ブラン、おみつを揶揄(からか)う
向こうでは、お日様に当たるのがこんなにいいものだなんて、知りませんでしたわ。
こちらと向こうでは、お日様が違っているのかしら。
私がお庭の特等席で花とくつろいでいると、そっと物陰から覗いている影をみつけたわ。
――おみつ。
あの子は私のことをどういうわけか「猫様」と呼ぶの。
正直、そこまで畏まられると落ち着かないけれど、この反応はこれで面白いわ。
「ね、ね、猫様……! 今日も、お元気そうで……!」
震え声である。
私、別に何もしていないのだけれど。尻尾をくるりと巻き、優雅に顎を上げてみせる。
「にゃぁ(触れてもよろしくてよ)」
「ひっ……!? こ、これは……よろしいのですか……!? 私などが……!」
おみつは花より年上なのに、どうしてこうも挙動が面白いのだろう。
そろそろ楽にしてあげようかと思って、私はすっと額を差し出した。
「ね、ね、ね、猫様……! ふ、触れさせていただきます……!」
おみつの手が震えながら、そっと私の額に触れる。
その瞬間、彼女の目に涙が浮かんだ。
「し、幸せすぎて……今日もう、働けません……」
花が吹き出す。
「おみつ、しっかりしてよ……!大丈夫?」
ふふ。いいのよ、花。
こういう反応を見ていると、私も少し愉快になってしまうのだから。
やっと、日が暮れてきた。
夜は、僕の天下。少し楽しみたいと思っていたのに、今夜の高麗屋は、風まで息を潜めている。
帳場の灯りは落ち、聞こえるのは筆の音と、お咲の厳しい声だけ。
「花、ここはもっと丁寧に。……はい、もう一度。」
ほらきた。
“夜の手習い”ってやつだ。花も大変だねぇ。僕と遊べばいいのに。
障子の前に身を投げ出し、しっぽをぴんと立ててアピールしてみる。
「にゃあ(そろそろ休憩しようよ)」
花は僕の声が分かる。でも、いまは返事ができる空気じゃない。
まったく、お咲は容赦がない。
そこへ、廊下から控えめな気配。
「……ね、猫様……そんなとこで……お休み遊ばして……」
振り返ると、おみつが雑巾を抱え、両手を胸にきゅっと寄せて立っていた。
目が、星のようにきらきら。まぶしい。
この娘、僕のことを“猫様”と呼ぶ。崇拝の眼差しだ。
「にゃう(そんなに緊張しなくてよくてよ)」
昼の姫君モードで言ってみる。
「こ、高貴な鳴き声……っ! 猫様……っ!」
ただの鳴き声に聞こえてるはずなのに、興奮してる。かわいいやつ。
おみつは廊下を拭きながら、ずっと僕をちらちら見ている。
触りたい。でも恐れ多い。そんな葛藤が丸わかり。
「にゃ(触れてもよろしくてよ)」
「……よ……よろしいんですか……っ?」
僕は、昼のあいつの真似をして、ゆっくりまばたきをして肯定してみせる。
おみつの震える指先が、そっと僕の背に触れた。
うむ、悪くない。僕はわざと喉を鳴らした。
「……っ、猫様……お喜びになっている……!」
たぶん間違って解釈してるけど、嬉しそうだからそれでいい。
と、そこにーー。
ふっと、風が一筋、庭の方から流れ込んできた。
僕は耳を伏せて、警戒態勢。
風じゃない。香じゃない。
ーー“祈りみたいな気配”。
静かで、薄くて、でも妙に深い。
すぐに分かった。空然だ。
じゃあ、警戒まではしなくていいや。
庭の灯りの外側、石畳の影がすっと伸び、
ひとりの托鉢僧がゆっくりと歩いていく。
鉦も撞かず、足音も気配もなく、ただそこを“通り過ぎるだけ”。
花の香に揺らぎがあるとき、必ず近くにいる。
何を考えてるか分からないけど、危険じゃない。
でも、油断もしない。
僕はその影に視線を細めた。
空然は、こちらに視線を向けず、
ただ小さく会釈し、静かに立ち去った。
おみつは肩を跳ねさせて僕の後ろに隠れた。
「い、いま……だ、だれか……っ?」
「にゃあ(気にせずよろしいわ。害のあるものではなくてよ)」
姫君の声で言ってみた。
「猫様……なんとご立派な……」
いや、僕が立派なのは当然として。
思わぬところで空然を見かけたから、少しだけ気が引き締まった。
花は、ああ見えて繊細だ。
空然のような“聞く者”に近づかれると、何かが揺らぐ。
僕は障子の向こうの灯りを見つめた。
花が筆を握りしめ、真剣に手習いを続けている。
「にゃう(早く終わらないかなぁ)」
僕のささやきは届かないが、それでいい。
おみつがそっとささやくように聞いてきた。
「……猫様……あの……また触れても……」
「にゃ。(よきにはからえ)」
僕はゆったりとしっぽを立てて、高麗屋の静かな夜を歩き出す。
空然の影はすでに見えない。
でも、あの静かな香は確かに残っていた。
縁台の上に戻ると、夜の手習いも終わって、花の気配がふっと近づいた。
彼女は眠れない夜、庭に出てくる。
障子越しに、彼女が小さく呟いた。
「ブラン……起きてるよね?」
「うん」
僕は花と一緒に、部屋に戻り、彼女が眠りにつくまで、僕はただ傍で尻尾を揺らした。
それだけで、今夜の仕事は十分。
花が眠ると、東都の夜は深く静まる。
僕も布団に入って、体を丸めた。
「おやすみ、花」
昼も夜も、たぶんずっと。
僕はここで見ているよ。
今宵も、花は大丈夫。
そして、おみつは面白い。
次が最後。本日20時頃、投稿予定。




