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01_03 点火

 柏木は自宅アパートのベッドに横たわっていた。

 瞼を開き、けたたましく鳴るスマホのアラームを止める。

 窓の外からはカーテン越しに陽が差し込み、今日も暑くなることを予告していた。


 柏木は体を起こした。

 空のペットボトルが少々転がっているだけで、一般的な男子大学生の部屋と比較すると、綺麗に掃除されている部屋だった。

 柏木は女性を家に連れ込むことが常習化しており、そのため部屋の清潔感を保つことが必要不可欠だった。


 小さいカーテンの付いた本棚と、ちょっと古い薄型テレビと、ローテーブルと、四角いクッション。

 シンプルで、統一感のある室内だった。


 そしてモナは、部屋の中央に立ち、裸の男をこねていた。

 

「おはよう」モナは柏木を見て言った。


 柏木は何も言えなかった。

 昨晩シャワーを浴びたはずなのに、血の匂いが残っている気がした。


 モナは不審そうに柏木を見た。「挨拶は、人間の常識でしょう」


「……おはよう」柏木はベッドから降りた。


 モナが作っていたのは、真っ白な肌のギリシャの彫像だった。

 モナの足元には、柏木の本棚にあった美術関連の書籍が開かれてる。


 その彫像はすさまじい再現性だった。

 盛り上がった筋肉も、肌の質感も、髪のうねりに至るまで、完全に表現されてる。


 致命的に異なる点と言えば、その彫像は生きていて、柏木をじっとを見ていることだった。

 今にも口を開いて何か喋り出しそうだ。


 さらに、彫像には立派な一物がぶら下がっている。

 柏木はげんなりした。


 モナは右手をひらひら動かして彫像を細かく変化させていたが、左手には分厚い国語辞典があった。

 片手で器用にページをめくっている。


 モナは彫像を作りながら、辞典にも目を通している。


 柏木の部屋に国語辞典は無かったはずだ。

 モナが自分で調達してきたもののようだ。


 どうやらモナは、こうして人間の言葉を勉強しているようだった。

 モナの堅苦しい喋り方にも納得がいった。


 辞書はどうやって手に入れたのだろう。

 ……やはり、どこかから盗んできたのか。


「眠る、と言っていたけど、眠っていないようだった。体調が優れないみたい」

 モナは彫刻作業を止め、辞典を閉じ、柏木に向かい合った。


 一睡もできなかった事実を見抜かれている。


 モナは昨日と同じ恰好で、シャワーも浴びていないはずだった。

 だが清潔そのものので、服には汚れ一つついておらず、あまりに不自然だった。

 


 昨夜の戦いの後、モナは柏木の後をついて、家までやってきた。

 モナが触れると、柏木の服や肌についていた血はモナの手に吸い込まれて消えていった。

 おかげで警察を呼ばれることなく電車に乗って帰路につくことができた。


 モナから逃げ出すことも、助けを呼ぶこともできなかった。

 柏木の思考は完全に凍結しており、一切機能していなかったのだ。



「……シャワー浴びてくる」柏木は着替えを手に取り、ふらふらと浴室へ向かった。

「寝汗を流すのか。手伝う」


 柏木はうつろな目で振り返った。

 金髪の美女が一緒にシャワーを浴びようと言っている。

 普通なら小躍りして受け入れるシチュエーションだった。


「いらない」

 柏木は、か細い声で言った。


 モナはついてこなかった。

 再び彫像をいじる作業に戻ったようだ。


 洗面所で下着を脱ぎ、狭い浴室に入ると、無心で冷たいシャワーを浴びた。

 思考がクリアになっていき、活力がわいてきた。


 逃げよう。

 今すぐ。


 柏木はシャワーを流しっぱなしにしたまま浴室を出て、適当に体をふき、服を着た。


 洗面所のドアをゆっくり開けると、モナは柏木に背を向け、彫像に向かい合っているのが見えた。


 柏木はそのまま忍び足で歩き、玄関に向かうと、可能な限り静かに、しかし素早い動きでドアを開け、外に出た。



 朝の陽光がまぶしい。

 サンダルのまま、濡れた髪も乾かさず、柏木は走り出した。


 柏木には何のプランもなかった。

 どこへ行けばいいかも、誰を頼ればいいかも、一切考えていない。

 ただあのエイリアンから少しでも距離を取りたい一心だった。


 寝不足と空腹でふらふらしながらも、柏木は住宅地を抜けて大通りに出た。

 通勤の車が行き交い、学生たちがまばらに歩いている。

 

