百鬼の主 其ノ参
集まったその他大勢の使用人たちも、皆ざわざわと落ち着きなく騒いでいた。
当然だ。紅は背も低く、とてもじゃないが逞しいとは言えない。
使用人から立候補した五人は、体格のよい男官ばかりである。
白虎宮へ三膳運ぶのがやっとの子供が、玄武宮へ行ったらどうなるかなど火を見るより明らかだ。
青でもわかる。
先ほどの悪寒がよみがえり、青は思わず自分の腕を抱いた。
一瞬で気が狂いそうなほどの嫌悪感。三日など、並みの精神でもつだろうか。いや、無理だ。
紅が自分で名を入れる筈は無い。
(なら、誰が?)
青が周りを見回すと同時に、隣にいた白が一歩踏み出した。
「何かの間違いではありませんか?」
声を張った白に、一斉に周りの視線が集まる。
真っすぐに見据えた白の視線に、答える翠麟は憂いを含んだ表情をしていた。
「間違いではない。……自分の目で確かめるか?」
白は頷き、前に出る。
青も付いていこうとして、いつの間にか隣にいた赤子に手を引かれた。
「あお」
紅葉のように小さな手が、縋るように青の着物の裾を握りしめる。
こんな様子は今まで見た事がない。
きっと、青の心の奥にある不安や恐怖がうつってしまったのだろう。
子供とは不思議なものだ。
青は赤子を抱きあげ、その場から白の様子を窺った。
珪や副料理長の横を通り過ぎ、翠麟の前に立った白が箱を受け取る。
白は箱を見てコクリと頷くと、すぐに箱を翠麟に返した。
「……紙と筆をお借りできますか?」
その言葉で、間違いがない事が確実になった。
「いいのか?」
「友人を一人では行かせられませんから」
まるで、十万億土への旅路を共にするような言い方だ。
いよいよ、青も我慢の限界に近かった。
二人の様子からして、一度名を入れればもう取り消しは効かないのだろう。
そうであるならば、青の取るべき行動も決まっていた。
赤子を抱いたまま、前に進み出る。
ギュッと力の籠った小さな手をゆっくりと解き、赤子を床に下ろした。
「私も行きます」
一瞬、水を打ったように使用人たちのざわめきが聞こえなくなった。
「駄目だ」
翠麟の凛とした声が響く。
「……どうしてですか?」
責める口調の青に、翠麟はまるで我儘を言う子供を宥めるように言った。
「さっきの妖怪を見ただろう? あそこは女子供が行く場所じゃない」
「なら、なぜ紅さんは良いのですか?」
「不可抗力だ。女官の件は私がどうにかする」
(嫌われてるくせに)
そんな、子供のような言葉が口をつきそうになった。
真っすぐ青を見る翡翠の瞳にさえ腹が立つ。
仕方ない、あまり使いたくなかった手ではあるが。
翠麟はぎょっとして目を見開き、とつぜん掴まれた自分の腕を、信じられない物を見るような目で見た。
青はそのまま翠麟を引き寄せ、紺のお仕着せの襟を掴みあげる。
青は翠麟の耳元に口を寄せ、小さく呟いた。
「……主神様の件、その後どうなりました?」
世の中には、知らなくていい事がたくさんある。
そんな物を知ってしまった場合は、知らぬものとして過ごすのが一番だ。面倒事を回避できるし、下手をして命を危険にさらす事も無い。
そして、このように後々切り札に使う事も可能だ。
青が身体を離すと、翠麟は少しだけ目を細め、青だけに聞こえる声で言った。
「私を脅す気か?」
「めっそうもない。ただふと気になっただけでございます」
わざと恭しく言うと、翠麟は疲れたように息を吐いた。
「好きにしろ」
どうやら、青の策は上手くいったようだった。
「失礼します」
翠麟は、そう言って出て行こうとする青の腕を引いた。
「まだ何か?」
「何故黙っていた?」
詰問するような声に、いつもの甘さは無い。
いつの間にか、厨房の中が青と翠麟だけになっているのも気になる。
今度は青が溜息をつき、翠麟に向き直った。
「私を殺しますか?」
「……は?」
虚を突かれたように、一瞬翠麟が固まった。
「ならば玄武宮から戻った後にして下さい」
「いや、だから何故そうなる」
そういう事ではないのだろうか。
どこか怒ったような翠麟を、青は珍種の生物でも見るような目で見た。
「口封じしなくてよろしいのですか?」
「……なら、お前はそれを他言する気なのか?」
「まさか」
言ったところで何の利益にもならない。
「ならいいんだ」
あっけなく信じた翠麟は、とても朱雀宮の上層に住む偉い神様には見えなかった。
「それよりも、どうして私に黙っていた?」
