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02_02 もつれた日常

 モナは音速をはるかに超えた速度で夜空を飛んでいた。


 現在地はロシアの北部の上空だった。

 モナは目的地に近づき、減速を始めた。


 はるか眼下には、雪に覆われた山脈が広がっている。


 モナの体は、ひし形のシルエットをしていて、胴と同じくらいの長さの長い尾が、後方に二本伸びている。

 海を泳ぐエイのようにも見えるその体は、尾も含め全長で10メートル以上あった。


 なめらかな体表は薄い灰色で、イルカの肌のように弾力があった。

 だが、体の前面だけは金属質の硬い素体で覆われている。

 胴の各部から突き出た感覚器は、周囲の情報を収集していた。

 

 目的地に到達し、モナは空中に静止した。

 上空の強烈な気流を無視している。


 ひし形の体の腹の部分に、眼球によく似た球状感覚器がいくつも現れる。

 夜空の星々に照らされている地表を探査し、反応を捕捉する。


 メーネの広域調査の通り、雪と地面の下に巧妙に隠された敵拠点を見つけた。


 モナたちよりも先にこの世界に来たガリオンが作った拠点だった。


 モナは急降下を始めた。

 尾がうねり、自由落下の速度を超え、地上へ突き進む。


 地面に激突する直前、モナは目標の拠点から、強烈な力場による干渉を受けた。

 高速で接近する物体に対して、斥力を生じさせているようだった。


 だが、モナにとってそれは大した障害にならなかった。


 一秒に満たない時間で障壁を無効化し、突破する。

 地響きが轟き、噴煙のように雪と大地がめくれ上がった。




――――――・――――――・――――――




 倉谷は駅前のカフェでノートPCを開いていた。

 朝早くから賑わっているその店は、スーツ姿のサラリーマンが多くいて、倉谷と同じようにPCをカタカタと鳴らしていた。


 倉谷はPCを操作し、ロシアに作った拠点を、たった今モナに破壊されたことを知った。


 上空の障壁を一撃で貫き、地下を掘って分厚いコンクリートで覆った拠点が、わずか数秒で破壊しつくされた。


 やはり直接戦闘での勝ち目はない。


 倉谷は何百年もかけて全世界に拠点を作っていた。

 ガリオンの技術だけでなく、人類のテクノロジーも用いて、戦力や研究施設を用意し、侵略に備えていたのだった。


 それらがこの数週間のうちに次々と陥落している。

 モナに潰された拠点は、すでに二桁に及ぼうとしていた。


 倉谷の拠点は、外敵への情報漏洩を防ぐため、ある程度の破壊されたら自壊するように設定されていた。

 生体部品で構成されている重要機関が、壊死して塵になる機能だ。


 今回のロシアの拠点も、すでに塵となって消えていることだろう。

 残るのは電子機器とコンクリートの残骸だけ。

 倉谷にたどり着けるようなガリオンの情報は残らない。


 それにしても、拠点は完璧に隠蔽されていたはずだった。


 わずかな痕跡や反応をたどられたようだ。

 潜入調査と戦闘を担当するモナのほかに、広域の調査を得意とするガリオンがいるようだ。

 それも「第一世代」の優秀な個体だろうという確信があった。


 倉谷はPCへのメーラーを起動し、柏木雄一郎へのメールを作成し始めた。


 もしも彼がモナの篭絡計画に失敗したら、あとは倉谷の持つ戦力による総力戦しかない。

 だがそれは望み薄だった。


 柏木雄一郎が、今や人類の希望そのものだった。




――――――・――――――・――――――




 早朝、アパートの窓の外から、鳥の鳴き声が聞こえてくる。


「どうすればいい……」

 柏木は苦しんでいた。