 モナはまだ追ってこない。

 もしかしたら、柏木が逃げ出したことに、まだ気づいていないのかもしれない。


 通りの向こうに、駅近くの交番が見える。

 一人の警官が立って、通りを歩く人々を見つめていた。


 警察。

 そうだ、警察だ。


 困った一般市民が、真っ先に頼るべき相手だ。



「どこへ行くの」



 背後から声がして、柏木は踏み出した足を止めた。


 振り返るとモナが立っていて、柏木を見下ろしていた。


 心臓が張り裂けそうなほど鼓動している。

 すべてを忘れ、走り出したかった。

 逃げ出したかった。


 だがパニック寸前の柏木を抑え込んだのは、昨日の公園で起きた、超常の出来事の記憶だった。


 逃げてどうなる。

 仮に交番に駆け込めて、警官が相手になるか?

 拳銃で倒せるようなやつらか?



「――逃げたの?」



「いや! 違う!」柏木はまず否定し、次に息を吸い込んだ。「メシを! メシをね! 買いに行こうと思って!」


「財布を持っていない。買い物にはお金が必要なはず」

「あれっ?」柏木はポケットを叩いた。「うわぁ、忘れてたな。取りに戻るよ」


 モナの隣を通り過ぎ、柏木はアパートに向かって歩き出した。


 モナは何も言わず、柏木の後をついてきた。

 肩が重い。

 本当に何かがのしかかっているような気分だった。




――――――・――――――・――――――




 柏木はアパートの近くのコンビニで朝食を買い、部屋に戻って素早く食事を済ませた。

 モナは何も食べず、柏木の一挙手一投足を見つめていた。


 彫像は部屋の隅で仁王立ちになり、厳格な表情のまま柏木を見下ろしていた。

 何故そんな怖い顔をし続けているのかと不審に思ったが、他の表情ができないだけかもしれない。


 柏木はモナと彫像の監視を受けながら服を着替えた。

 薄手の青いシャツと、伸縮性のある黒のパンツを履き、ワックスで短い髪を整え、ピアスをして、歯を磨いた。


「……俺、出かけるよ」

 手提げカバンにスマホと財布とノートと参考書を放り込む。


「どこへ?」

「大学」

「ついていく」


 柏木は即座に「だめ」と言おうとしたが、踏みとどまった。


「大学には、大学生しか入れないから……」

「私はどんな姿にもなれる。大学生にもなれるはず」

「どうしてそんなにくっついていたがるんだ」

「ユウのことを知りたい」

「……どうしてだよ」


 柏木はもう消えてなくなりたかった。


「私の目的は人間との融和。ユウを通して人類を知る」

「それならさ、他の奴でもいいんじゃない? エイリアン好きなやつ、いっぱいいるよ。研究している人だっているだろうし」

「私はユウに興味を持った」

「俺とヤったから?」

「ヤった?」

「セックス」

「そう。ユウとセックスしたから、ユウに強い興味を持った」


「じゃあ俺以外のやつとも試せよ」柏木はカバンを手に取った。「きっとそいつにも興味がわく」


「私は今、ユウ以外の人間に興味はない。ユウ以外と交尾する気はない」

「……そういう言葉は、恋人相手に言うもんだ」

「こいびと」

「男女の仲ってやつ」

「良く分からない」

「彼氏彼女」

「分からない」

「つがいのこと!」

「ユウ、私とつがいになってほしい」


 柏木は答えなかった。

「昨日のアレは何なの? 公園で戦ってた……」

「同じガリオンだけど、敵対する思想を持つ者たち」


「仲間同士で殺し合ってるのか」

「人間も同じでしょう」


 柏木にとって、人間たちが殺し合うのは、ゲームか漫画か映画の中だけだ。

 長い戦争の歴史ですら、もはや遠い世界のおとぎ話と変わらない。


 柏木は玄関へ向かった。

 モナがすぐ後ろをついてくる。


「答えを聞いていない」

「なんの」柏木は靴を履きながら言った。


「つがいになってほしい」

「……少し時間が欲しい」柏木は絞り出すように言った。


「どうして即断できない」

