リンの手紙
1
「まあ、またなの?」
ピイは新聞を読んで、ため息をついた。子供の神隠し事件が頻発しているというニュースを見つけたのだ。夏のこの時期になると、何故か起きるのだ。
「怖いわ」
ピイは新聞を机の上に置いた。
今日はシムリとのデートの日。はつかねずみの小説家であるピイは、執筆中の小説をきりのいいところまで仕上げて、出かける準備を始めていた。
まず、仕事着である茶色い無地のワンピースを脱いで、真新しい、白地に青い水玉模様のさわやかなワンピースに着替える。耳には貝殻の耳飾り。首には真珠の首飾り。靴は真っ青なサンダル。女性たちに流行っているひげの化粧は、水色だ。筆で一本一本丁寧に塗って、手でぱたぱたとあおいで乾かす。鏡台の前に座ってするその作業に、ピイはもう慣れた。もう自分におめかしは似合わないなどと、自信のないことは言わない。
鏡に向かって、笑顔の練習。一人でいるときはにっこりと完璧に笑えるのに、シムリの前だと照れて、うまく笑えない。大声も出せない。ピイは大人しい少女なのだ。
もうすぐ大人になるのに。
ピイはそんな自分に少し呆れている。
シムリが迎えに来る前にと、ピイは掃除を始めた。以前シムリがピイのために作ってくれた、れんげの模様の入った机を特に入念に。原稿と新聞を片付けて、ふきんでよく拭いて。机の横の大きな本棚もはたきではたく。鏡台の上を片付けて、鏡を拭く。床をモップでよく磨いたら、シンプルな部屋はすっかりきれいになった。
よし、完璧。
それでもまだシムリが来る時間にはならない。少し張り切って早起きしすぎたかしら、と思う。シムリとのデートの日は、いつもこうなる。
だって、楽しみで仕方がないから。
ベッドに座って目を細め、くすくす笑う。嬉しくてたまらない。シムリと会うのはいつもこんな気分になる。
そのとき、玄関の呼び鈴が鳴った。ピイははっとして立ち上がる。どきどきしながら、玄関のドアを開く。誰もいない。
変なの。
そう思って、ドアを閉じようとした。すると、下のほうから甲高い声が聞こえてきた。
「何でドアを閉じるんだよ、ピイ」
「え?」
見下ろすと、小さな小さなかやねずみの子供が立って、ピイを見上げていた。口を尖らせて、文句を言う。
「ぼくが来たんだから入れてよ。何だよ、せっかく来たのに」
「あの」
ピイは戸惑いながら子供に聞く。
「あなたは、どこの子?」
途端に子供はかんしゃくを起こして、
「ピイの馬鹿!」
と怒鳴った。
「ぼくはロンとランの息子、リン。知らないなんてひどいや」
「ごめんなさい」
ピイはしゃがんでリンを見た。枯れ草色の、小さな男の子。
「編み靴職人のロンさんの息子さんね。かやねずみさんたちの街はよく通るけど、あそこはひとが多くて混乱するの。あなたくらいの小さな子もたくさんいるしね」
「ぼくは小さくない!」
リンがまたかんしゃくを起こした。
「かやねずみが皆小さいと思って馬鹿にしてるだろう。ぼくは同い年のかやねずみの子供の中で一番背が高いんだぞ! そのうちピイのことも追い越してやるんだから」
「そうね。ごめんなさい」
慌ててそう答えたあと、ピイは首をかしげる。
「そういえば、あなた、どうして家に来たの?」
すると、リンはむっつりと黙り込んでしまった。ピイは困り果てて、リンを招き入れる。
「とにかく、中に入りなさい。外は暑いわ」
外はもうれんげの季節を通り越して、様々な青い草で生い茂っている。リンも、汗で毛を湿らせていた。
仕事部屋でもあり寝室でもあり居間でもあるピイの部屋の桜材のテーブルに、冷たいハーブティーを二人分置く。リンは高さの足りない椅子に座って、まるではつかねずみの赤ん坊のようにカップを両手に持ってごくごくと飲む。かわいいな、とピイは微笑む。
リンは辺りを見回した。
