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匂いがした。
微かに薔薇の匂いが……
「ライラ」
わたくしの名を呼びながら柔らかに微笑む。
日射しを浴び、銀の髪が煌めく。アメジストのような紫の瞳を細め、手を差し出す。
いつものようにわたくしも微笑み、その手に自身の手を重ねる。
「シエル様」
端からみたら、仲睦まじく微笑む二人はなんて素敵なのでしょう。誰もが羨望の眼差しで見つめている。
中身はこんなにも歪で壊れているのにね。あまりにも滑稽で思わず声が漏れそうになるのを慌てて抑える。
嗚呼、ほら、距離が近づいた事によってまた香ってきたわ。
わたくしの心をどろどろと黒く染める、なんて気持ち悪くて素敵な香り…
「ライラ、今日も申し訳ないんだけど僕は生徒会の仕事で遅くなるから送ってやれそうにないんだ」
「ええ、わかっていますわ。大変でしょうが頑張ってくださいね」
眉を下げ、申し訳なさそうに言うシエル様にいつもの微笑みで、いつもの言葉を投げ掛ける。
「じゃあそろそろ行かないと…。また明日。」
重なり合っていた手を離し、ゆっくりと距離をとる。離れた手のぬくもりは一瞬で風に晒され冷たく感じる。
(そうね、そろそろ待っているあの子の元へ行かないといけないものね…)
踵を返し、足早に去る彼の背を見えなくなるまで見つめて思う。いつまでこのままで居続けなければならないのかと。惨めで、滑稽で、まるで道化のよう。
ずっと、ずっと思ってきた。だからもう、もういいんじゃないかしら。道化を演じる事をやめても。わたくし一人が舞台を降りればハッピーエンドに繋がるのでしょう?
この1年間、隠れて逢瀬を重ね、微笑み合う二人の姿を思い出す。初めてそれを目にした瞬間、息が止まってしまった。
呼吸をするのを忘れ、頭がくらくらしだしたが目は一点を見つめたまま。地面がガラガラと音をたてて崩れだす感覚。
信じてた物が壊れた瞬間だったー…
「いた……っ」
庭に咲き誇る薔薇を手折ろうとしたらトゲが触れた。プツっと刺さったところからジワリと血が滲む。赤い赤い血をじっと眺める。
わたくしの血は、赤いままなのねー…
心はこんなにも真っ黒でどろりとした感情に埋め尽くされているのに。てっきり血も真っ黒に染まってるかと思っていたわ…
薔薇の香りを纏うあの子。わたくしの大切なあの方を横から奪っていくあの子。厭で厭で、でもわたくしには何もできなくて。
だからきっとこうなるのは仕方がなかったのよ。だから、決めたの。明日、舞台をおりるとー…
****
ライラは朝起き、いつものように侍女に身支度を手伝ってもらった。
「あの、お嬢様、は、…」
「なぁに?」
どうしたのかしら?と微笑んで問いかけると侍女の顔が一瞬強張っていた。
「あ、いえ…なんでもございません…」
「そう?ならいいけれど…」
すぐに表情を戻した侍女にあまり深く問う気は感じず、話を終えた。ライラは家族に挨拶をし朝食を済ますと、馬車で学園へと向かったーー
学園で授業が終わり、昼休憩になった。ライラはいつものように食堂へは向かわずに、ある場所へと足を進めた。広い庭を通りすぎ、奥へ奥へと進むと端に生け垣が見える。近くへ行くと風に乗って微かに笑い声が聞こえてきた。
(やっぱりここにいたのねー…)
あの子の耳障りな笑い声が耳に届く。その声に混じってシエル様の声も…。
あまりにも予想通りでふっと思わず笑みが溢れてしまった。
「ご機嫌よう」
「……っライラ!?」
「ライラ様!?」
ライラが声をかけるとようやく存在に気付いた二人が驚いた声をあげた。あの子のびっくりした顔と、どうしてここに…!?と焦ってるシエル様があまりにも面白くてたまらなかった。
「ふふふっ、わたくし、二人にお話がありますの」
柔らかに微笑むライラの姿に息をのむシエル様。視線が混ざり合う。それは少しの間、時間が止まったような感覚さえ感じた。
「ら、ライラ様…っ、違うんです、これは…っ」
「あら、何がですか?」
「ライラ、話を、聞いてくれ」
どうして二人はこんなに慌ててるのかしら?そう…わたくしに二人の逢瀬を見られてしまったからなのね…!
「ふふ、どうしたの、そんなに慌てて。大丈夫、知ってましたから、今更ですよ」
「ラ、イラ…君は、」
「あぁ!シエル様!気にしないでくださいまし!わたくしはお二人の邪魔をする気はありませんのよっ」
だってわたくしは舞台の上でおどけるピエロの役目ですものね。決してヒロインにはなれないなんて分かっていますもの。
「薔薇の香り……素敵な匂いね。わたくし、貴方の匂いがとても好きだわ!シエル様からも時々匂ってましたのよっ」
両手をパンっと重ねて言うとシエル様の顔が強張ってしまった。
「シエル様?どうしてそんなお顔をなさるのかしら?」
ねぇ?とあの子に振ってみたが、あの子も強張った表情のままカタカタと体を小刻みに震わせていた。
「まぁ!どうしたの?ほら、シエル様!可哀想に、彼女が震えているわ!抱き締めてあげてくださいましっ」
せっかく教えてあげたのにシエル様は何故か動かない。どうしてかしら?二人の様子がおかしすぎてまた笑いが込み上げてくるわ。
「ふふふ、もうお二人とも一体どうしたのかしら!あ、そうだわ…わたくし、お話をしなくちゃでしたわっ」
ついつい二人の様子をみて話がそれてしまっていたと言わんばかりにライラはにっこりと微笑む。
「わたくし、最近思ってましたの。どうしてシエル様との幸せがずっと続くなんて夢みてたのかと。ふふ、そんなずっとなんて永遠なんてありえないのにね」
「ら、いら…ライラ、それはちが、」
「いいえ、違わないわ。もう隠さなくてもよろしいのよ。所詮わたくしは道化の存在だったのよ。いえ、貴方たちにとっては燃え上がるための恋のスパイス的な存在だったのかしら?だから、考えたの。どうすれば最高のスパイスとして大切なシエル様へわたくしからプレゼントができるのかしらって!」
そう、ずっとずっと考えてた。この恋が叶わないならせめて、最高のプレゼントを貴方たちに送ろうと。そしたらきっと更にあなたたちの愛は燃え上がるでしょう?
だから受け取ってもらうわ。わたくしからの最後で最高のプレゼントをーー…
「シエル様、お慕いしておりましたわ。どうぞ、幸せにーー……っ」
微笑んだ手にはいつの間にか小さなナイフが握られている。
「ライラ……っっ!」
………どさっ
一瞬の出来事だった。
シエルの声を無視し、ライラは手に持っていたナイフで自らの首を思いっきり一直線に切った。スローモーションのようにどさりと倒れこむ体。首からどくどくと赤い血が流れるのを感じる。
「やっ、と、消え、れる…」
微かに開いた口から声にならない声が漏れた。それと一緒に霞む目から一粒の涙が流れ落ちた。
そばで誰かが絶叫している気がするが、きっと気のせいだろう。わたくしという存在が消えて喜ぶ者がいても、悲しむ者なんていないのだから。
段々と体が冷たくなる。体は動かないし、目も開かない。やっと、やっとドロリとした黒い感情を棄てることができる。
そうして、ライラは生涯という名の舞台を降りたーー…
次はシエル目線に変わります。