 目の前のローテーブルの上には、雑誌がいくつも広げられている。

 街のデートスポットだが、そのほとんどにチェックマークがついている。


 映画館に水族館に図書館、

 展望台にレストラン、

 カフェにカラオケにウィンドウショッピング、

 それからボーリング場。


 この二週間で、街のデートスポットは行き尽くした。

 特に映画館は何度も通った。


 別の街へ目を向けても、結局似たようなところしかない。


 スマホで検索しても、やっぱり街中で行くべきところは行ってしまったことが分かるだけだ。


 次の候補は県外だが、柏木はここで疑問を抱いていた。

 このまま闇雲にデートを重ねて、意味があるのか。


 柏木はベッドに背を預けた。

「どうすれば手をつなげるんだ……」


 柏木は自分の馬鹿馬鹿しい呟きに頭を痛めた


 どうすればいいかだって?

 簡単なことだ。

 手をつなげる相手とデートをすればいいだけだ。


 柏木にとって、女と接するのは簡単なことだった。

 一言二言話してデートできそうだったら約束を取り付ける。

 デート何回かして、ホテルへ行けそうだったら行く。

 セックスする。

 しばらくだらだら関係を続けて、そのうち飽きて自然消滅するか、柏木の方から連絡を絶つ。

 それがすべて。


 柏木は、自分のことをナンパ上手だなんて思ったことは無い。

 モテると思ったこともない。

 ただ普通の男より挑戦する回数が多いだけ。

 失敗した回数のほうが、はるかに多い。

 その中で、勝てそうな相手を見極めることができるようになってきただけだ。


 仲良くなれそうな相手と仲良くする。

 こちらに好意を抱いていない相手からは遠ざかる。

 勝ち目がない相手にはこだわらない。

 そんなことは時間の無駄だ。


 勝つためには、勝てる相手と戦うしかないのだから。



 ――だが、今回はそういうわけにはいかない。


 モナと恋人関係を進展し、モナを人類の味方にしないと、なんと人類は滅ぼされてしまう。

 そしてふざけたことに、滅びは目前まで迫っている。



 口の中にミント味の板ガムを二、三枚続けて放り込み、怒りを込めてよく噛んで、息を入れて膨らませた。


 スマホが振動する。

 倉谷からの連絡だった。


 つい十分前、ロシアの山脈にある拠点が破壊されたそうだ。


 そしてメールの末尾には「あと二週間」と書かれていた。


 柏木はモナに気づかれないようにするために、そのメールを即座に削除した。


 倉谷はご丁寧にも、今の状況を定期的に連絡してくれている。

 それは滅亡までのカウントダウンだった。

 倉谷の拠点が、モナの手によって次々と破壊されている。


 倉谷のメールは、柏木を焦らせる以上の効果を有していなかった。


 逃げ出したかった。

 だが逃げ出せば、危険が及ぶのは柏木の家族だ。

 倉谷は柏木の実家を知っている。


 倉谷はこの地上に来てから数世紀、人類のため、他のガリオンの侵略に備えるため、ひそかに世界各地に拠点を設けていた。


 だが現れたのは戦闘能力ではるかに優位に立つモナだった。


 倉谷は悩んでいるようだった。

 これ以上拠点を破壊され、戦力が削られれば、ただでさえ低い勝算が皆無になる。



 ――もし、君がモナを味方につけることができなければ、僕は最後の反攻に出る。


 倉谷は一週間ほど前、そのように連絡してきた。


 ――反攻の勝算はどのくらい?


 柏木の質問に、倉谷は返事をしなかった。



 終わってる。

 つまりどうあがいても柏木がやるしかない。


 だというのに、これまでのデートでやったことはなんだ?

 手もつなげていない。

 すでに一回セックスしたっていうのに!