「ここがピイの仕事部屋?」
「そうよ」
「ふうん」
また勢いよくお茶を飲む。目はきょろきょろとあちこちを見ている。
「ピイってもっと立派な家に住んでると思ってた」
リンが意外そうに言うので、ピイは笑った。
「どうして?」
「だって、小説家じゃないか」
「小説家は立派な家に住むものなの?」
「そうだよ。有名な作家は大きなプールつきの家に住んでるんだよ」
ピイはくすくす笑う。
「わたしはあんまり有名じゃないもの。それに、この家が気に入ってるの」
「ふうん」
お茶は空になってしまった。ピイは新しく注いでやりながら話しかける。
「お父さんとお母さんは? 今何してるの?」
するとリンはじろりとピイをにらんだ。
「パパとママの話はしたくないな」
「どうして?」
「だって、ぼく、家出してきたんだもの」
「えっ」
ピイが目を丸くする。リンは話を続ける。
「パパもママも、赤ん坊に夢中なんだ。ぼくのことなんか気にかけてもいない。だから家出したんだ。これからはピイの家に住むんだ」
「リン、それはできないわ。今からお父さんたちに会いに行きましょう。わたし、話してあげるから」
「やだよ」
リンは椅子を飛び降りて、ピイの本棚に駆け寄った。下のほうにあるピイの書いた本を開いて、座って読み始める。ピイは困り果てていた。一体、どうすればいいのだろう。
考え込んでいると、呼び鈴が鳴った。ピイがはっとして歩き出したが、リンも本を置いて立ち上がる。
「ぼく、出るよ。これからはここの住人だもの」
駆け寄って、うんと背を伸ばして、ドアノブを回す。そこには黒ねずみのシムリが立っていた。まじまじと、リンを見つめている。
「リン?」
「シムリ!」
リンはシムリに飛びついた。シムリはにっこり笑ってリンを抱き上げると、ピイの元に歩いてきた。ピイは少し困った顔だ。
「どうしてリンが?」
「家出してきたらしいの」
「ぼく、ここに住むんだ」
リンが元気よく言うと、シムリも驚いた顔をした。
「そうなの?」
「そうだよ!」
ピイが答える前にリンが口を挟む。シムリはちょっと考える顔をして、すぐに事情がわかったらしく、ピイにウインクをした。
「仕方ない。リン、ぼくのピイなんだから迷惑かけるんじゃないよ」
「ピイはシムリのものなの?」
リンが無邪気に訊くので、ピイは顔を熱くした。答えないピイを見て、リンは、
「ふうん」
と口を尖らせる。
「でもこれからはぼくのピイだよ。シムリは遊びに来るだけで、ぼくはピイと住むんだから」
ははは、とシムリが笑う。
「取られちゃったわけか。わかった。でも大事にするんだよ」
「うん」
リンはうなずいて、シムリの腕から降りて、また本を読み始めた。シムリがテーブルについて、ピイにひそひそと内緒話をする。
「君はリンの相手をしていて。ぼくはロンとランを呼んでくる。君のこと、ずいぶん気に入ってるみたいだから逃げ出したりはしないよ」
しかし、ピイは少し自信がなかった。ピイは子供の相手をすることに慣れていないのだ。
「シムリ、シムリが家にいて。わたし、ロンさんたちを呼んでくるから」
「そう?」
シムリは首をかしげると、うなずいて、
「わかった」
と言った。
「行っておいで。きっとロンたちも探してるよ」
2
ピイは赤い屋根の家を出ると、青々とした草の森を少し早足で歩いた。森にはちゃんとねずみ用の細い道があって、石畳が敷いてある。
シムリは子供あしらいが上手いのね。それどころか、どんな人にもすぐににっこり笑いかけられる。
ピイは歩きながら考え事をしていた。
それに比べてわたしは駄目。リンが少し無茶を言うだけでおろおろしてしまうし、人見知りをするわ。
ため息。
わたし、早くちゃんとした大人になりたいわ。だからこの事態もちゃんと決着をつけなきゃ。