「言っていたらその場で殺されると思ったので」
「だからなんでそうなる」
「神様とはそういうものでしょう?」
仏は救うが神は祟る。菩薩のような笑みを浮かべる翠麟も、神として数えられる一人だ。
気まぐれな神は気まぐれに人を救うが、それで世が平定することはない。
神は非情で残酷だ。
「私はそんなことしない」
「そうですか」
どこか睨むような視線を向ける翠麟に、青は丁寧に頭を下げた。
いつ気が変わるとも限らない。
吹けば飛ぶような軽い命だが惜しくないと言えば嘘になる。
翠麟はしばらく黙っていたが、やがて息をつく気配がした。
「何かあったら隠さず私に言え。大国主の件は黙っていてもらえるとありがたい」
そう言われた後、頭に手がのった。
思わず払いのけると、非難するような視線と目が合った。
「……照れ隠しとして受け取っていいのか?」
「条件反射です」
首を落とされるのは勘弁願いたいが、媚を売って胡麻を擂るつもりはない。
まあいい。と呟いた翠麟は、思い出したように言った。
「お前は文箱に名前を入れるなよ。三日間玄武宮から出られなくなる」
「わかりました」
厨房を後にする翠麟の背中を見ながら、
(どちらかというと人間みたいだな)
と思ったことは、口には出さなかった。
***
紫水はじたばたと暴れる子供を引きずりながら、朱雀宮の廊下を歩いていた。
「はなせよじじい!」
「黙れ餓鬼」
そんな問答を繰り返しながら歩く様子は、傍から見れば人攫いに見えかねない。
一足先に厨房から追い出され、自分の仕事に戻っていた使用人たちが奇異の目で見つめ、触らぬ神に祟りなしとばかりに道を開けた。
さて、どこで時間を潰すか。
担当になった者は明日から三日間は玄武宮から出られなくなるので、今日一日暇を出される。
だが、紫水にはこれといって用意するものがない。
玄武宮の食事に上等な甘味など必要なく、業者から取り寄せた落雁でもつけておけばいい。
食事自体だって、前日から用意するような上等なものは出さない。
神の世も階級社会。これだけは人間の世と大差ないのだ。
(世知辛い世だな)
そんなことを思いながらも、同情して妖怪に上等な甘味を用意する気などさらさら無い紫水である。
意外でも何でもなく他人に冷たい紫水は、不意に背後からのざわめき声を聞いた。
振りかえらなくとも、赤子の様子を見れば大体想像がつく。
「すーりん!」
未だに赤子から正しい名前を言ってもらえない残念な上級神は、周りの反応などどこ吹く風で颯爽と歩き、赤子を引きずっているため歩みの遅い紫水の隣に並んだ。
ちらりと見た横顔は、普段のように菩薩の笑みをたたえ、周りの者全てを惹きつける天女のものだった。
「まるで人攫いだな」
「他人のこと言えるのか?」
「私が? まだ覚えはないな」
翠麟は前を向いたままふっと笑った。
周りの観衆は相変わらずで、翠麟が少し視線を向けるだけで姦しく騒ぎたてる。
まるで浮世の千両役者だ。
翠麟は思わず苦い顔になった。
「何をそんなに怒っている」
初めてこちらに視線を向けた翠麟の顔には、妓女のような甘い頬笑みが貼り付いていた。
「……分かるか?」
「年長者を侮るなよ」
笑いながら怒っている器用な上司は、少しだけ怒っている者らしい表情に顔を歪める。
最近翠麟の仮面が剥がれるのが早くなった、と紫水は思う。
原因は大体想像がつく。
お気に入りが危険な目に遭うのは我慢ならないらしい。
しかし、あまりそちらばかりに気を取られるのも困る。
「今回は『風輪』も玄武に来る。気をつけないと“気付かれる”ぞ」
「ああ、分かってる」
紫水の言葉に、翠麟は再び顔に甘い笑みを貼り付けた。
「そう言えば、お前に頼みたい事があった」
ふと、思い出したように翠麟が立ち止まる。
振り返る紫水に見せた、悪戯をしかける童のような表情はおそらく自前だろう。
怒ったり笑ったり忙しい上司である。
紫水は溜息をつきながら、いつものように腕を組んで翠麟を見返した。
「高くつくぞ」
紫水は、少し翠麟に似た甘い頬笑みを浮かべて見せた。
***
(またか……)
と、青は使用人の下駄置き場を見ながら思った。
明日玄武宮へ行くことになった青は、副料理長たちと同じく一日の暇を出された。
と言っても、何を用意すればいいのかわからない。
着替えは支給されるので、とりあえず手ぬぐいや代えの夜着などを用意するため街へ出ようとして気がついた。
「今度はどこだろう」
