、紅葉のような小さな手で翠麟の髪を引っ張り、柔らかそうな頬で無邪気に笑っている。
その赤子を、翠麟はなぜか青に手渡した。
「その子を頼む」
どうやら、赤子の世話をさせるためにわざわざ青を連れて来たらしい。
まったく迷惑な話である。
「……自分で蒔いた種は自分でどうにかされてはいかがですか?」
(子種だけに)
「私のじゃない」
即座に反論するあたり怪しいものだ。
半目で胡散臭そうに窺う青に、翠麟は至極嫌そうな顔でため息をついた。
「とある貴神がどこかの神に産ませた子だ。私に押し付けて来た」
(庶子……)
嫡子以外の実子。父親の不誠実から生まれた日陰の子。
その子を受け取った私は、今どんな顔をしたのだろうか。
いつも美しい顔に笑みを貼り付けた目の前の貴神が、突然目を大きく見開き、一瞬身を強張らせた。
「迷惑ならばいいんだ」
そう言って赤子に伸びた手を、青は受け入れなかった。
「迷惑だと言ったらどうするんですか? 押し付けられて面倒を見きれないから私を呼んだのでしょう?」
「ああ、そうだ。だが無理にとは言わない」
「……ならば、私が断ればこの子はどうなるのです?」
捨てますか?
そう口に出そうとした時、翠麟の両手が、その細くて美しい姿に似合わない強い力で青の方を肩を掴んだ。
威圧的な翡翠の瞳が、当惑する青を射抜く。
「人間と一緒にするなよ。お前が断ってもどうにかして代わりの者を見つけるだけだ」
語気は強いが、いつもの甘い声で言い聞かせるよう囁く。
普段のように甘露の頬笑みではなく、美しい顔には真摯な表情が浮かんでいたが、青にとってはこちらの方が好みだった。
「勘違いしているようだが、一時的な預かりだ。一週間も面倒をみれば後は私がどうにかする」
畳みかけるように言う翠麟の手を、青はやんわりと払いのけ、困惑した翠麟の顔をゆっくりと見上げた。
らしくもなく、私は動揺していたらしい。
いつもの仏頂面に戻った青は、事務的な動作で赤子を腕に抱いた。
「わかりました、引き受けます。一週間ですね?」
「……ああ、頼む」
急に態度を変えた青に、決まりが悪そうに頷いた翠麟は、そのまま踵を返して部屋を後にした。
***
「どうしたのですか、翠麟様!」
翠麟が扉に寄りかかって廊下に座り込んでいると、慌てた様子の珪が駆け寄って来た。
そういえば珪には言わずに部屋を抜けて来たのだった、と今更思い出す。
心配そうにする珪には悪いが、翠麟の意識は先ほどの少女の様子から離れられなかった。
翠麟がいくらからかってみても歯牙にもかけず、ただ淡々と感情の入っていない言葉を返す。
最近は同じ場所で働く数人と懇意にしているようだったが、何事にも無関心で、面白いくらい心の動きが鈍い人間なのだと勝手に思っていた。
だが、違っていたらしい。
「……面白いな、あいつは」
ククッと思わず小さな笑いが漏れ、珪は一層困惑した表情を浮かべる。
ただちょっとした戯れのつもりで、あの子供を少女に預けてみたらどうなるだろうかと思って任せたに過ぎなかった。
子守など、頼む相手はいくらでもいる。
しかし、女というのは子を前にすると変わる生き物らしい。
(まあ、それだけということでもなさそうだったが……)
あの少女にあれほどの表情をさせる過去が何なのか、気にはなったが、詮索しようとはどうにも思えない。
ただあの少女が、一層興味深く感じられたのは言うまでも無かった。