主神の子 其ノ参
***
近頃の翠麟は、どうにも様子がおかしい。
仕事を溜め、勝手に部屋を抜け出しては厨房や最上階に出没する。
以前と違って……と、過去と比べるべきではないのかもしれないが、今年の神無月になってからでさえ、ここ最近のように仕事が終わらぬうちに出かけることなどなかった。
珪は茶を用意しながら眉間を押さえ、今は真面目に仕事の書類に目を通している主に視線を向ける。
理由ははっきりしていた。あの人間の少女だ。
職場に押しかけてはひと騒動起こすだけでなく、今回は子守という厄介事まで押し付けられ、まるで玩具を見るような視線を向けられる彼女が、珪としては不憫でしょうがなかった。
今は大人しく仕事をしているが、また思い立って彼女のもとへ行くとも限らない。
気を散らさないようにしなければ。彼女のためにも。
と、軽い使命感と共に月餅を用意していると、ドスッと何かが落ちるような音が聞こえた。
部屋の外からのようである。
この場所は大国主の加護により冬の間も春のように暖かい。
それはもう、一年中梅の花が咲き誇るほどに温かいのだ。
寒くもないのに御簾など下げている筈がない。
音がした方を見ると、いつの間にか上から縄梯子が下り、その下に誰かがうずくまっていた。
翠麟に視線を向けると、やはり玩具を見つけた童の顔で手にした書類を置いている。
(やはり、無理を言ってでも赤子の部屋を移すべきだった)
珪の苦悩は、今日も増える一方であった。
***
縄梯子から脚を踏み外した青は、背中から中庭に着地した。
一瞬気絶するかと思うほどの激痛が走ったが、赤子に怪我は無かったようなのでよしとする。
(いったいどうなっているのだろう)
下から見上げても、やはり梅の木は梅の木である。
何本かあるうちの一つに、実が生っているものもあった。
(今度分けてもらおうかな)
などと、梅の実の砂糖漬けを想像しながら眺めていると、大人しく抱かれていた赤子がもぞもぞ動き始めた。
「うーいん」
そう言って、逃げ出そうとする。
とてつもなく嫌な予感がした。
「どうしたんだ、青。昼間に忍び込んでくるとは随分情熱的じゃないか。そんなに私に会いたかったのか?」
後ろからかけられた声に、青は、苦虫を噛み潰した時の方がもっとましな表情をするであろう苦々しい表情で振り返った。
そこにいたのは、赤子の言う“うーいん”こと翠麟様である。
美形に天女の頬笑みを貼り付けたこの上級神を、赤子はお気に召さないらしく、見たとたんに逃げ出そうとする始末だ。
一緒にいる珪には見かけたとたんに駆け寄っていくほど懐いているので、赤子というのがその者の本質を感じ取るというのは本当らしかった。
「……青様、どうされました?」
「赤子がどうしても下に降りたいと言うので」
嘘は言っていない。全てを語らないだけで。
赤子を抱いた珪は困ったように息をつき、「とりあえず、月餅と玉露はいかがですか?」と青を中へ誘った。
まったくできた神様である。
二つ返事で受けると、翠麟はどうにも複雑そうな表情をしていた。
***
事件が起こったのは、その次の日のことであった。
「明日の朝餉の甘味、練り切りなんですか?」
翠麟の目を盗んで手伝いに来てくれた珪は、赤子の襁緥を取り換えながらそんな話題を口にした。
何日も厨房を離れている青に気を使ってくれたのだろうが、まさに示し合わせたようなタイミングである。
ふらりと現れては翻弄される青をひとしきり笑って、何もせずに満足げに帰っていく主人も見習ってほしい。
「何か問題でも?」
「実は、先日練り切りに使う白餡を使ってしまったんです。少量なので足りないという事は無いでしょうが……」