どこを行っても背の高い草ばかり。春と違って風景が全く変わらないので、かやねずみの街が遠く感じられる。サンダルがかつかつ鳴る音、虫の鳴き声。昼なので、暑さがひどい。
ようやく道に沿って家々が立ち並ぶ街に着き、ピイはほっとした。大きなバッタやカマキリに会ったりしたらどうしようかと不安だったのだ。しかし暑さのためか、街には人気がなく、ピイは一人ぼっちのような気がする。
「あれ? ピイちゃん?」
喫茶店の窓から店主が覗いて、声をかけてきた。茶色くて大きなねずみだ。
「どうしたの? 今日はシムリとデートなんじゃなかったの?」
「どうしてそれを?」
ピイはびっくりして思わずそう訊いてしまった。店主は白いエプロンで手を拭きながら外に出てくる。
「シムリが自慢してたからさ。ずいぶん楽しみにしてたんだよ」
「そうなんですか」
ピイは嬉しくなる。しかし、リンのことを思い出してまた使命感に追われる気分になる。
「実はかやねずみのリンが家出したらしいんです。リンはうちにいるんですけど、わたしたち、それどころじゃなくって」
「そりゃあ災難だねえ」
店主は気の毒そうな顔をする。ピイは首を振る。
「そんなことありません。わたし、早くロンさんたちにリンのことを教えなきゃ」
「そうかい。終わったらデートしてあげるんだよ」
「ええ」
ピイは上の空で笑って歩いていった。店主がしばらくピイの背中を見ている気配がしたが、ピイはそれどころではない。早く行かなければ。
通りが終わると、やっとかやねずみの街にたどり着いた。ピイの通ってきたところよりもよほど背の高い草の途中に、わらや布やリボンや、様々なもので編んだ家が絡み付いている。かやねずみたちは伝統的な暮らしを捨てず、このような昔ながらの家に住んでいるのだ。
その中から、ロンの家を見つけ出す。純粋にわらと草の葉でできた素朴な家だ。ピイは下から声をかけた。
「ロンさん、ランさん、いらっしゃいますか?」
どこからかひとの気配がするのだが、ピイの声が小さいのか届かない。
「ロンさん」
一際大きな声を出す。すると隣の家からかやねずみの一人が顔を出した。
「おや、ピイちゃん。何してるの?」
知っている顔だ。ピイは手を目の上にかざして日よけにして、大声で答えた。
「ロンさんたちに会いたくて」
「ロンたちなら子供を探しに行ったよ。リンが家出したんだってさ。かやねずみたちが総出で探してるんだけど、見つからないんで困ってるんだよ。おれはリンが帰ってこないか番をしてるんだ」
ピイはほっとしてこわばった声がほぐれてきた。
「リンはうちにいますよ」
「何だって?」
「何故だかわからないんですけど、うちに住むって言い出したんです。ロンさんや他のかやねずみさんたちに教えてあげてください。そして、リンを迎えに行ってあげるように伝えてください」
「ふうん。リンがねえ」
かやねずみはぽりぽりと頬を掻いた。それからちょっと笑って、
「あいつ、ピイさんが大好きだからねえ」
と言った。
「わたしを?」
「あんまり言ったらリンに叱られるから黙っとくよ。わかった。ロンたちに伝えておくから」
「ありがとうございます」
ピイは首をかしげながらそう声を上げて、道を戻っていった。ピイは役目を果たせたことと、大きな声を思い切って出せたことに満足していた。
草むらの街に入る。歩いていると、早速喫茶店の店主が顔を出した。
「子供の親は見つかった?」
「いいえ。でも他のひとに伝言を託したから、すぐに迎えに来てくれるはずです」
「迎えに来るまでどうするの」
店主が目を丸くするので、ピイも同じ顔になる。
「うちで預かります。シムリと二人でお世話をするから大丈夫ですよ」
「そう?」
店主は口を尖らせてピイを見た。ピイはそれを不思議に思いながら挨拶をして、また長い道のりを帰っていった。
「おかえり、ピイ」