青の下駄が所定位置に無いのだ。
一度は外のごみ置き場。二度目は城のまわりの堀に投げ込まれており、親切な人魚が投げ返してきた。
最初は赤子の悪戯かと思ったが、どうやら違うらしい。
不意に、後ろから来た女官と肩がぶつかった。
「あら、ごめんなさい」
悪びれた様子のない女官は自分の下駄を取り、さっさと外へ出る。
その女官が耐えかねたようにクスリと笑うのを見て、青は思わずため息をついた。
原因など容易に想像がつく。
本人はむしろ迷惑とすら思っているというのに、女の嫉妬とは怖い物だ。
青は自分の性別を棚に上げ、そんな事を思った。
しかし、もっとマシな嫌がらせは思いつかなかったのだろうか。
もともと貧しい農村で暮らしていた青は普段から裸足。よくて草鞋である。
お仕着せとセットで強制される下駄など、邪魔なものとしか思っていない。
(私なら……)
と、とりあえず実行する予定の無い、えげつない嫌がらせを想像しながら、青は下駄が無い分普段より軽い足取りで町へ出た。
***
翌日、玄武宮で久々に見た鬼人の少女は、いつもより小さく見えた。
場所は玄武宮内の厨房。ここに来るまでに、既に数人の妖怪とすれ違っている。
人型に化ける事が義務付けられているらしく、邪の塊のような靄は見かけなかったが、それでもまがまがしい角を生やしたり目が三つ以上だったりする妖怪は正直不気味だった。
布のせいで分からないが、紅はきっと怯えた表情をしているのだろう。
「お久しぶりですね」
そう言って隣に来た紅の声はずいぶんと震えていた。
「……大丈夫ですか?」
「はい」
気丈に振舞う様子が痛々しい。
おそらく紅は、自分のために危険な役目に立候補した青や白に心配をかけまいとしているのだろう。
実に涙ぐましい様子だが、出来れば自分の心配をしてほしい。
青は昔からあまり感情が顔にでない、自他共に認めるつまらない子供だったが、人並みの交友関係は持っていた。
貧しく狭い村である。村人全員が友人であり、兄弟であり、父であり、母であった。
家族同然である友人を助けるのは当たり前の環境で育った。
思わず、青は肩の高さよりも低い位置にある紅の頭を撫でた。
「おはようございます。青様、紅様」
不意に後ろから声がかけられ、二人で振り返る。
そこには、紺のお仕着せを来ている以外には普段とあまり変わり映えのしない、質実剛健が服を着て歩いているような従者が立っていた。
厨房仕えの端女とは地位に雲泥の差があるにも関わらず、女官に『様』を付けるのも相変わらずである。
これで普段から、あの不誠実が服を着てついでに美形を貼り付けたような上級神の付け合わせ扱いなのだからいたたまれない。
やはり神様も顔次第なのだろうか。
「おはようございます、珪さん」
青が言い、紅がコクリと頭を下げると、珪も小さく目礼した。
今日は翠麟とは別行動のようだ。紅に嫌われているのを自覚しているからかもしれないが、青たちから離れた場所で副料理長に話しかけているのが見えた。
不意に翠麟がこちらを向き、視線が合う。
ニコリと甘い笑みを浮かべた上級神様から、青は光の速さで目を逸らした。
そんな青を、後ろでニヤニヤしている主の存在を知らないであろう珪は不思議そうに眺めた。
「青様、大丈夫ですか?」
「問題ありません」
「……いえ、翠麟様の事ではなく」
なんと、珪には後ろの様子が見えていたようだ。
気配だろうか。神様とは恐ろしい。
そんな事を考えていると、不意に珪の手が頬に触れた。
紳士な黒い瞳が青を覗きこむ。
「顔色が悪いようです。朝食は召しあがりましたか?」
一瞬珪の視線が、主人を心配する動物のものに見えた。
飼い犬の姿勢が身についているのだろうか。咄嗟に翠麟を殴りたくなった。
「大丈夫です。朱雀宮の厨房で握り飯を二ついただきました」
そう答えたが、青のいつも通りの仏頂面のせいで具合が悪く見えるのか、なおも心配そうな表情をする。
申し訳ないがこれだけはどうにもならない。笑顔が無駄に得意な珪の主と違って、青の表情筋は未発達なのだ。
しかし、ちょうどのタイミングで翠麟が珪を呼ぶ声が聞こえ、後ろ髪を引かれる様子で「すいません」と言いながらその場を後にした。
「調子が悪いのですか?」
紅までもそんな事を訊いてくる。
「本当に大丈夫ですよ」
青は再び紅の頭を撫でる。
本当は、少し嘘をついていた。
しかしこれから大変な仕事が待っているであろう状態では、何となく言えなかった。