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翠麟


***



「遅かったじゃないか、嬢ちゃん。もう片付けちまった」

「大丈夫です、自分で洗いますから」

青が調理場に戻った時には、すでに日付が変わっていた。

逆算すると、迷路の攻略に二刻を要したという事になる。

他に仕事を貰っていなくてよかった。

調理場に残っていたのは仕事終わりに料理酒と、肴の月餅をつまむ、不真面目だが腕だけはすこぶる良い料理長だけだった。

人間ではないらしく、額の左右に小さな角が生えている。

やはり、まだここには慣れない。

咄嗟に逃げた時、相手には気付かれてしまったようだった。

あのまま追いかけられていたら確実に捕まっていたのだが、何故か追いかけてはこなかった。

やはり怠けに来た同志だったのかもしれない。

一人で納得していると、一人酒に没頭していた料理長が不意に声を掛けて来た。

どうせなら、私にも少しくれても良いのではないかと思わなくもない。

だが、今まで一度もくれた事がないので期待はしない。

「嬢ちゃん、それなんだ?」

料理長の視線を追って自分の胸元をみると、慌てて突っ込んだので手紙の端が少しだけ見えていた。

取り出して宛名を確認すると、“翠麟様”とある。

「この人の部屋、知ってますか?」

聞き覚えはある気がするが、やはり知らない。

料理長に見せると、何故か料理酒の瓢箪を落としそうになるほど驚き、酒で赤くなった髭面を必要以上に近づけて来た。

神だか妖怪だかは知らないが、おっさんがむさ苦しいのは変わりないらしい。

「おい、それ代わりに届けてやるよ」

と手紙を奪い取ろうとするのに、素直に渡そうとは思えなかった。

「いいえ、場所を教えてもらえれば自分で行きますから」

「遠慮するなよ、これやるから」

そう言って飲みかけの料理酒を差し出すものだから、もう何かあると決まったも同然だ。

青の断固とした様子に何を言っても無理だと悟ったのか、料理長は少し残念そうな様子で、上を指差した。

「ここからずーっと上の、麗宮って所だよ。棟の上から二番目まで上ってみな」

「ありがとうございます」

青は口先だけだとばれないよう丁寧に頭を下げ、追い払うように手を振る料理長から逃げるように調理場を出た。



***



大国主神の宮は、四つの棟から成る。

東の青龍宮。これは日の出の方角にあるので、高位の神の寝所として使われている。

西は白虎宮で、こちらは上級神よりは地位の低い中級神と、たまに訪れる高位の妖怪が使用する。

北は玄武宮と言って下級神と一般妖怪の棟であり、青が空き時間によく利用させてもらっている場所である。

そして今青がいるのが、南の本棟朱雀宮。

女官や使用人の部屋などはこの棟の最下層にあり、麗宮に行くには階段を三つほど上ればよい。

横には無駄に広い王宮だが、縦には四階層。朱雀宮は五階層しかないのだ。

簡単に辿り着くはずだった。

だが、そうはいかなかった。

わけが分からず、半刻かけてようやく辿り着いた麗宮の前で青は大きくため息をついた。



***



時は遡り、半刻前。

青は料理長に言われた通り上に向かって階段を上りながら、ふと思った。

(上から二番目って、朱雀では四階だけど他の棟だと三階か?)