赤いドアを開けて、最初にピイを抱きしめたのは、リンだった。シムリはにこにことそれを見守っている。
「どこに行ってたの? ぼくシムリと二人で退屈してたんだよ」
「ひどいなあ」
シムリが笑う。
「一緒に遊んだじゃないか。トランプで塔を作ったり、ピイの本を読んだりさ」
「シムリじゃやだ。ピイがいいんだ」
ピイは優しく笑って、リンの頭をなでる。
「ごめんね。うちは遊ぶものがないものね」
「そうじゃない。ピイのうちにわざわざ来たんだよ。ピイと遊びたいに決まってるじゃないか」
リンがむっとした顔になる。ピイは困ったように首をかしげた。
「じゃあ、わたしと何かする?」
「うん」
「何がいい?」
「何でもいい」
その答えにピイは悩みこんで、シムリを見た。シムリは機嫌よく笑っていて、
「君が子供のころやっていた遊びをすればいいじゃないか」
と言う。そこでピイは思い出した。しゃがんでリンに語りかける。
「わたしが子供のころはね、一人遊びが多くて、いつもお手紙を書いてたの」
「誰に?」
リンが不思議そうな顔をする。
「想像上の人に。あるいは両親に。普段恥ずかしくて言えないようなことを、出さない手紙に書くのよ」
「面白い?」
「わたしは面白かったけど」
ピイは自信なさげに笑う。しかし、リンは、
「やる」
と真面目な顔で甲高い声を上げた。
様々な色の封筒と便箋を、ピイは書き物机から取り出した。シムリが興味津々にその様子を見る。
テーブルは背が高すぎるので、リンのために床に小さな新しい絨毯を敷く。夏らしい青い絨毯の上に、すぐにリンは飛び乗り、ピイが差し出した便箋と万年筆を受け取ると、何かをかりかりと書き始めた。その間、ピイとシムリはテーブルに向かい合ってついて、お茶を飲むことにする。
「ロンたちはどうだった?」
シムリがひそひそと聞く。
「リンを探しに出ているらしいの。伝言したからすぐに迎えに来てくれるわ」
ピイも同じように答える。
「そうか。よかった」
「ロンたちが気の毒だものね」
「それもあるけどさ、ぼくとしては」
「ピイ! できたよ」
シムリの言葉はリンがかき消してしまった。ピイは立ち上がり、リンのところに手紙を見に行く。
「『遠くの街のチーズ・レストランのオーナーさんへ。ぼくに立派な穴あきチーズをください』ですって? 遠くの街のチーズ・レストランって、何ていう店なの?」
「『ボン・シェール』ってレストランだよ。ぼく、そこのチーズをひとかけ食べたことがあるんだ。すごくおいしいんだよ」
「リンは物知りね」
「いつかね、ピイをその店に連れて行ってあげる。きっと満足するからさ」
「ありがとう」
ピイはリンを抱いてひざに乗せた。リンはピイの胸に抱きついて、
「ピイ、いい匂いがする。ぼく、だーい好きだよ」
「本当? 嬉しいわ」
「一緒に住んだらね、ぼく何でもする。料理も洗濯もするよ」
ピイは困り顔でシムリに微笑みかけた。すると驚いたことに、シムリが真顔で、
「リン、それはできないよ。リンは家に帰るんだから」
と言い放った。ピイが驚いていると、リンがピイにますます抱きついてきた。
「そんなこと言っても、ぼくはここにいるもんね」
「ピイはさっき、君の両親を呼びに行ったんだよ」
リンが顔を上げてピイを見る。信じられないものを見るような目。ピイはいたたまれなくて顔をそらした。
「ピイ、嘘だよね」
リンがすがるようにピイを見る。ピイは、どうしてシムリはこんなことを言い出したのだろう、と泣きたくなる。いつものシムリならこんなことを言わないのに。
「嘘だよね」
そのとき、玄関の呼び鈴がちりちりと鳴った。
3
「ぼくが出てくる」
相変わらず真面目な顔をしたまま、シムリは椅子から降りて玄関に向かった。ドアが開き、小柄な枯れ草色のかやねずみ夫婦がすぐに飛び込んできた。ロンとランだ。ロンが赤ん坊を抱いている。
