神在月
月餅みたいだな。
狭い空に浮かんだ美しい月は、真ん丸とした餅を思い出させる。
青は窓枠に肘をつき、蛍のような淡い光がいくつも灯る宿街を見下ろした。
火照った頬を神無月の冷たい風が撫で、僅かに目を細める。
同時に滑り込んできた光の粒が、青の手の甲で跳ねて部屋の中に転がった。
(……でも月餅に合うのはやっぱり唐の玉露かな)
花より団子。
青にとっては、八百万の神が愛した風景よりも甘味の方が愛おしい。
初めのうちは物珍しくて、どうにか捕まえて練り切りの飾りにしようとしていたものだが、人間に触れると輝きを失う蛍火は食用に向かなかった。
この宿に連れて来られ、ひと月目にして色々悟った青である。
甘味好きはどんな場所でも相変わらず、私は私のままである。
それ以外に興味を示さない悪い癖も治っていない。
時代遅れの“生け贄”として、半壊した社に置き去りにされたのは約一カ月前。
災害と疫病が同時に流行った年で、町の合併のために社の取り壊しが決まった年だった。
間が悪かったのだろう。甘草を採るため都合よく街の外をうろついていて、あっさりと人狩りに捕まった若い娘は、信心深い誰かによって神前に捧げられた。
恨んではいないが、親の無い自分を育ててくれた町への恩義は帳消しだ。
出来ればこんな場所には来たくなかった。
その場で死なずに済んだのは僥倖だが、命が幾つあっても足りやしない。
不意に部屋の外から話し声が聞こえた。
ギシリと階段が鳴り、二つの足音が近づいてくる。
内容は聞きとれなかったが声を潜めている辺りどうやら内密の話らしい。
今青がいる場所は空き部屋のはずで、ほとんど人の入らない下位の棟の最果てだ。
そんな場所なので、青のように仕事を怠けたり、公に出来ない一夜の睦事の場として使われる事がある。
前者ならば共犯者として一蓮托生だが、後者ならば気まずい事この上ない上に下手したら本当の意味で首が飛ぶ。
青は調理場に返すため運ぶ途中の膳と酒瓶、すれ違いざまに妓女から頼まれて忘れ去っていた文を捜した。
はて、誰宛だっただろうか。
聞いた宛名を思い出す余裕はなく、とりあえず懐にそれをしまうと音を立てないように気をつけながら部屋を出た。
***
「……大国主神がいない、と?」
無言で頷いた従者を見、翠麟は眉間に深い皺を刻んだ。
これで今年何度目だろうか、神々の王は自分で集めた神々を放置し、花街に繰り出しているらしい。
どうしたものか、と思った。
別に王様が色好きでもそれはそれで構わない。
男色でなければ自分には関係ないことである。
だが、この忙しい神在り月に姿を消し、臣下に仕事を押し付けるのはいただけない。
埋め合わせをするのはいつも自分なのだ。
翠麟は老朽化した階段に足を掛け、手すりすら無いそれを慎重に上った。
こんな場所に客人が入り込むことも無かろう。
「まだ誰にも知られてないだろうな?」
翠麟の言葉に従者が頷きかけ、僅かに眉を顰めた。
「どうした?」
尋ねた翠麟も気付き、灯りの少ない薄暗闇に目を凝らす。
(客……、いや女官か?)
視線の先で朱染めの衣が踊り、やがて角を曲がって見えなくなった。
翠麟は首を捻り、追おうとした従者を手で制した。
この先は迷路のようになっているので、普段ここに足を踏み入れない自分たちが女官に追いつける訳があるまい。
それよりも、あの者は何をしていたのだろう。
不意に、風の流れを感じた。
一つだけ扉の開いている部屋がある。
覗きこむと、案の定窓が開いていた。
冷たい風に混じって、僅かに蒸留酒の匂いがする。
(サボっていたのか)
一体誰が、と振り返ると、後から入ってきた従者の足元に、何かが落ちているのに気付いた。
くすんだ鉱石のようなそれは、従者が拾い上げると元のように淡いオレンジ色の光を宿してふわりと宙に浮かんだ。
「光を失った蛍灯虫、か」
(なるほどな)
「聞かれたやも知れませんが」
「そこは任せておけ」
従者の言葉に、翠麟は得意げに頷く。
相手は女だ、すこし色目を使えばいい。
絹の黒髪に雪色の肌、透き通るような翡翠の瞳は神々の中でも珍しい。
傾国とさえ謳われた顔で笑みの形を作ると、真面目な従者は苦い顔をした。
最低だ、と人は言うだろう。
しかし今更改めようとは思わない。
利用出来るものは何でも利用する。
それが、“翠麟”という存在であった。
花と団子。どっちが好きですか?