翠麟の憂鬱
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「青さん! 大丈夫でしたか!?」
久々に厨房に戻ると、まじないの布で顔を隠した鬼人の子が、涙声で飛びついて来た。
「取って喰われたんじゃないかって、宇迦様も心配してたんだぞ」
狐面の青年も、そんな事を言いながら近づいてくる。
「二人とも、白餡をお願いしたときに会ったじゃありませんか」
「そうだけど…………なあ?」
白から同意を求められた紅が、首が取れるんじゃないかと心配になるほどぶんぶん首を縦に振る。
なんだか切羽詰まった様子で、青よりも身長が頭三つ分は低いにもかかわらず、肩に両手を置いて諭すような体制で青を見上げた。
(最近似たようなことがあったな)
なんとなく既視感を感じながら、若干かがむ。
「身体が辛かったら言って下さいね? いつでもお仕事代わりますから」
「……はい?」
子守で大変だったのは二、三日程度で、今はそれほどでもない。
今も後ろでバタバタと走りまわり、仏頂面の副料理長に捕獲されたのを横目で見届け、青は首を捻った。
預かり期間を延長されたといっても、とりあえずお目付役として面倒を見てほしいということらしい。
親は、放りだす気はないが今は忙しくて引き取れないというかなり身勝手な理由で行方をくらましている。
珪が言うには、ひと月も経てば一人前に仕事が出来るようになるので、いずれ男官の仕事をさせることになるだろうということだった。
特に仕事を代わりにやってもらう必要性は感じないのだが、紅は何か決心したように頷きながら布越しに青を見上げる。
「いきなりあの方に連れて行かれたと聞いた時は息が止まる思いでしたが、青様がそれでも良いというなら私は全力で応援します。まったくあの方ときたら、やたら興味深そうに青様を見てるから怪しいとは思っていましたが、本当に手を出すなんて見損ないました! いくらちょっと見た目が良いからって、やっていい事と悪いことがあることくらいあの方だって……」
「あの方って、どの方なんだろうなぁ」
砂糖菓子よりも甘く、錦玉羹よりも魅惑的な声が、青の後ろから囁かれた。
よっぽど暇人なのだろうか、なぜかいつもの黒い上等な官服ではなく男官の紺のお仕着せを纏っている。
振り返った青にいつもの甘ったるい頬笑みを送り、紅はギクリと身を強張らせた。
「翠麟様……」
紅はそのまま後ずさり、「失礼しました」と踵を返して去って行った。
何故だかその様子が、青には、ただ噂話を聞かれた気まずさで逃げ出したようには思えなかった。
「……よっぽど嫌っているようだな」
紅が見えなくなって、ポツリと翠麟が呟く。
そこには、何か青の知らない事情がありそうだった。
詮索する気は毛頭ないが。
「翠麟様を、ですか?」
「どうだかな」
翠麟はひらひらと手を振り、いつもとは違ってどこか憂いを含んだような表情で微笑んだ。
何故だろう。最初はやたら甘ったるい笑みを貼り付けたような顔で笑っていた翠麟が、最近は色々な表情を見せるようになった気がする。
(とうとう化けの皮が剥がれてきたか?)
などと思っていると、不意に翠麟が振り返った。
少しだけ、それがいつもの翠麟とは違い、母親のような優しい表情に見えた。
「とりあえず、青には何もしていないとあの鬼人に伝えておいてくれ」
「いろいろと強要されているような気がするのですが、それは何もしてないうちに入るのでしょうか」
(主に子供の件で)
率直に思った事を言ったのだが、翠麟は虚をつかれたように目を見開き、やがて頭を押さえ、あいた方の手を諭すように青の肩に置いた。
「もういい、お前は何も言うな」
疲れているのだな。
翠麟を見ていると、何となくそんな気がした。