「リン!」
ランが駆け寄ってきて、ピイのひざから降りたリンを抱きしめる。ピイはほっとしたのと後ろめたいのとがないまぜになった気分でそれを見ていた。リンはしょんぼりしている。
「ピイちゃん、ありがとうね。リンのこと世話してくれて」
「本当に」
ロンがピイの手を握って何度も振る。ランがリンに説教をする。
「ピイちゃんにご迷惑をかけて。謝りなさい」
リンは床を見てだらりと立ったままだ。ピイは、いいんです、と言いかけた。そのときだ。
「ピイの馬鹿! シムリの馬鹿! パパとママの馬鹿! ぼく、皆大っ嫌いだ!」
そう叫んだかと思うと、リンは風のように駆け出して、玄関のドアから出て行ってしまった。
「リン!」
ランが叫び、飛び出す。それに付いていくロン。ピイも玄関を出て、辺りを見回した。石畳の道は長く続いているはずなのに、ロンとランが立ち尽くしているばかりで何も見えない。おそらく草むらに入ってしまったのだろう。
シムリが出てきて、ピイの横に立った。唇を噛んでいる。
「ぼくのせいだ」
「そうよ」
ピイはシムリをにらみつけた。
「どうしてあんなことを言ったの? リンが傷つくのは目に見えてるじゃない」
シムリがうなだれてピイを見る。
「ぼくは早くリンに帰ってほしいなって思って」
「どうして? リンの世話をするのが嫌だったの?」
「どうしてって」
シムリはそのまま黙り込んだ。それを見て、ピイは思わずこう怒鳴ってしまった。
「シムリはわがままよ。自分勝手よ」
シムリが困った顔をする。
「自分勝手かもしれないけど」
「けど、何よ」
「いや、言わない。とにかく、リンを探そう。ロンたちはもういなくなってる」
ピイははっとして家の前を見た。もう、人気がない。
「別れて探しましょ。わたし、シムリと一緒は嫌」
そうつぶやいて草むらに入り込む。シムリはため息をついて、反対側の草むらに入った。
歩いていると、背の低い草がサンダルに引っかかる。はき替えればよかったと思いながら道なき道を行く。がさがさと、何かの気配。虫だろうか。ぞっとする。それに、ひどく暑い。ときどきめまいがする。
しばらくして、音楽がかすかに聞こえてきた。トランペットの音。陽気な曲だ。ピイは、何だろう、と思いながら歩いていく。
突然、草むらを出た。目の前には、草の生えていない広場があった。そこにあったもの。それはとても奇妙なものだった。
様々な派手な色で彩られた縦じまの大きなテント。入り口で、同じ模様の服を着たはつかねずみがへんてこな踊りを踊っている。両目の周りをピンク色の染料でハート型に染め、ひげは虹色に塗っている。この怪しいねずみは、トランペットを吹いて、誰かに誘いかけていた。ピイに? いや、リンだ。
リンは、ふらふらとテントに近づこうとしていた。近づくほどに、怪しげなねずみは踊りを激しくする。まるでとても嬉しいかのように。
テントの中が見える。真っ暗だ。ピイにはそれが口に見える。大きな化け物の口。
リンがねずみに近づく。ねずみは踊りながら、トランペットを高く鳴らす。にやりにやりと笑っている。テントの中から、不穏な空気が漂ってくる。
リン、行っちゃ駄目。
ピイは、自分が叫んだような気がした。リンが振り向いて、ピイ、と声を出している。
途端に、テントとねずみは、すっと消えた。
「ピイ、大丈夫?」
ピイが目覚めると、そこはピイの家だった。シムリが上から覗き込んでいる。柔らかい。ベッドの上らしい。額が冷たい。触れると、濡れた手ぬぐいが載っていた。
「シムリ?」
「ああ、よかった」
シムリが大きくため息をつく。
「君、草むらで倒れてたんだよ。医者に見てもらったけど、軽い熱中症だってさ。今日は外に出ずっぱりだったからね」