 柏木は苛立ち紛れにスマホを指で叩いた。


 モナと恋人関係になった後も、柏木のスマホにはこれまでにひっかけた女たちから次々に連絡が来ていた。

 モナの手前、一切返事をしないでいたら、すぐに連絡は来なくなった。

 関係が続いていた女たちと、糸が切れてしまった。


 これまでに構築した関係がすべてリセットされてしまったが、柏木は惜しいとは微塵も思っていなかった。


 元々執着が薄かったのもある。

 だがなにより、よその女に構っている余裕が無いことが大きい。



 柏木がガムをもう一度膨らませると、今度は失敗して破裂した。

 柏木はぐったりして唇の周りのガムをはがした。


 柏木はガムを紙で包んで捨てて、疲れて天井を見上げた。



 裸のモナが天井を這っていた。

 美しい背中のラインがトカゲのようにくねくねと動いている。

 ろくろ首の如く首が伸びて、柏木の頬を長い舌でべろりと舐めた。


 これはモナじゃない。

 柏木はすぐに気付いた。


「ミラル、なにしてんの」柏木は目をこすって言った。「ミラルってば」


 ミラルはシュルシュルと音をたてて変形し、今度はライオンの姿になると、ローテーブルの上の雑誌を踏みつけた。

 そして威厳たっぷりに柏木の目の前で吠え、壁がびりびりと震えた。

 また隣の部屋から壁を叩かれてしまう。


「ミラル、やめてって」

「もう驚かなくなりました」

「四回目だもの」

「三回目まで驚いてましたよ」


 柏木は睨みつけた。


「別のやりかたを考えておきます」


 ライオンはさらに小さくなり、黒い猫になった。

 アパートの部屋の外に出ていたはずだが、いつのまにか帰ってきていたらしい。



 モナの周りを引っ付いて歩いていた黒い猫、それがミラルだ。


 ミラルが話すようになったのは、モナと恋人関係になって、少ししてからのことだ。

 モナが「ユウと話していい」と言うと、ミラルは幼い少年の声色でぺらぺらと喋りだすようになった。



 ミラルは柏木の部屋の隅に向かい、テレビの前に座ってリモコンで電源を入れた。

 教育番組をやっていて、動物たちが出ていた。

 ミラルがライオンに変身するようになったのも、テレビ番組が原因だった。


 ミラルは画面を見ながら、肉片をこねていった。

 虫と鳥が融合した、いびつなキメラが出来上がっていく。


「今日のデートはどこへ行くんですか」

「考え中だよ」柏木は雑誌をめくった。「モナは何か言っていなかったか」

「ユウと一緒ならどこでもいい、と」

「あー、素敵なアイデアだ」


 柏木は頭をかいた。


「モナとの仲は進展しましたか?」

「おせっかいな猫だな」

「種を超えて関係を築けるのか、とても興味があります」


 黒猫はキメラを放り出すと、尾を蛇のように伸ばし、柏木の首に巻き付けた。


「わかった、わかったから……」


 柏木は立ち上がると台所に向かった。


 台所では、ギリシャの彫像――ダビデ像が朝食を作ってくれていた。

 モナが用意してくれた家事ロボットのようなもので、黙々と働いてくれて、正直助かっていた。


 ダビデ像の手元を覗き込むと、もうじき朝食が出来上がりそうだった。


 柏木はダビデ像の邪魔にならないように冷蔵庫から牛乳を取り出し、平皿に注いで床に置いた。

 ミラルは尾をほどき、飛びついて牛乳を舐めだした。


「本当に猫みたいだ」

「猫の味覚を再現しすぎたようです。私はこの液体が好きです」

「人型よりも、違和感なく動けてるよ」

「人の形は苦手です」ミラルは再び尾を伸ばした。「煮干しもください」


「いいけど、その代わり、夜うるさいから野良猫と喧嘩するんじゃないよ」

