第1話
目が覚めた瞬間、まず聞こえたのは、味噌汁をかき混ぜる音だった。
次に、台所から立ちのぼる出汁の香り。
そして、なぜか漂う柔軟剤の香りと、スリッパで床を歩く控えめな足音。
……あれ?
枕元に置いたスマホに手を伸ばして、画面を点ける。
午前7時14分。アラームは鳴ってない。外は快晴。
ここまでは、まあ普通。いや、たぶん普通だ。
問題は、キッチンに立っている“あの人”だ。
「……おはよう、葛城くん」
振り返ったその人は、無表情のままそう言った。
大神美涼先輩。
俺のひとつ上の学年。文芸部所属。声を聞いたのは、多分人生で三度目くらい。
寝起きの頭で、できる限りの情報を整理する。
白いシャツ一枚。しかも男物。毛先がほんのりと青白い髪は肩にかかるくらいで、軽く寝癖がある。
下は……灰色と白のボーダーの下着。裸足。
左手には味噌汁の鍋、右手にはお玉。
「……え、ちょ、え?」
声が出た。出たけど、頭の中は未だフリーズ中。
「味噌汁、味見していい?」
「……え? あ、うん……どうぞ……?」
何やってんだ俺。というか、なんでこの状況を受け入れてる?
「冷蔵庫に卵あったから、玉子焼きも作ってる。あと納豆と、ごはん。漬物はなかった」
「……う、うん……」
なんだこの“既に何度も繰り返した朝”みたいな空気は。
言葉少ななのに、どこか落ち着いた所作。
まるで俺と彼女が、ずっと一緒に暮らしてたかのような自然さ。
でも、俺の記憶の中では、美涼先輩とはそんな仲じゃなかったはずだ。
むしろ、遠くから憧れてただけの存在だ。
なのに——この朝は、あまりに“当たり前のように”進んでいく。
俺は静かに深呼吸した。
何かが、——ズレている。
でもその“何か”が、思い出せない。
…味噌汁の香りはやたらと本格的で、だしの奥に鰹節と昆布の存在を感じる。
鍋をのぞく美涼先輩の横顔は、なんとも自然で――なんというか、その、しっくりきすぎて怖い。
「……あの、すみません」
おそるおそる口を開く。
何から聞けばいいかわからないけど、何か聞かずにはいられなかった。
「うん?」
「ここ、俺んち……で合ってますよね?」
「うん。葛城くんの部屋。ちゃんと掃除してるよ」
「……いや、俺、昨日の夜なにしてましたっけ?」
「歯、磨いて寝た。私は小説読んでた」
めちゃくちゃ自然に返された。
その“記憶”は、俺にはない。
「俺、美涼先輩と……付き合ってましたっけ?」
「さあ?」
「“さあ”って……!」
曖昧な微笑みを浮かべて、お玉を味噌汁の鍋に戻す。
その拍子に、シャツの胸元がゆるんで――
——ドン!!
脳内で何かが爆発した音がした。
いや待って?
今、見えたぞ? 完全に谷間ってやつがそこにいたぞ!?
しかも、シャツのボタンは留めてない。ていうか、元から開けっ放し。
白くて、やわらかそうで、シャツの隙間からチラ見えする生き物――いや、それは違う。パーツだ。そう呼ぼう。冷静になれ俺。
「……どうかした?」
「い、いえ、なんでも……あの、ボタン……!」
「あ、暑いから開けてる」
即答だった。清々しいほどの即答だった。
「……暑い、ですね、はい」
もう俺の脳みそは、朝の味噌汁よりグツグツいってた。
目の前の光景と、頭の中の現実の照合が、まるで合わない。
俺のアパート。俺の台所。俺の椅子に、美涼先輩。
料理は完璧、動作も自然、そして谷間は罪。
すべてが“そうあるべき日常”として進んでいるように見える。
でも、何かが決定的にズレてる。
それは記憶か、時系列か、あるいは――世界そのものか。
「葛城くん」
「は、はいっ!」
「ごはん、冷めるよ」
美涼先輩が笑った。穏やかで、どこか懐かしいような笑顔。
でもその笑顔の裏に、俺は――ほんのわずかな、影を見た気がした。