「そもそも! 俺たちは違う生き物だ!」柏木はやけになっていた。「犬と猫が付き合えるか? セックスするか? できませんよ!」


「ガリオンはどんな生き物にもなれる。性交機能に関しても、ユウは確認済みのはず」

「でも……」


「つがいにはなれない、ということ?」


 柏木の背に、モナが言葉を投げかけた。


 化け物の彼女なんてごめんだ。

 ……彼「女」?

 そもそも、この生き物には性別があるのか?


 だが柏木は否定の言葉を告げることができなかった。

 もし断って、「わかった。じゃあいらない」と文字通り切り捨てられたら?

 柏木は次の瞬間にはばらばらになっているかもしれない。


「そうじゃない、そうじゃないけど……。とにかく、時間をください」

「どの程度?」

「い」一日では無理だ。「み、三日!」

「分かった。三日待つ」


 モナは頷いた。




――――――・――――――・――――――




「おい、今日はもう帰った方がいいんじゃないか? 顔色が悪すぎる」

 久保塚はラーメンを食べる手を止めて言った。


 柏木はミニチャーハンを前に、完全に動きを止めていた。


 午前の授業が終わり、今は昼休みだった。

 今日も学生でにぎわう食堂で、柏木はいつものように久保塚と昼食を食べていた。


「別に単位危なくないんだろ?」

「……ぅああ」


 久保塚は眉をひそめた。「それは返事か? それともうめき声?」


「単位は、だいじょうぶ……」

「なら帰れよ。見てて不安だ」久保塚はナルトを口に入れた。「つーか病院行け。ゾンビか」


 柏木はスプーンでミニチャーハンをつついた。

 とてもじゃないが、食べる気分になれない。


 朝、アパートを出るとき、意を決して「大学には来てほしくない」と正直に伝えると、モナは意外にもあっさり引き下がった。


 ただ、モナは敷地の外で待機していると言っていた。

 今も柏木の事を観察しているのかもしれない。



『昨晩は災難だったね』



 どこかから聞こえてきた声に、柏木は肩を震わせた。

 周囲を見回し、声の出どころを探った。


 昨晩?

 なんだ、何を知ってるんだ?


『振り返らないで。 僕は今、君の後ろに座っている。そのままの姿勢で聞いてくれ』


 柏木は自然な動きを装って左手の窓ガラスへ目をやった。

 窓ガラスには食堂の光景がうっすらと反射している。


 柏木の後ろの長テーブルにはスーツ姿の男がいて、柏木に背を向けて座っていた。


 久保塚は気づいていないようだ。

 柏木にしか声が聞こえていないのかもしれない。


『昨晩、公園で化け物に会っただろう』


 柏木は息をのんだ。

 声の主は、どこまで何を知っているのだろう。


『話がしたい。学食の外の、喫茶店で待っている』


 背後で立ち上がる気配がして、スーツ姿の男は去っていった。

 どくどくと心臓が脈打つ音が聞こえる。


 柏木は、久保塚がラーメンを食べ終わる前に、なんとかチャーハンをかきこんだ。


「柏木、どうした」

「わりい、先行ってて。ちょっと用事思い出した」


 柏木は食器を片付けると、久保塚と別れ、食堂を出た。



 学内カフェは、食堂のすぐそばにある。

 店内は狭く、食堂に比べるとやや高めの価格帯のため、学生からは不人気だった。


 柏木は逸る気持ちを抑えることもできず、学生の群れを潜り抜け、まっすぐカフェへ向かった。


 案の定カフェは空いており、スーツの男は一人しかいなかった。

 彼は柏木を見つけると、手を挙げた。


 柏木は警戒しながら歩き、男の正面に座った。


 男は三十台前半くらいに見えた。

 ワックスで髪を固め、精力的なビジネスマンといった風貌だった。

 体格も良く、スポーツ経験者に見える。


「初めまして。倉谷と申します。ここの卒業生でして、お世話になった教授とお話ししていたんです」


「……はぁ」

 柏木はあいまいに頷いた。

 何が始まったんだ?

