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短編集

もう離さない・・・目覚めたあなたへ

作者:
掲載日:2025/11/29

 病室のドアを開ける瞬間、いつも胸の奥がきりきり痛む。

廊下の蛍光灯がチカチカしていて、その白い光がやけに冷たく見える。

ドアノブに触れた指先は、今日も震えていた。

今日こそ何かが変わってほしいって願うくせに、頭の中では最悪な光景ばかり並べてしまう。

病室に入る一歩目がどうしても重い。


 5年と少し。

ほぼ毎日続けている「面会」という名前の、ほとんど祈りみたいな日課。

最初の頃は、消毒液の匂いを嗅ぐだけで吐きそうになってたのに、今はもう鼻が麻痺して何も感じなくなった。

人間って、どんな地獄にも慣れるんだなって、ここに来るたびに思う。


 ドアを閉めて、小さく息を吐く。

モニターの電子音が一定のリズムで鳴っていて、それがこの部屋の時計みたいだった。

ベッドの横の椅子に腰を下ろす。

いつもの位置。

栞が右手で私の髪をくしゃっと撫でてくれたとき、一番近くにいられる場所。

気づけば、ここが私の定位置になっていた。


「……おはよう」


 今日も、いつも通り声をかける。返事はないけど、それでいい。

返事がなくても、私は毎日話しかけるって決めたから。

それをやめたら、全部終わっちゃう気がするから。


 窓の外にふと目をやる。

カーテンの隙間から、どんより曇った空が見えた。

そういえば、もう冬だったんだなって気づいた。


 5年前の事故の日も、こんな空だった。

あのとき、私はあなたの手を握れなかった。

救急車の中で、意識を失っていくあなたを、ただ見ていることしかできなかった。

涙でぐちゃぐちゃになりながら名前を呼ぶ私に、栞は震える声で言った。


「綾、怖いよ……死にたくない。綾と……一緒にいたい……」


 その声が、今でも耳の奥でずっと鳴ってる。

時間が経っても薄まるどころか、むしろ鮮明になっていく。

ごめんね。あのとき、もっと強く握ればよかった。

「離さない」って、ちゃんと言えばよかった。

そうしてたら、あなたをこんな目に遭わせずに済んだのかもしれないって。

考えても仕方ないって分かってるのに、頭の中ではそのことばっかり浮かんできていた。


 私は指先で、あなたの頬をそっとなぞる。

ほんの少し、痩せた気がするけど、肌の柔らかさは変わっていない。

5年前にキスした場所。

ここに唇を押し当てると、あなたはいつも「くすぐったい」って笑ってくれた。

あの笑い声が、喉の奥に刺さったまま抜けない。


 私のほほから涙が一粒、栞のおでこに落ちた。

そういえば、なんだか今日は何かが違う気がする。

そうだ、手のひらに伝わる体温が、いつもより少しだけ高い気がする。


「……ねぇ」 震える声で、そっと呼びかける。


「今日も来たよ。昨日、私が言った続き、覚えてる? 目覚めたらさ、絶対一緒に温泉行こうって、約束したよね」


 口に出した瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。

こんな約束、普通なら成り立たないって分かってるんだけど。

それでも、約束しないと、未来のことを言わないと、壊れちゃいそうなの。


 それでもできるだけ涙がこぼれそうになるのを、必死に堪える。

最初に見せるのが泣いたブスな顔を見せるのが嫌だったし。

栞が目を覚ましたとき、一番最初に見せたいのは笑顔を見せたいって思うじゃん。

いつも通りの私で「遅いんだよ、お寝坊さん」って強がってさ。

全然強くないのにね。


 でも、ダメだった。

涙が自然と溢れてしまう。

こんなに彼女を泣かす栞が悪いんだよ。


「寒いよね。もうすぐクリスマスだよ。あのときみたいに、ツリー飾りたいな……」


 あの時は、一緒に買い物して、どっちのオーナメントがダサいかで笑ったクリスマスでさぁ。

キラキラ光るツリーの前で、少しだけ背伸びしてキスしたんだっけ。

周囲の目がある中でよくやったよね。

それが、今は病室の白い壁越しに見える遠い夢みたいに感じる。

ふと絡めていたあなたの指が、ほんの少し動いた気がして、胸がドキッとした。


……え?

一瞬、頭の中が真っ白になる。

幻覚だ。

きっとそう。


 だって5年間、一度だって動いたことなんてない。

何度も「動いた気がした」って思ったけど。

そのたびに医者にも看護師さんにも「変化はありませんよ」と優しく首を振られてきた。

でも今確かに、今だけは違った。

栞の指が、弱々しく、でもはっきりと、私の指をぎゅっと締めつけた。

息が止まる。 視界がぐにゃっと歪む。 心臓の鼓動が、耳の中で爆音みたいに響く。


「……嘘」

掠れた声が、勝手に口からこぼれた。


「嘘でしょ……?」

まつげが震えた。

信じたくないのに、期待が一気に膨らんで、怖くなる。


 ゆっくりと、ゆっくりと。

5年ぶりに、栞の瞳が開いていく。

乾いたまぶたの隙間から現れたのは、焦点の定まらない、けれど確かに生きている深い緑の瞳だった。

その瞳が、少し手間取るみたいに揺れながら、最後にはまっすぐ私をとらえる。


「…………綾?」


 掠れた、小さな、小さな声。

それでも、私には世界で一番大きな音に聞こえた。

その瞬間、音を失っていた世界に、一気に色と音が戻ってきた。

モニターの電子音も、廊下の足音も、遠くのナースコールも、全部が「生きてる」って主張してるみたいに響く。


 私は崩れ落ちるようにベッドにすがりついて、栞の身体に抱きついた。

5年分溜め込んでいた涙が、堰を切ったみたいに止まらなくなる。


「栞……ばかぁ。お寝坊助さんだよ、本当に……!」


 喉が締めつけられて、うまく言葉にならない。

嗚咽でぐちゃぐちゃになった声を、栞はぼんやりした目で、それでもちゃんと私のものだと分かるみたいに見つめていた。


「もう離さない。絶対に離さないから……!」


 震える腕でそう叫ぶ私の背中に、今度ははっきりと、栞の腕が回された。

その腕の温もりが、私に安心感を与えて、心の中にずっと抱えていた不安が少しずつ溶けていくのを感じた。

力は当然だけど、弱かった。

全然頼りないけど、そのぬくもりは、私の全部だった。


「……ごめん、待たせて」


 掠れた声で、栞が言う。

5年間眠っていた喉から搾り出すみたいなその一言に、また胸が痛くなってしまう。

私は首を横に振った。 何度も、何度も。


「いいから……いいから。 ただ、帰ってきてくれて、それだけでいいから……最高のクリスマスプレゼントだよ」


 涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔なんて、本当は見せたくなかった。

でも、もうどうでもよかった。


 だって、やっと。

やっと栞が、私のところに帰ってきてくれたんだから。

病室に、5年ぶりの「今ここにいる」っていう温もりが満ちていく。

外は相変わらず冬の寒空だけど、私の世界だけが、暖かい春になった感じがした。


 これから先、どれだけ時間がかかってもいい。

リハビリがつらくても、記憶が曖昧でも、泣きたくなる夜が何度来ても、

私はもう、二度と栞を手放さない。

約束だよ。

今度こそ、ちゃんと。


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