最後の訪問者
その依頼は、妙に具体的だった。
「私の家に、誰かが入っています」
電話口の女は、落ち着いた声で言った。
「でも、盗まれた物はありません。壊された物もない。鍵も閉まっています。ただ──」
少し間があった。
「家具の位置が、変わっているんです」
私はメモを取る手を止めた。
「警察には?」
「相談しました。でも被害がないので、気のせいではないかと」
なるほど。
私は言った。
「現場を見ましょう」
住所を聞く。
都内の古い住宅地。
二階建ての一軒家。
翌日、私はその家を訪ねた。
依頼人は三十代半ばほどの女性だった。
やつれた印象はない。
むしろ理知的で整った顔立ち。
「来ていただいてありがとうございます」
室内に通される。
きれいに片付いている。
物は少ない。
几帳面な性格が見える。
「どのように変わっているのですか」
彼女はリビングを示した。
「昨日は、ソファが窓側でした」
今は壁側にある。
「テーブルも、向きが違います」
確かに回転している。
「最初は自分が動かしたのかと思いました。でも──」
彼女はキッチンを指す。
「食器棚の中も変わっているんです」
開ける。
皿が整然と並んでいる。
「どこが?」
「私、同じ種類ごとに重ねます。でも今は、大きさ順です」
几帳面な人ほど気づく違和感だ。
「侵入の痕跡は?」
「ありません。窓も鍵も」
私は家を一通り見た。
玄関。
寝室。
浴室。
どこも整っている。
ただし。
妙に「整いすぎて」いる。
生活の揺らぎがない。
私は尋ねた。
「同居人は?」
「いません。一人暮らしです」
「恋人は?」
「いません」
「合鍵を持つ人は?」
「いません」
私はリビングに戻る。
ソファを見る。
床にわずかな擦れ跡。
確かに動いている。
でも。
力任せに動かした跡ではない。
静かに、慎重に移動した痕。
私は言った。
「侵入者は、荒らしていません。むしろ整えています」
彼女は小さくうなずく。
「ええ。まるで……」
「住んでいるかのように」
彼女は顔を上げた。
「そうなんです」
沈黙。
私は窓を見る。
外からの侵入は難しい。
玄関も同様。
私は言った。
「この家に、もう一人いる可能性があります」
彼女は苦く笑った。
「幽霊ですか?」
「いいえ」
私は言う。
「あなた以外の“住人”です」
彼女の表情が固まる。
「どういう意味ですか」
私はゆっくり言った。
「この家には、あなたが知らない生活がある」
彼女は首を振る。
「そんなはずない。私はずっと一人で」
私は遮った。
「昨夜は何時に寝ました」
「一時ごろ」
「今朝起きたのは」
「七時」
「その間、あなたの記憶は連続していますか」
沈黙。
彼女の呼吸が浅くなる。
「……寝ました。普通に」
「確信できますか」
彼女は答えない。
私は続ける。
「家具は、夜の間に動いている」
「だから侵入者が」
「鍵は閉まっている」
沈黙。
私は静かに言った。
「侵入者は、外から来ていません」
彼女の目が揺れる。
「ではどこから」
私は言う。
「ここから」
彼女の胸を指した。
彼女は後ずさる。
「……私が?」
「もう一人のあなたが」
部屋が静まる。
私は続ける。
「この家には、二つの生活があります」
「一つは、あなたが覚えている生活」
「もう一つは、あなたが覚えていない生活」
彼女は首を振る。
「そんな……」
「家具を整える人は、几帳面です」
私は食器棚を見る。
「あなたよりも」
彼女の顔が青ざめる。
「つまり、夜のあなたは別人です」
「解離性の状態。もう一つの人格」
彼女の唇が震える。
「……私が、動かしている?」
「ええ」
私は静かに言う。
「もう一人の住人は、あなたです」
長い沈黙。
時計の音。
彼女は椅子に座り込む。
「……気づかなかった」