 

「これうちの会社のホームページね」


 倉谷はスマホを取り出し、動画を見せてきた。


 それは昨夜の公園での戦闘だった。

 街灯に照らされ、人間もどきの怪物たちがバラバラにされたり潰されたりする様子を、外から撮影したようだった。


 変形するモナや、尻餅をついている柏木までばっちり映っている。


 声も出せないでいると、カフェの窓の外で猫の鳴き声が聞こえた。

 カラスの群れが、黒い猫めがけて急降下してきて、爪やくちばしで攻撃している。

 猫はカラスを追いかけて離れていった。


「監視の目を逸らした。少しの間なら大丈夫だ」

 倉谷はスマホをしまった。

 先ほどとは雰囲気が変わった。


「監視?」柏木は唾をのんだ。


「あのガリオンは遠くにいるが、別の目が君をずっと監視している」

「ガリオンっていうのは、モナのことですか?」


「……名前を言ったのか」

 倉谷は安堵するようなため息をついた。


「どこまで知っているんですか。一体何が起きて……」


 柏木は頭を押さえた。

 やがて、真っ先に知りたいことが口をついて飛び出した。


「詳しく教えてください。あの化け物は何なんですか」


「まずは落ち着いて。私は味方だよ」


 柏木は震える手で口元を抑えた。

 悲鳴をあげそうになったからだ。


 ようやく現れた味方と思しき人物を前に、柏木は緊張を緩めてしまっていた。


 倉谷はカフェの中を見回し、立ち上がるとセルフサービスの給水機の元へ向かった。


 柏木は窓の外を見る。

 猫はまだ、戻ってこない。


「このこと、誰かに話してないね?」

「誰に話せっていうんですか」

「その通り。正解だよ」


 柏木は倉谷から差し出された水を、一気に飲み干した。

 大きく一息つく。

 少しだけ気分が落ち着いた。


「大丈夫かい」

「……はい」

「今すべてを説明する時間は無い。要点だけ伝えるよ。彼らは別の世界から来た。目的は『原生生物の収穫』だ」

「……収穫」

「ガリオンは別の世界にたどり着くと、現地の生物を調査し、有用な種があれば収穫し、自分たちに害を成す種があればこれを排除する」


「収穫……」柏木は言葉の意味に気づき、目を見開いた。「えっ、しゅ。収穫?」


「現在、人類はガリオンに対抗する術を持たない。彼らが行動を移せば、一か月で地上の人間は収穫され、加工される」


 柏木は深呼吸した。

 頭が話を受け入れることを拒否していた。

 だが、信じる信じないという水準の話は、とうに通り過ぎている。

 それほどのものを二度も見たはずだ。


 窓の外を見た。

 猫はまだいない。


「なんでそんなことをするんです」

「ガリオンは皆、生体を操作する力を持っている。『変成』と呼んでいる力だ。ガリオンにとって、生物は粘土細工みたいなものさ。自由にこねて見た目を変えられるし、好きな機能を持たせて、命令を与え動かすこともできる」


 モナが生きたギリシャの彫像を作っていたのを思い出した。


「ガリオンにとって、生物は資源なんだ。燃料、建材、衣服、食料、ありとあらゆるものの原材料になる」

「それで、収穫ですか」


 つまり、人類すべてがあんな風にこね回される未来がやってくるということだ。


「倒せないんですか」

「正面から戦って倒す方法は無い」

「どうして言い切れるんですか。日本にだって自衛隊いるでしょ」

「生物であれば、近づくだけで作り変えられる。戦いにすらならない」


 柏木は縋り付くようにコップを両手で握りしめた。

「銃は? そうだ、爆弾は? 上から爆弾を落としてもらえばいい」


 倉谷は腕時計を見ている。


「ガリオンは数多くの次元を侵略してきた。中には人類の扱うテクノロジーをはるかに超えた力を持つ生き物もいた。

 わかるかい? それらすべてがガリオンの力になっている。

 たとえ目の前で核が炸裂したって、モナは無傷だよ」


 柏木は昨日もモナの戦いぶりを思い出していた。

 モナは、骨の刃による攻撃以外にも、まるで超能力のような力を発揮していた。


「君が想像している、正面から軍と軍がぶつかるSF映画のような戦争の形態にはならないんだ。ガリオンは外見をいくらでも替えられる。誰にでもなれるから、どこへでも潜り込める」


