珪の受難
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近頃の翠麟は、どうにも様子がおかしい。
最近は真面目に仕事をこなし、勝手に部屋を抜け出しては厨房や最上階に出没することもなくなった。
まるで以前のように……と、至極当たり前の事を考えてしまう。
翠麟は翠麟であり、今も昔もそれ以外ではなかった。おかしいことなど何もない。
珪は茶を用意しながら、真面目に仕事の書類に判を押している主に視線を向ける。
「根を詰め過ぎては身体に毒ですよ。少し休憩されてはどうですか?」
「ん? ああ、そうだな」
肩をぱきりと鳴らし、茶を啜る。
翠麟が月餅を口に含むと同時に、部屋の扉が控えめに鳴らされた。
「青です。よろしいですか?」
ぶはっとお茶を吹き出した翠麟に代わり、珪が「どうぞ」と告げる。
(ああ、せっかく済ませた仕事が)
開いた扉の奥から、人間の少女と、その後ろについてきた子供が顔を出した。
「けい!」
「随分大きくなりましたね」
駆け寄って来た子供は、一週間前に見た小さな赤子には到底思えない。
神の子とはそういうものだ。
ぽふっと抱きついてきた赤子の頭を、珪は優しく撫でてあげた。
「こら、いけませんよ。ごめんなさい珪さん」
「大丈夫ですよ」
一週間前から一切変化なく、相変わらず翠麟様には目もくれない少女は、後ろ手に持っていた風呂敷包みを開け、中の物を取り出した。
それは先日翠麟様の許可を得て少女に渡した、庭に実った青梅だ。
今は砂糖で甘く煮られ、甘露煮になって器に入っている。
「よろしければどうぞ」
「これはありがたい」
少女の甘味は、料理長に負けず劣らず美味だ。
王宮の料理長はああ見えて実は数多の神に愛される、国一番の腕をもつと言われる妖怪を老舗の甘味屋から引き抜いてきたのだったが、どうにも杜撰な性格で、量を作るとなると若干味が落ちる。
それに比べ、少女の甘味は計算されているかのような繊細な味で、味のバランスが丁度良い。
それは赤子のために簡単に作った金団を分けてもらった時でさえ思ったのだから、本当にたいしたものである。
少女の甘味を受け取ろうとした時、なんだか後ろから殺気の籠った視線を感じた。
(……ああ、しまった)
玩具をとられた童の顔をしているであろう、主の存在を忘れていた。
「お茶請けにしましょう。用意してくるので少々お待ちを」
「あ、おれもいく!」
そう告げて、珪は赤子を連れて奥へと下がった。
「久しぶりだな、青」
「まだ二日ぶりですが?」
そんな会話が聞こえる。
やはり青は青で、赤子の事件の時は少し翠麟様にも心を開いたように見られたのに、それが幻覚だったのかと思うほど素っ気ない。
そこがまた面白いのであろうから、主には困ったものである。
(……おや?)
なんだか、そういうわけでもないらしい。
いつもは青が視界に入るたびに童のような顔をする翠麟が、珍しく真面目な表情をしている。
いつもは蠱惑的な頬笑みを浮かべる美しい横顔だが、凛々しく誠実な眼差しも良く似合っていた。
(まさか……)
いや、そんなはずはない。と、思う。
珪は向き直り、急須を磨きながら二人の声に耳を傾けた。
沈黙を破ったのは、翠麟だった。
「子供、欲しくないか?」
パリーンと、磁器の割れる高い音がした。
「だいじょうぶか、けい!」
会話を聞いていなかったのか、それともまだ意味が分からないのか、赤子は物凄い発言をかましてくれた翠麟を気にすることも無く珪の割った急須を片付けようとする。
大丈夫です、と言って、なんとか持ちこたえた珪は磁器の破片を拾い集める。
それにしても、もう少しマシな言葉はなかったのだろうか。
縄文時代の告白でもあるまいし。
思わぬ主の語彙力に愕然としていると、青の方からも思わぬ言葉が聞こえた。
「いいですよ」
ガシャーンと、用意していた茶器がお盆ごとひっくり返った。
「おい、けい!」
赤子が、座り込んだ珪を心配そうに覗きこむ。
申し訳ないが悠長に返事をしている余裕はなかった。
瞬時に振り返り、向かい合って言葉を交わす二人を見る。
「何を言ってるんですか、青様! 翠麟様も!」
「何を、と言われましても……」
いつも通り淡々とした青の表情に目眩がした。
最近の若者はこういうものなのか? などと、もう何百年と世代の違う珪は思わず納得させられそうになる。
(いやいや、絶対に間違っている!)
思わず、青の肩に手を置いて諭す体制に入った。
「青さん? 本当に意味が分かっているのですか?」
「……まあ、言葉の通りなら」
分かってない。絶対に分かってない!
「子供を授かるのがどれほどのことか。それを育てるのがどれだけ大変なことか。本当に分かってるのですか!」
珪の必死の説得も虚しく、青は訳がわからないという様な表情をする。
「いや、授かるもなにも……。もうだいぶ育ってますし」
(…………まさか!)
珪は勢いよく振りかえった。
目が合った翠麟が、にこりと甘い頬笑みを浮かべる。
主人でなければ一発殴ってやりたかった。
女ったらしだ、男ったらしだと言われ、傾国の美貌をいいことに色目を使って何でも解決してしまう翠麟だが、ただちょっと興味をもっただけの年端もいかぬ無垢な少女を孕ませるほど節操のない男だとは思わなかった。
「……もうしわけありませんでした、青様。主の失態は気付かなかった私にも非があります」
覚悟を決めよう。残り何百年あるとも知らない命だが、一生をかけて償わなければいけない。
茫然と膝を床に着いた珪の服の袖を、誰かが引っ張った。
お盆に茶器の破片を載せた、危なっかしくも、立派に成長した赤子である。
赤子は無邪気に微笑んでお盆を床に置き、おもむろに人差し指を立てて自分自身を指差した。
「おれ」
「……はい?」
赤子はまたにこりと笑う。
同時に、翠麟が耐えかねたように吹き出す。
「おれのこと」
とたんに爆笑し始めた翠麟を見て、ようやく理解してしまった珪は、自分の顔から血の気が失せていくのをはっきりと感じた。
「……何か勘違いをなさっているようですが、翠麟さまはもう少し赤子を預かれと言っているようですよ。子供を指差していらっしゃいましたし」
そう言った青の手には、買収に使われたであろう街で売っている金平糖の袋が握られている。
きっと、この少女は聞かれるままに正直に答えただけで、二人のたくらみなど何も知らなかったに違いない。
ケタケタと笑う赤子と、腹をかかえて笑う翠麟を見ながら、また気苦労の種が増えたなと遠い目をしながら思ったのだった。