「実力差を見極められない方に問題があります」


 柏木は台所から煮干しを取り出し、ミラルに与えた。

 ミラルはそれを実にうまそうに食べた。


「ガリオンって、飯食わなくてもいいんじゃなかったっけ」

「はい。我々は通常、転換炉と貯蔵庫を搭載しています。圧縮して内蔵された養分が尽きない限り、新たに外部からを養分を摂取する必要はありません」

「じゃあなんで食べてるんだよ」


 ミラルは答えに困っているようだった。


 柏木はしゃがんでミラルの頭を撫でた後、ローテーブルに戻り、雑誌を片付けた。


 ダビデ像が柏木の前に朝食を並べた。

 ご飯に、目玉焼きに、味噌汁もある。

 素晴らしい朝食だった。


 柏木はダビデ像に軽く頭を下げ、食事を始めた。

 ダビデ像は台所に戻り、片付け作業を始めた。

 本当に助かる。



 玄関が開き、モナが帰ってきた。

 彼女はラフな薄着で、胸や尻が強調されていた。


 目のやり場が無い――とうろたえていたのは過去の話だった。

 モナとの同棲が始まってしばらくして、柏木はむしろ開き直り、役得だ、とモナの体をじろじろと見ることにしていた。


「おかえり」柏木は茶碗を持ったまま言った。

「ただいま」モナは返事をしてスニーカーを脱いだ。


 モナのスニーカーは、たくさんの細かい足を生やすと、自分で玄関の下駄箱に入っていった。

 スニーカーに擬態した生物なのだ。


「私たちが食事の真似事をするのは、この地の生物を知り、生きていくため。そうでしょ、ミラル」

「ええ。ええ。そうです。ガリオンが現地生物に混じり、融和の元に生きていくためです」


 ミラルの胴が伸びていった。

 ダックスフントよりも伸びて、猫の妖怪みたいだ。

 胴が伸びるのは、ミラルが嘘をつく時の仕草だった。



 柏木は、ガリオンの目的が人類収穫であることを知っている。

 だが顔には出さない。

 こちらがそれを指摘すれば、倉谷とのつながりを感づかれてしまう。


 柏木にできるのは、モナとミラルの嘘に乗っかることだけだ。

 顔に出さないのは得意だった。


 柏木は目玉焼きを箸でつつき、ベーコンを口に入れた。


 さきほど倉谷から送られてきたメールの内容が事実なら、モナは十数分前にはユーラシア大陸にいたことになる。

 具体的に何千キロ離れているかは知らないが、日本とロシア間を十数分で移動することは、未だ人類には不可能なはずだ。



「今日のデートは?」

 モナの言葉に、柏木は動きを止めた。


 モナは柏木の様子に眉を潜め、足元の黒猫へ目を向けた。「ミラル」


「もう一度映画館はどうでしょう」ミラルが言った。

「それがいい」


 柏木は味噌汁をすすった。

 ダシが効いてておいしかった。


「何か見たい映画があるの?」

「前と同じもので良い」モナは即答した。

「えっ」

「はい、またあの作品を鑑賞したいです」ミラルも乗っかった。

「えっ」


 モナは頷いた。「見に行こう」


 モナたちと前回見た映画は、擬人化した動物が出てくる家族向け映画だった。

 全体的に明るくてオチもハッピーエンドで、レビューの評価も高い。


 柏木が憂鬱だったのは、モナたちと映画を見ると質問攻めにあうことだった。

「どうしてあのキャラクターはあんな行動をしたのか」

「このときこのキャラクターはどう思っていたのか」

 人間社会の常識のないモナたちは、すべての疑問を柏木にぶつけてくる。


 そんなこと映画を作った監督に聞いてくれ、と言いたくなったこともあったが、ぐっとこらえて自分なりの考えを必死で伝えた。


 柏木は不満の声を飲み込んだ。