料理長は、朱雀棟とは言わなかった。

翠麟というのが客であったなら、四階まで上がる必要は無い。

麗宮と言われても、各客室に宮の名がついている王宮では場所の目星がつかなかった。

そんな時、ちょうど女官が通りかかったので聞いてみる事にした。

「麗宮とはどこにあるか、分かりませんか?」

それが、最初の間違いだった。

尋ねられた女官は最初怪訝そうな顔をし、

「何をしに行くの?」

と不機嫌そうな目でこちらを見た。

長い尾で床を叩き、明らかに威嚇の体勢である。

しかし手紙を届ける旨を伝えると、表情と態度が百八十度好転した。

「私が行く!」

と、明らかに何かある様子だ。

料理長とは違い、何度断ってもしつこく追い回してくる女官を見ながら、女の怖さを再確認した。

宮の中を走り回りながらなんとか女官を撒いて、ようやく三階まで上がった時、こんどは先ほどの経験を生かして男性に聞いてみる事にした。

「麗宮の場所を知りませんか?」

巡回中の暇そうな武官に声をかけると、先ほどの女と同じように怪訝そうな顔をされた。

「手紙を頼まれたんです」

聞かれる前に答えると、今度は驚くべき現象が起こった。

なんと、武官は頬を染めたのだ。

「頼む、俺に行かせてくれ!」

懇願する武官は追いかけて来ない分女官よりマシだったが、気持ち悪い上に断りにくい分女官よりたちが悪かった。

その後は、この繰り返しである。

女官に聞けば追いかけまわされ、武官や文官に聞けば頬を赤くして迫られた。

王宮中を逃げ回り、最終的に出会ったのは青龍宮の最上階に滞在するお客様であった。

「あらあら、どうしたの?」

その神様は、ふらふらになって床に膝をついた青の背を擦り、後ろに控えた侍女に水を用意させた。

白い肌に金の瞳。形のよい唇には桜色の紅を乗せ、頭の上で纏められた金髪からは柔らかそうな狐の耳が覗いていた。

よく見れば、自分の背を撫でているのも何本もある尻尾の一つである。

本当に優しそうな、美しい稲荷の神であった。

「……翠麟様って、一体何者なんですか」

お客様に聞いたところで意味の無い質問だろう。

それでも聞いてしまうほど、青は気力も体力も限界に近かった。

しかし稲荷の神は朗らかに笑い、合点のいった様子で教えてくれた。

「女ったらしの男ったらし、かしら?」

もう訳が分からなかった。



***



日付が変わって半刻ほど経った頃、翠麟は自室である麗宮で書類に判を押していた。

今日は待ちぼうけを喰らい、仕事が遅れてしまっている。

(あの女、どこへ行った?)

翠麟が捜していたのは、ひと月前に大国主神が連れて来た人間。青と言う名の女である。

玄武宮で後ろ姿を見たとき、その女だと確信した。

ひと月前大国主神の部屋で会ったきりであるが、間違いは無いはずだ。

人間の女官など一人しかいない。

(まさか追いかける側になるとはな)

今まで常に追いかけられる側だった境遇に少しだけ笑い、再び手元に視線を落とした。


暫くして、一つしかない部屋の扉が控えめに鳴らされた。

船を漕いでいた翠麟は、寝ぼけた頭を重そうに持ち上げる。

(今日は一体誰だ?)

最近、と言うより十月になってから、毎夜のごとく翠麟の部屋の扉が鳴らされる。

偶然見かけたという客から、挨拶をしただけの使用人まで、男女問わず訪問してくるので困ったものである。

書類や仕事以外の用事でこの場所を教えないように、尋ねないようにとは言ってあるが、効果は知れたもの。

誘いの手紙を書類と称しては、押しかけて来るものが後を絶たない。

扉の外で各々鉢合わせした日には、もう大惨事である。

「何用だ?」

翠麟は用心深く鍵を閉めたままの扉にもたれ、外からの声に耳を傾ける。

「お手紙を……」と、消え入りそうな声が返った。

(女か)

この様子だとよもや夜這いをかけに来た痴女ではあるまい。

鍵を外して扉を押すと、そこには朱染めのお仕着せを纏った女官が立っていた。

適当に後ろで括った黒髪には簪一つなく、まだ幼さの残る顔立ちには白粉すらのっていない。

特徴といえば、唯一の飾り気と言える魚鱗のような物で作った首掛けと、真一文に結ばれた口。

数えで十六と言っていたが、それにしては揺るぎのない真っすぐな瞳。

(これは好都合)