「人類はもうおしまいってことですか?」

 柏木は頭を振り、窓の外を見る。

 猫はまだいない。

「違いますよね。俺に何をさせたいんです」


 倉谷は人のよさそうな笑みを浮かべた。「思ったより冷静だ」


「話がぶっとんでて麻痺してるだけです。それで?」


「モナは何と言って君に近づいてきた? 君に何かを求めていたはずだ」


 柏木はぼんやりした頭で、モナの言動を思い返した。

「……俺と『つがい』になりたいって、言ってました」


 倉谷は「おぉ……」と言葉を漏らした。

 そこには明確に喜びの色があった。


「その話に乗るんだ。柏木君」

「えっ」

「モナと恋仲になってくれ」

「はい?」

「恋人同士に――」


「意味は分かります!」

 柏木は立ち上がりかけて、周囲を見回してから座った。

「なんでそんな話になるんですか。あいつ倒さなきゃ、人類やばいんでしょ」


「倒せないから、味方にするしかない」

「味方にったって」

「君、モナと寝たんじゃないか?」

「へぇっ」変な声が出た。「なんですかいきなり」

「どうなんだね」

「えっと、……まあその、……流れで?」柏木は頬をかいた。


「やっぱり。モナはその方向で人類を知ろうとしたんだね。……いいかい、モナはこの世界に来て、まず調査を始めた。人間に擬態して街を歩き、君に出会った。そして君に興味を持った。

 モナはこれからも君を調べようとするだろう。人間を、もっと知ろうとする。君との関係を通して人類を学ぶんだ。そしてその過程で、人間の味方になる可能性がある」


「はぁ?」

 柏木は頭を押さえた。

 ひどい気分だった。

「あいつら侵略に来たんですよね。どうしてそんなことが言えるんですか」


「経験があるからだよ」

「経験って」


 柏木は言葉に詰まった。


 待て。

 どうしてこの人はあの動画を撮っていた?


「……僕は味方だよ。信じてもらうしかない」


 倉谷は申し訳なさそうに肩を落とした。


「僕は、……人間を愛した。この世界に来て、美しいものに触れたんだ」


 柏木は、その可能性に気づいて、わずかに上体を逸らした。

 意味なんてないのに、反射的な行動だった。


「数世紀前、僕は仲間たちと共にこの世界に来た。そして、人類の味方になると決めた。モナも同じことが起きる可能性がある」


 倉谷の話が、どこか遠くで聞こえた。


 柏木は自分に都合の良いように想像していた。

 倉谷はエイリアンを監視する秘密組織のようなものに所属していて、柏木を守るために派遣されてきたのだと。

 だが倉谷は一度だってそんな風に名乗っていない。


 柏木は、自分の頭の悪さに眩暈がした。

 倉谷が食堂で「柏木にしか聞こえない音」を出していた時点で、もっと怪しんでもよかったはずだ。


 あるいは、そんな簡単な事実に考えが至らないほどに追い詰められているのかもしれない。


「昨日モナと戦ったのは、僕の手駒だ。モナはガリオンの中でも、『第一世代』の、しかもエリートだった。ずば抜けた力を持っている。僕のような木っ端では太刀打ちできない」


「……待ってください。つまり、あなたも」

「ガリオンだよ」

「しょ、証拠を見せてくださいよ。あんたが……その……」


 倉谷は怯える柏木を見て苦笑いした。


 倉谷は柏木に見えるよう、左手をテーブルの上に置いた。

 指がゆっくりと伸びていき、指先の爪が鋭利な刃物となって伸びていく。

 金属のような光沢を放っていた。

 