 モナと仲良くなるという使命がある。

 同じ映画を二回見て、質問の濁流にのまれるくらい構うものか。


 柏木はモナに頷いた。

 映画館は近い。

 幸い、移動費も安く済む。


 モナの服の表面が波打ち、モナはデート向きの恰好へと変化していた。

 肩の見えるキャミソールに、太ももの見えるショートパンツ。

 上からサマーニットを羽織って、変化は終了した。


 モナの着ている服も、専用にデザインされた個別の生物だった。

 モナの意思に合わせ、自在に変化する機能を有している。


 着替えが簡単でいいなぁ、と柏木はのんきに思った。「待って。朝めし食ってから」


 柏木は食事に集中した。

 最近ものすごく腹が減る。

 これまで、朝食なんてなくても平気だったのに。


「分かっている。人間は三食食べることで精神面での調整を行う」


 モナがローテーブルに着くと、ダビデ像がモナの分の皿を並べた。

 彼(?)はもともと二人分作っていたのだ。


「卵の殻が入っている」モナは目玉焼きをつついた。


 モナが台所で待機しているダビデ像に目を向けると、像は一度雷に打たれたように硬直した。


「何したの」柏木は恐る恐る言った。


「変成した。卵の割り方の動作が甘かったから、改善。ユウの皿は大丈夫だった?」

「ちょっとぐらい気にしないよ」

「異常があれば修正する」


 モナは箸を器用に使い、黄身の部分を口に入れた。

 随分と人間らしい動きだった。


「じゃああれ、なんとかして」


 柏木は生きた石膏像の股間を指した。


「あれとは」

「あんな立派なのがブラブラしてたら、精神的に良くないんだよ」


 モナが一睨みすると、股間の一物はみるみる小さくなっていった。


「うっわ」柏木は思わず声が出てしまった。


「どうしたの」

「……これはこれでショッキングな光景だなと」


 モナは答えなかった。

 意味が分からなかったんだろう。


 柏木はふと思いついて言った。「ねぇ、その変化させるのって、生物相手なら誰にでもできるんだよな」


「変成の力なら、正確には『魂が宿る物質』に効力を発揮する。生物であれば大半が対象。反面、魂のない石などの単純な鉱石相手には効き目がない」


「魂ってそんなの本当に……」

 柏木は頭を振った。

 今はどうでもいい。

「俺には何もしていないよね。その……」

「変成?」

「そうそれ」

「行っていない。どこか変化させたい部位でもあるの?」モナは柏木の目線を見て推察した。「自分の性器を変化させたい?」

「いやいや、ちょっとした好奇心だよ」


「性器の大きさは、人間の男性にとって非常に重要なことだそうです」ミラルが言った。


「大きくしたいの?」


 柏木はすぐに断ろうとした。

 しかし男としての本能が可能性の光を見ていて、すぐに言葉が出てこなかった。


 妄想が膨らむ。

 あと数センチ大きくなったらどうだろう。


「数も増やせるけど」モナは付け足した。


「しなくていい」柏木は即答することができるようになった。「聞いてみただけだから」


「モナ、生物を生きたまま変成させるのは推奨できません。対象の精神構造がひどく不安定になります」

 ミラルがキメラいじりをしながら言った。

 キメラは虫の羽と鳥の翼をばたつかせている。


「……なんて?」

「精神が壊れて元に戻らなくなる可能性があります」

 ミラルは平然と言った。


 柏木は、「絶対やらないで」とモナに告げた。




――――――・――――――・――――――




 昼時の駅前は混雑していた。

 太陽は雲に隠れ、適度に風も吹いていて、過ごしやすい日だった。

 

