パス
パスが通りさえすれば良い。そのような主義主張を抱えている者を「パス原理主義者」と呼ぶ。彼らの生態は非常に奇妙なものだ。
その前にまずパスとは何か。パスを通すとは独立している物に対して、何らかの関係性を持たせようとする作用のことを指す。例えば、墓前にお供え物を添えることで死者との関係を構築しようとしたり、与太話を吹聴することによって社会との接点を持とうとしたりすることである。そして、それを通すこと一点に集中している者、それがパス原理主義者だ。
彼らの言動はふわふわとしていて掴みどころがないかのように思われる。何をしているのかよく分からないからだ。河原の石で五重の塔を作ったり、落ち葉を道に水平になるように並べたり、鞄に詰め込まれた戯言で河童の肝を冷やしたり。そして彼らへの理解をさらに厄介なものにしているのが、パスという性質そのものである。パスは基本的に目に見えない。そのためパスの痕跡を追跡することは非常に困難極まる。追おうとする度に目の前でパッとワープするようにして消えてしまう。一瞬背後に立ち現れたと思ったら次の瞬間には雲に頭を突っ込んでいる。手には火星の塵を持ったまま。だから、彼らを追ってはならない。無駄に疲弊するだけだ。背中を捉えようとするのではなく、足音を聞くのだ。
また、さらにタチの悪いことに彼らにとって、パスが実際に通っていなくてもパスが通る予感さえあればそれで充分である。そのため、話が飛び飛びになったり、論理が飛躍しているような印象を受けるだろう。それも仕方のないことだ。彼らの一歩は我々の「パス」なのだから。パスが最小単位なのだ。解像度がとんでもなく低いのだ。
息をするようにパスを通しているのではなく、彼らの一息がパスなのだ。生きてパスしているのではなく、パスして初めて生きるということが知るのだ。生き延びるためにパスを通しているのだ。パスすることなしに生きられない脆弱性を抱えながら飛んでいるのだ。彼らにしてみたらそれは這いつくばっているのと同義かもしれないが。それが彼らのスタイルであり、時間であり、傲慢であり、怠惰であり、憂鬱なのだ。
しかし、思い返してみても欲しいのだが、未だかつてパスを通なかったものはいるだろうか。くすんだ影を持つ幽霊でさえ、くたびれた死者でさえもそうだ。接地することのない熱気球。ざらざらとしたクリーム色の壁。中央が少し窪んだ小高い丘。3本の萎れたマリーゴールド。ぐつぐつと煮えたぎったマグマ。これらはあのひとかけらの小石に収斂する。そうなることは不可避だったのだ。そうであることはそうであらねばならなかったこと。
彼らのパスはねじれにねじれている。パスが運命に通っているかだとか、何々と平行だとか直交しているだとかそんなことはどうでもいい。大体の物事の関係性は平行だったり直交だったりすれ違っていたりするのだから気にしてもしょうがないのだ。軌跡を追うよりも、匂いを追うのだ。街角の隅にそれとなく漂う豊潤なバターの香りを、雨上がりの湿った土の匂いを、透明な部屋の透明な棚の透明なビーカーの透明な気体の匂いを、冬将軍の到来を知らせる厳粛なからっ風の匂いを、それこそ濃密な花の蜜に誘われる黄色い蝶のように。
パスの先にあるものよりもパスすることに重きを置く。それが彼らの生態であった。しかしそれが逆説的にパスの先にあるものを「見る」ことに繋がるのだ。急がば回れ。そのことはもう知っての通りだろう。幾度も見てきたはずだ。パスの先にあるものを見ようとすればするほどその姿を見失う。ただパスすることだけを、それだけを思え。どこでも良い。どこでも構いやしないのだ。始点がどこで終点がどこだとか、始点と終点がぶつかろうがそんなことは関係ない。足元を見よ。輝かしい装飾よりも、ガタガタの地面を。