「わたし、気絶してたの?」
「うん。ごめんね。ロンたちのところには、やっぱりぼくが行くべきだった」
シムリの心配そうな顔を見てほっとしたけれど、ロン、と聞いて、さっきの出来事を思い出してしまった。だるい体を起こそうとして、駄目だよ、とシムリにとめられる。
「リンは?」
「リン? ランが見つけて、家に帰って行ったよ」
「本当に?」
だって、と言いかけて黙った。陽気な音楽、派手なテント、奇妙なはつかねずみ。ピイはぞっとして身を震わせた。
「どうしたの?」
シムリが心配そうにピイの顔を見る。ピイは強い口調でシムリに訊く。
「本当に、リンは帰ったのね?」
「本当だよ。冗談だったら大変だ」
シムリが少し笑う。それを見て、ピイもまた笑った。
「よかった」
力が抜ける。きっと、あれは夢だったのだ。
「ねえ、ピイ。リンが帰ったから、リンの『出さない手紙』、片付けたんだ。そしたら色々見つかったよ。読んでみる?」
シムリが封筒の束を取り出して、にっこりと笑った。
4
『パパとママへ。大好きです。でも、最近ぼくと全然遊んでくれないよね。赤ちゃんはぼくの大事な弟だってわかっているけど、寂しいです。だから、もっとぼくに大好きだって言ってほしい。抱きしめてほしい。それだけが今の願い』
この手紙を、ピイとシムリはこっそりと、ロンとランに見せた。二人は、後悔したかのようにため息をついてそれを読んだ。
「こんなことを思ってたのね。かわいそうなことをしたわ」
ランが赤ん坊を抱いたままつぶやいた。
「この子が生まれて忙しかったからなあ。これからはもっと遊んでやらなけりゃあ」
ロンは腕を組んで、離れたところで草の茎を上り下りして友達と遊ぶリンを眺めた。
「手紙は絶対にリンに見せないで。またリンに嫌われちゃう」
シムリが言うと、二人はこっそり声を出して笑った。
「大事に取っておくよ。これはおれたち夫婦の宝物だ」
と、ロン。
「ピイちゃん、こんなもの書かせてくれて、ありがとうね」
と、ラン。
ピイとシムリは笑って顔を見合わせた。
草むらの街を歩いていると、喫茶店の店主が窓から顔を出した。
「デート?」
「いきなり、それ?」
シムリが声を出して笑う。ピイは恥ずかしさでうつむいている。
「いやさ、この間さ」
「いいんだよ。今日はデートできてるんだから」
店主はほっとしたように笑う。
「ならよかった」
「リンのお陰なんだ。この間のかやねずみの子」
「何で?」
店主は不思議そうな顔をする。
「手紙をもらったんだよ」
「手紙?」
『ピイとシムリへ。シムリ、やきもちをやかせてごめんね。ぼくはピイにべたべたしすぎたかもしれない。早く帰らないかなって思ってただろう? ぼくはピイのうちに住むけど、それはピイがぼくの尊敬する小説家だからなんだ。ぼくは将来小説家になりたくて、弟子入りしに来たんだよ。シムリがグイルさんに弟子入りしてるみたいにね。ぼくは手紙が上手だろう? 文章を書くのは得意なんだ。というわけで、心配しないでほしい。ぼくはシムリからピイを取ったりしないよ。ピイへ。ぼくはピイが大好きだよ。いい匂いがして、優しくて、素敵な小説を書いて。尊敬しています。これからしばらく住むことになるけど、そのときは厳しく指導してほしいな。ぼくはピイみたいな立派な小説家になるんだから』
「全く、これにはやられたね」
シムリが笑う。ここはピイの家だ。二人は冷たいお茶を飲んでいる。
「わたしも驚いたわ。シムリ、やきもちをやいてたの?」
ピイが上目遣いにシムリを見る。シムリが頭をがりがりと掻く。
「だってあいつ、あんまり図々しいから。ぼくのピイだって念を押してるのに、ピイのことを大好きだって言ったり、抱きついたり。デートだっておじゃんだしさ」
ピイは顔を熱くして、嬉しいけれど恥ずかしい、複雑な気持ちになる。