 柏木とモナは映画を見終わり、通りを歩いてウィンドウショッピングしていた。


 通りの人々はモナが通れば必ず目を向けた。

 露骨に二度見している人もいる。

 柏木はすでに、モナといっしょにいて視線を集めることに慣れてしまっていた。


 柏木はモナのほっそりした手を見ていた。

 モナの片方の手にはジュースの紙コップが握られているが、もう片方は空いている。


 今回の目的は手をつなぐことだ。


 先ほどの映画館ではダメだった。

 柏木はモナの隣の席に座り、手を握るチャンスをうかがっていたが、モナの手は常に届かない位置にあった。


「どうして兎と狐はセックスしなかった」

 モナは手に持っていたジュースのストローから口を離して言った。


 柏木は大きく肩を震わせて周囲を見渡した。

「大きな声で言うな」

「何を?」

「……セックスって言葉」柏木は声を潜めた。「人がいるだろ」


 通りには家族連ればかりだった。


「それの何がいけない」

「ルールだよ」

「またルールか」


 柏木はこれまでも、困ったら「これは人間社会のルールだから」とモナに言い聞かせてきた。


「どうしてそんなルールがある?」


 柏木は止まった。

 回答を用意してない。

 柏木は手に持っていたペットボトルのふたをひねり、中のアイスコーヒーを一口飲んだ。


「小さい子供だっているんだから」

「質問に答えてない」

「……教育に良くないんだ」

「では何歳からならセックスという言葉を聞かせていい?」


 柏木は眉間を抑え、作戦を変えることにした。

 もっと具体的に言わないと、モナは納得しない。


「性行為を想像させるようなことを、見ず知らずの他人に聞こえるような声で話してはいけない、というルールがある」


 モナは少し考えるように停止した。「話すとどうなる」


「話すと……白い目で見られる……、つまり、……そう!」柏木は手を打って鳴らした。「仲間外れにされる!」


「集団から孤立させられ、異端として迫害されるということ?」


 柏木は考えながら頷いた。

 道端で下品な話をするだけでそこまで恐ろしいことにはならないと思うが、意味は間違っていない。


「仲間外れは困る」

 モナはそう言って通りの建物の上方へ目を上げた。


 柏木も同じ位置へ目を向けた。

 建物の屋上には、黒い猫が軽快な動きで歩いているのが見えた。

 建物から建物へジャンプしている。



 ちなみに、ミラルも一緒に映画を見た。


 動物をそのまま連れ込むことはできないため、ミラルにはポケットに入るくらい小さくなってもらって、こっそり忍び込ませた。

 ミラルは小さな姿のまま、モナの膝の上で映画を見た。



「良く分かった。このルールを破ると仲間外れにされる。ルールを守ろう」

「助かるよ」


 柏木は隣を歩くモナの手へ狙いを定め、自分の手を伸ばした。


 しかしモナの手は自然な動作で柏木から遠ざかり、その両手を後ろで組んだ。


 柏木は空振りした手を握ったり開いたりした。


「それで、質問に答えて」

「……兎と、狐の?」


 モナは頷いた。


 メスの兎とオスの狐が主人公の映画だ。

 前回の質問では「なぜ兎と狐が会話できるんだ」というところから始まった。

 擬人化の概念について話すのは苦労した。

 今回は大分進歩した質問といえよう。


「だって、あれはそういう話じゃないだろ」

「そういう?」

「ラブストーリーじゃないというか……」


 物語の定型の話をしても、きっと通じない。

 それに、柏木自身、物語の構造について語れるほど詳しくない。


 柏木は頭の中で言葉を組み立ててから話した。

「映画の中で、兎と狐はいろいろな冒険……共通の経験を得ていった。そうして関係を深めて、お互いを信頼した。で、その冒険を通して、二人の間には友情は芽生えた。でも愛情は生まれなかった」


「愛情が無かったら」モナは声を小さくした。「セックスしない?」


 柏木は頷いた。

 