そこにはひと月前に宮に入った人間の女官、“青”の姿があった。



***


全く、麗宮とは良く言ったものだ。

唐風の美しい彩色の施された壁に、金細工で四辺を固めた扉。

深層の姫君でも囲われていそうな部屋から顔を出したのは、まさに麗しの宮であった。

美しい黒髪に翡翠の瞳、蓬莱の仙女も裸足で逃げ出すような美貌に、菩薩のような柔和な頬笑みが張り付いている。

「随分久しいじゃないか」

声を聞くまでは、完全に女だと思っていた。

透き通った美しい声音だが、女のものよりは少しばかり低い。

どこかで聞いた事があるような、無いような。

久しいというからにはどこかで会っているのだろう。

記憶力には、牡丹餅にのった胡麻粒ほどの自信も無い青である。

「お久しぶりです、翠麟様。お手紙をお預かりして来ました」

しれっと言って、件の手紙を差し出す。

翠麟は白魚のような美しい手でそれを受け取ると、興味なさげに裏を返した。

「……今度は女郎か」

呟いたかと思うと、封も開けずに懐へしまった。

何はともあれ、これで責務は果たした。

例え手紙が読まれなくてもそれは私の領分ではない。

さっさと踵を返そうとすると、後ろから肩に手がのせられた。

「なんだ、寄って行かないのか?」

不意に、耳元で糖蜜のように甘い声が囁く。

翠麟の吐息が耳朶を掠め、肩に腕がまわされた。

(ああ、これか)

と、青は場違いにも思った。

『女ったらしの男ったらし』

稲荷の姫が言った言葉はあながち間違いではないらしい。

本人がその気ならば女以外でも落とせそうだ。

青はここに来るまでの道のりで出会った武官たちを思い出し、危うく先ほど稲荷から貰った重湯が逆流してきそうになった。

どれほど高位の神か妖怪かは知らないけれど、一に甘味で二に甘味のごく一般的(?)な人間を巻き込まないで欲しい。

「明日の朝も早いですので」

首が飛ぶのはのは御免なので、刺激しないように丁重に腕を解く。

翠麟は意外なほどあっさりと青を解放し、なぜか「へぇ」と感心したように呟いた。

「では失礼」

背を向けた青に、今度は引き止める手は無かった。



***



茶を飲み終えるほどの時間もかけず、部屋の主は来客の応接から戻って来た。

けい、月餅はあるか?」

「はい」

珪と呼ばれた従者は、翠麟の終えた仕事の書類を片付ける手を止め、隣の部屋へ向かう。

餅と玉露を手に戻ると、翠麟は絹を張った椅子にどかっと腰を下ろして仕事机に足を上げていた。

「行儀が悪いですよ」

「まあまあ」

着物の着崩れなどお構いなしで背もたれにしな垂れかかり、長いまつげを僅かに伏せる。

もしここに、翠麟に対して不健全な魅力を感じている者がいれば、理性のたがが外れかねないだろう。

今のところ自分の部屋でしか“翠麟様”の仮面は外さないようなので、被害は報告されていない。今のところ。

お目付役としては眉間の皺が増える一方だが、翠麟のようすがどこかいつもと違う事に気がついた。

「上手くいきましたか?」

「微妙だな」

そんな言葉を、何故か嬉しそうな顔で言う。

「それは珍しい、よっぽど意志の強い方なのでしょうね」

推測で言うと翠麟は「ククッ」と小さく笑った。

あながち間違いでもあるまい。翠麟の色目が効かないのは、無性の神か、ただ一人と心に決めた者がいる者くらいだ。

「どうだろうな、十六の小娘にそんな奴がいるとは思えないが」

言いつつまた思い出したように口角を上げる。

やはり、変だ。

「……しかし、失敗したのならば噂が広がってしまうのではありませんか?」

「本当に聞いたならのこのことこんなとこまで来ないだろう」

それより、と言って、翠麟は再び甘い笑みを浮かべた。

僅かに意地の悪さを含んだ、毒のある花の蜜のような頬笑みだ。

「仕事熱心な女か。悪くない」

皮肉げに笑った翠麟の手には、なぜか薄蒼に光を透かす龍鱗のついた首掛けが握られ

ている。

(嗚呼、これは本気だ……)

人間の少女は、なぜか翠麟の妙なスイッチを押してしまったらしい。

(何事もありませんように)

珪は心の中で、とりあえず自分以外の神に手を合わせた。


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