「でもリンは子供よ。大人気ないわよ、シムリ」
「大人気なくったっていいさ。ぼくは君が大好きなんだから」
また、あっけらかんとこんなことを口にする。ピイは思わず顔をほころばせてしまう。そのとき、シムリが思い出したようにこんなことを言った。
「でも君、この間はぼくに怒鳴ったね」
「ごめんなさい。言い過ぎたわ」
ピイは申し訳なくなってすぐに謝った。シムリが首を振る。
「いや、嬉しくてさ」
「嬉しい?」
「君がぼくに感情をむき出しにしてぶつかってくれた。それってすごく嬉しいよ」
「そんなことが?」
「それに、君はすごく責任感が強い。驚いたよ。君って、ぼくよりよっぽど大人だ」
「そんなこと、ないわ」
ピイは照れ笑いをした。シムリはにっこりと笑う。そしてこんなことを言う。
「大好きだよ、ピイ」
ピイは顔がまた熱くなった。いつもなら、どうしていいかわからないけれど、今ならわかる。
ピイは、満面の笑みで応えた。
シムリが帰ってしまった夕方、玄関の呼び鈴が鳴った。シムリが戻ってきたのだろうか。そう思ってドアを開けると、そこにはリンがいた。にっこりと笑っている。
「まあ、リン。もう夕方よ。早く帰りなさい」
「帰るよ。ぼく、ちょっとお礼を言いに来たんだから」
「お礼?」
リンの顔がこわばった。
「あの怖いねずみからぼくを助けてくれたお礼」
ピイは背筋が粟立つのを覚えた。あれは、夢ではなかったのか?
「あいつはね、ぼくに言ったんだ。大人たちの裏切りのない、子供だけの世界に連れていくって。そこには苦しみなんてないし、ぼくは何でも思い通りにできるって」
「本当?」
「本当だよ」
ピイの耳に、あのトランペットの音が聞こえてくる。それは耳の奥にからみつくようで、忘れたくても忘れられないものだった。
「でも、ピイが呼んでくれたからぼくはわれに返った。そんな世界、ありえないって気づいた。だからあいつはテントを消して、ぼくみたいな子供をまた探しに行ったんだよ」
ピイは呆然としていた。夢? リンとピイは同じ夢を見ていたのか? いや、この感覚は違う。本物だ。
「ピイ、小説に書いてよ。お願いだ。子供たちを助けてよ」
ピイはリンを見た。真剣な目。
「わかったわ。次の小説に書く。子供たちへの警告として、書くわ」
「ありがとう」
リンは笑った。ピイはリンを抱きしめて、
「送って帰るわ。またあんなものに出会ったら大変だから」
と言った。リンは嬉しそうにうなずく。
「ピイと二人きり、嬉しいな」
ピイがあの出来事を小説に書いて発表して間もなく、子供の誘拐魔は逮捕された。犯人は有名な天才手品師だという。催眠術も得意で、それによって子供たちに幻を見せ、捕まえ、遠くの鉱山に売っていた。その子供たちは皆助かったのだという。
犯人が捕まったのは、「小説で似た話を読んだから」怪しさに気づいた子供が警察に知らせたことが元だという。その小説がピイの小説だとは、誰も気づいていない。そう、リンとピイ以外は。
ピイはほっとした思いで新聞を読んだ。そして、小説を書いていてよかったと、強く思った。
シムリにも教えようかしら。
そう思ったけれど、考え直した。
いいえ、こういうことは胸のうちにしまっておくべきだわ。
リンとピイだけの秘密。それで充分だ。
ピイは新しい小説に取り掛かろうとした。引き出しの中の原稿をまとめて取り出そうとして、変な感覚に気づいた。何か固いものがある。
さぐって取り出すと、それはピンク色の封筒だった。
「何かしら?」
便箋を取り出す。開くと、見覚えのある字でこんなことが書いてあった。
『ピイへ。本当は大好きです。愛してます。結婚してください。リン』
ピイは微笑んだ。手紙をそっと元に戻して別の引き出しにしまう。これも、シムリには絶対に教えられないわ。
《了》