 モナは目の前の子連れを指さした。

「あれは親子だ。親と子は、愛情で結ばれているという話があった」


「あー、そう言ったと思う」柏木は再びコーヒーを飲んだ。

「親と子はセックスするか?」


 柏木はコーヒーを吹き出しそうになって、何とか抑えた。


「……しない!」

「愛情があるのに?」


 柏木は必死で考えを巡らせた。

 自分の子供に性教育する親は、こんな気分だろうか。

 一歩間違えたら大変なことになりそうだ。


「愛情にも種類があるんだ」

「恋人の間にあるのは、どんな愛情?」


「そりゃあ……」柏木は言葉に詰まる。「お互いに思い合って、大切にして……」


「親子間でもそれは成立する。私の聞きたい答えはそれじゃない」

「そりゃごめんよ」

「恋人の間にある愛情は、セックスを伴うもの、と考えていい? つまり繁殖欲と結びついていると」


 柏木は周囲に注意を払いながら頷いた。

 通行人の会話に聞き耳を立てているような人はいないだろうが、それでも気になってしまった。


「ユウは、最初に私とセックスした時から、すでに私を愛していた?」


「そうだ」柏木は脊髄反射で即答した。


 柏木は内心では凍りついていたが、表情には出なかった。

 出さなかった。


 ――愛なんてなかった。

 試しに声をかけたらついてきて、ヤれそうだったからヤっただけ。

 そんな風に説明できるわけない。


「一目ぼれってやつだ」

「私たちは出会ったとき、何の冒険もしていなかった。共通の経験を経ていなかった。それなのに、私を愛した?」

「そういうこともある」

「容姿を気に入った?」

「最初はそう。でも今は中身も気に入っている」柏木は用意していた答えを言った。


「中身?」

「内面だよ」

「私がガリオンであることを気に入った?」

「心のことだよ。気持ちとか、人格とか、雰囲気とか」

「意味が分からない。どうしてそんな曖昧なものを気に入る」


 そんな質問は想定していなかった。「人間ってそういうものさ」


「ユウは子供が欲しいの?」

「子供?」

「セックスをするのは繁殖したいから。私と繁殖したいということだと思った」

「人間の愛情は繁殖だけが目的じゃない」

「じゃあ私の何が欲しいの」


 軽く頭痛がしてきた。

 柏木は誤魔化すように通りを見回した。

 近くに公衆トイレが見える。


「ごめん、ちょっとトイレ行ってくるけど……」

「それはすでに学んだ。女性型の私は男子トイレの使用は不適切であるし、そもそも排泄行為に立ち会おうとするのはルール違反。ここで待つ」


「……えらいぞー」柏木は小声でつぶやいて頷いた。




――――――・――――――・――――――




 柏木は用を足した後、顔を洗って鏡に映る自分の顔を見た。


 女性の言う「私のどこが好きなの」という質問は恐ろしい爆弾だ。

 柏木はどんな場合でも相手の内面が好きだと答えてその場を逃れることにしている。


 モナは「私の何が欲しいの」と言った。


 恋人に何を求めるのか。


 柏木は恋人を作ったことがなかった。

 だから、恋人に何かを求めたことは無い。


 体だけの関係ならいくつも作った。

 煩わしさを感じる前に関係を終わらせてきた。


 柏木にとって、男女の仲とはセックスのことだった。

 それ以上のものは無かった。


「私の何が欲しいの」柏木は鏡を見て呟いた。「私の何が欲しいの……」


 柏木はハンカチで顔を拭き、トイレを後にした。



 通りに戻ってモナの姿を探すと、モナが柄の悪い男たちに取り囲まれているのを見つけた。


 柏木が目を離した隙に、モナが男に言い寄られるのは初めてのケースではない。

 モナには無視しろと言ってあり、しっかりと言われたことを守っていたが、今回の相手はしつこいようだった。


 柏木が手を上げると、モナはすぐに気付き、男たちを振り払って歩いてきた。


 男たちが一斉に柏木を捉える。

 柏木という男がいることで皆諦めたようだったが、そのうちのリーダー格の男が何かに気づいたように柏木に近づいてきた。


「あんた、柏木だろ」


 長い髪を金に染めた、ひょろひょろとした男だった。

 耳にはピアスがいくつも光っている。