料理長はともかく、良くしてくれる副料理長にはなんだか申し訳ない。
それに何日も本来の仕事を疎かにしているので、さすがに厨房が気にかかっていた。
珪は、「ふむ……」と少しの間考え込み、
「私も仕事があるのでずっと赤子を見ている訳にもいきませんが、少しの間なら他の女官に赤子を任せて厨房へ行っても大丈夫だと思いますよ。女官は私が手配しましょう」
「本当ですか?」
その申し出はとてもありがたい。
しかしそう長く他人に任せるのも申し訳ないので、餡は白と紅に作り方を教えて作ってもらい、今回は数日前から水に浸けたままで駄目になっているであろう豆を片付け、新しい豆を買って水に浸けるところまですることにして、青は珪の申し出を受け入れた。
「誰か! 誰か来て!」
そんな叫びが、朱雀宮の階段を上る三人の耳に届いた。
ひと通りの用事を済ませた青と、途中で行きあった翠麟たちである。
「私の部屋からだ」
駆けだした青の後ろで、翠麟が告げる。
鍵はかけないまま出て来たというので、そのまま青が扉を押した。
真っ先の御簾の先の梅が視界に入り、案の定と言ったところか、その根元に人影があった。
声の主だろう。ぼろぼろと涙を流しながらぐしゃぐしゃに顔を歪め、何かを必死に抱きかかえている。
仕舞い込んだはずの縄梯子が上の階から下がっていた。
しかし、なぜ下りたのかなど今はどうでもいい。
青は女官に駆け寄り、抱きかかえた物を無理やり引き剥がした。
「息してないの! わ、私、ちょっと目を離しただけなのに」
「少し静かにして下さい」
要領を得ない女官を黙らせ、赤子をゆっくり地面に横たえる。
確かに息をしていない。力なく開いた口から涎が垂れている。
「どうして……」
こんなことになったのか。
「あ、青梅を食べたのかも……。毒があるんでしょ?」
空気を読まない女官が言う。
そんなもの言われなくても知っている。しかし、実際梅の毒性などたかが知れているのだ。
赤子でも死に至らしめるには百以上必要とする。
原因は梅の毒ではない。
(……“毒”でないとしたら?)
青はおもむろに赤子を座らせ、口に指を入れた。
背中を軽く二、三度叩く。
すると、赤子の口からころりと何かが転がり出た。
確かに、それは青梅であった。
「……ぅあ。あぎゃあああああああああああああぁぁぁぁ!」
直後、堰を切ったように赤子が泣きだした。
「生きてた……」
女官も、茫然としたままぼろぼろと涙を流す。
呆けたようにその光景を見守る青の隣には、いつの間にか翠麟の姿があった。
「良かったな」
そう言って青の肩を抱く。
今日に限って、何故かその手を振り払う気にはなれなかった。
***
「あお! どこだ、あお!」
「ここですよ」
厨房から戻った青は、すっかり成長して一層憎たらしくなった赤子の頭を撫でる。
今日は七日目。赤子の世話をする約束の最終日だ。
もう三歳半ほどの外見になっており、赤子と言うにはいささか大きすぎる。
そんな赤子は青が厨房で作って来た物を見るなり、あからさまに目を輝かせた。
「なんだ、それ」
「ああ、青梅の甘露煮ですよ。珪さんに持っていこうと思って」
もちろん俺にもくれるんだよな? と、口には出さないものの、大きな瞳が語っている。
青としては、その食い意地に嫌気を通り越して称賛を覚えた。
「……以前、青梅のせいで死にかけたこと覚えていますか?」
「ふぇ(え)? ふぁへは(だれが)?」
早くも口いっぱいに青梅を頬張った赤子に、青は呆れ気味に息をつき、自分も青梅を一つ齧った。
(うん、美味しい)
上出来だ。
一つくらいなら、翠麟に上げても良いかもしれない。
そんな事を思いながら、青は甘露煮の器に再び手を伸ばそうとする赤子の手をピシャリと叩くのだった。