「多くの場合、本人は覚えていません」
彼女は部屋を見回す。
整った空間。
「じゃあ……侵入者はいない」
「はい」
私は言う。
「この家にいるのは、あなた一人です」
彼女は深く息を吐く。
肩の力が抜ける。
「よかった……」
私はうなずく。
「危険性は低い。ただし治療は」
そのとき。
背後で音がした。
カチャ。
私は振り返る。
寝室のドアが、ゆっくり閉まった。
彼女も見る。
「……今、閉まりました?」
「ええ」
私は立ち上がる。
寝室へ向かう。
ドアを開ける。
中は空。
ベッド。
クローゼット。
窓。
誰もいない。
私は床を見る。
足跡はない。
彼女が言う。
「……風?」
窓は閉まっている。
私は黙る。
リビングに戻る。
テーブルを見る。
ペン立てがある。
さっきは机の右端だった。
今は左端。
私は止まる。
彼女も気づく。
「……動いてます」
沈黙。
私は言った。
「……もう一つ可能性があります」
彼女の声が震える。
「何ですか」
私はゆっくり言う。
「もう一人の住人は、あなたではない」
空気が凍る。
「では……誰が」
私は家全体を見る。
整いすぎた空間。
生活の揺らぎの欠如。
そして。
私が最初から感じていた違和感。
私は言う。
「あなたが知らない生活があると言いましたね」
「ええ」
「それは訂正します」
彼女を見る。
「この家にある生活は、一つだけです」
彼女が瞬きをする。
「……?」
私は静かに言う。
「それは、あなたの生活ではない」
沈黙。
彼女の顔から血の気が引く。
「……どういう」
私は部屋を指す。
「この家は、誰かに整えられている」
「あなたではない誰かに」
彼女は震える。
「侵入者……?」
私は首を振る。
「違う」
ゆっくり言う。
「住人です」
彼女の瞳が見開く。
「あなたは──」
私は止めを刺す。
「この家に住んでいない」
世界が止まる。
彼女の呼吸が消える。
「……え?」
私は静かに言う。
「あなたの生活痕は、どこにもない」
「衣類の摩耗。使用頻度の偏り。匂い。癖」
「すべて一致しない」
彼女は首を振る。
「でも私はここで暮らして」
「暮らしていません」
私は言う。
「あなたは訪問者です」
彼女の目に涙が浮かぶ。
「そんな……ここは私の家」
私はゆっくり言う。
「では証明してください」
彼女は凍る。
「あなたの歯ブラシはどれですか」
沈黙。
浴室を見に行く。
歯ブラシが二本。
どちらも新品同様。
彼女は指させない。
「パジャマはどこですか」
クローゼット。
衣類はすべて同じサイズ、同じ畳み方。
タグ付きの物もある。
彼女は言葉を失う。
「あなたの“使用された物”が、一つもない」
彼女は崩れる。
「じゃあ……誰が」
私は言う。
「この家の住人です」
沈黙。
そのとき。
玄関の方で鍵の音がした。
カチャ。
私たちは振り向く。
ドアが開く。
男が入ってくる。
スーツ姿。
鍵を閉める。
靴を脱ぐ。
そしてリビングの私たちを見る。
怪訝な顔。
「……誰ですか」
女が凍る。
男は言う。
「人の家に」
沈黙。
私は静かに名刺を出す。
「探偵です」
男の眉が上がる。
「探偵?」
私は女を見る。
彼女は青ざめている。
私は言う。
「依頼はこの方から」
男は女を見る。
「……知りません」
女の唇が震える。
「ここ……私の家……」
男は即答する。
「違います」
静寂。
「ここは、私の家です」
女が崩れ落ちる。
私は理解する。
最初からの違和感を。
この家には確かに住人がいた。
整え続ける住人が。
そして女は。
侵入者だった。
彼女は呟く。
「……私、どこに住んでるの」
私は答えない。
誰も答えることはできない。
ただ一つ確かなのは、
この家の家具は、
正しい住人によって、
正しい位置に戻され続けていたということだけだ。