 笑顔で近づいてきたが、柏木にはそれが威嚇行為だとすぐに分かった。


 他の男たちも近づいてきて、笑顔を張り付けて柏木を観察していた。

「誰?」

「あれだよ。フジ君の彼女とった奴」

「有名人じゃん」

「カトウさんもとられてなかったっけ」

「それマジ? ウケる。ナンパ星人かよ」


 柏木は男たちを観察したが、見覚えが無かった。

 少なくとも柏木と同じ大学に在籍している人たちではないようだ。


「何が起きてる?」モナは隣に立つ柏木に言った。


「逃げるなって」金髪の男が声をかける。「話が聞きたいだけじゃん。ねぇ、どうやってそんな美人捕まえたの? 仲良くしようよ」


 金髪の男の手が伸び、モナの手を掴んだ。


 モナはその男をじっと見つめた。


 柏木は咄嗟にモナの手を取ろうとして、

 ――モナは逃げるように、柏木から手を引っ込めた。


 一切の言い訳もできない場面だった。

 モナは明確に柏木を避けていた。


 男たちが一斉に笑い声をあげた。

「なんだよ、ケンカ中か」

「このおねーさん、ナンパ星人より俺たちと遊びたいんだってよ」


「どうする?」モナは言った。

「行こう。ここから離れたい」柏木はモナに強い口調でそう言い、近づく男たちに背を向けた。

「分かった」


 モナは柏木に合わせて歩き出した。

 それは金髪の男に腕を掴まれていることを一切感じさせない動きだった。


 モナの手を掴んでいた金髪の男は、モナの手の振りに合わせてコンクリートに転がった。


 柏木は、奇妙なパントマイムを見ているような気分になった。


 ドアノブを掴んでいたら、車が急発進した。

 そんな風に引きずられる人がいたら、ちょうど同じに見えるだろう。


「いってぇっ!」

 地面から声が聞こえる。

 モナから手を離したその男は、自身の肩を抱くように押さえていた。


 柏木が逃げるように走り出すと、モナも後ろから同じ速さでついてきた。




――――――・――――――・――――――




 柏木は通りを進み、大通りへ出た。

 男たちはすぐに人ごみに紛れて見えなくなった。


 さっきまで何人か追いかけてきていたが、交番の近くを通ったら諦めて離れていった。


「あのオス、脱臼したようだった」モナは冷静に言った。「治療したほうがいいかな」


「しなくていい」

 脱臼程度なら自分で何とかするだろう。

 自業自得だ。


「じゃあやっぱり敵だった? 敵なら背を向けるのは得策じゃない」


 柏木は息を整えながらモナを見た。


「人間の後頭部に目は無い。敵から目をそらすべきじゃない」

「敵じゃない。俺は誰とも戦っていない。だから誰も攻撃しちゃだめだ」

「さっきの行動は攻撃ではない」

「わかってるけども」


 柏木は、万が一にもモナが手を出さないように釘を刺した。


「敵ではないなら、なぜ彼らは敵意を向けてきた」

「やつあたりだ」柏木は軽く流した。「いちいち付き合ってられないよ」

「良く分からない」

「俺が手を出した女が、彼氏もちだったってこと」

「良く分からない」


 柏木はため息をついた。

「俺が彼氏持ちの女とヤったから、その彼氏が怒って俺を攻撃してきた」


 モナは少し考えて言った。「特定の相手がいる女とセックスすることは、ルール違反?」


「そんなところ」

「ユウはルールを破ったのか。なぜ」

「わかってても破っちゃうときがあるんだ。人間だから」

 柏木は開き直って言った。


「良く分からない」

「なあ、どうして避けるんだ」

「何の話?」

「俺と手をつなぐことを避けてるでしょ」

「そうじゃない。体が接触することを避けてる」


 モナはあっけらかんと言い放った。

 柏木は落ち着こうとしたが難しかった。


「どうしてだよ」

「接触したくないから」


 柏木は頭に血がのぼるのを抑えられなかった。

「あの男の手は? 触られるのを避けなかったじゃないか」


「ユウと接触したくないだけだから、あの男との接触は関係ない」


 柏木は言葉を失った。


「さあ、次はどこへ行く?」モナは何事もないかのように言った。




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