「触るかい?」

「いや……」柏木は静かに息をした。


「この肉体は人間になるべく近づけてあるけど、最低限の攻撃機能は持たせてある」


 倉谷は左手を振ると、指は音もなく元に戻った。


「いや、いや、いや……」

 柏木は取り繕うことができなくなっていた。


 ――人類。

 話に出てくる言葉のスケールが大きすぎる。

 柏木はただの女好きの学生だった。

 そんな男に、一体何ができようか。


「どうして俺なんです。他の人だっていいでしょ」

「モナは今、君にこだわっている。他の人間に興味を移す可能性はあるが、待つ余裕は無い。侵略が始まればすべてが終わる。これを逃す手はないんだ」


 柏木は唇をかんだ。

「……でも、あなたが言っていることだって、本当のことかどうか……」


「……なに?」


「あ、いや、その……」柏木は目を逸らした。


「つまり」倉谷はわずかに身を乗り出した。「僕もモナも同じガリオンなんだから、どっちも同じくらい信用できないってことかい?」


 倉谷の雰囲気が明確に変化し、柏木は身構えた。


「ここで話を続ける時間は無い。良く聞くんだ。君が協力的であれば、僕は優しくできる。でも君がそうでないなら、わかるね?」


 倉谷は再びスマホを取り出し、画像を見せてきた。


 そこには柏木の実家が映されていた。

 窓の向こうに母親の姿も見える。


 柏木は、背中を冷たいものが走り抜けた気がした。


「僕だってこんなことはしたくないんだ。でも手段は選んでいられない」

「何をしたんですか」

「まだなにも。でも、君が想像しているような最悪な事態にもできる」


 手足の感覚が無くなって、視界が狭まってきた。

 過呼吸になったように息が浅くなる。


「誰かに助けを求めたりしないことだね。僕の仕事と、犠牲者が増えるだけだ」

「……どうする気ですか」

「人類を救うためなら、なんでもやるさ」


 柏木は倉谷の目を見てしまった。

 そこには、柏木が推し量ることのできない強い意思の光があった。


「柏木君、モナの恋人になるんだ。人間を相手するように扱ってほしい。普通の女性を相手にするように、デートしたり、手をつないだり、愛を語り合ったり、適度に性交しあうような関係になれれば完璧だ」

「性交って……」

「子供を作ってもいい」


 倉谷は大まじめに言い、柏木は絶句した。


「君がやらなければ、人類は滅ぶ。それだけだ」

 

 岩石がのしかかったように、頭が重くなった。

 支えられなくなって、テーブルに突っ伏した。


 急速に意識が遠のく。

 これは眠気だろうか。

 昨日からまともに寝てないからか?

 柏木はテーブルに倒れこんだ。


「柏木君!」


 意識を失う直前、気配がした。


 窓の外に猫が戻っていて、前足を舐めている。

 口元が真っ赤に染まっていて、カラスの羽の一部が体についていた。


 猫の目は、柏木を見ていた。




――――――・――――――・――――――




 柏木が目を覚ますと、ベッドの上だった。

 周囲を白いカーテンで区切られている。


「生きてるか?」


 久保塚が隣に座っていて、柏木の顔を覗き込んできた。


「ここは……?」

 柏木はゆっくり体を起こした。

 まだ頭がふらふらした。


「医務室」

「大学の?」

 久保塚は頷いた。「先生は寝不足だって言ってたぞ。起きられるか?」


 柏木はベッドから降りて、恐る恐る立ち上がった。

 意識は未だはっきりしないが、気分は少し良くなっていた。


「なんか変なスーツのおっさんが連れてきてくれたんだ」

「どれくらい寝てた?」

「俺が来て、十分くらいか? そんな経ってないぞ。ああ、おっさんは帰ったよ。あれ知り合いか?」


 柏木は久保塚に支えられ、カーテンをめくった。

 壁の時計は14時を指している。


「念のため病院行っとけってさ。ほら。歩けるなら今すぐ行っちまおう」

「……ついてくるのか? 自分の授業は?」


「今度ラーメンおごりな」久保塚は柏木を見ずに言った。




――――――・――――――・――――――




 柏木は久保塚の運転する軽自動車に乗り、近くの市民病院へ向かっていた。


 冷房が心地よい。

 汗はすぐに引いていった。

 

 柏木は助手席に座り、窓の外を眺めた。

 サラリーマンや、主婦や、制服姿の学生が歩いている。


 カフェで話した倉谷の言葉がよみがえる。


 ガリオンという名の化け物たちの侵略は、どこまで進んでいるのだろう。

 いまここから見えている人間が、人に化けたエイリアンの可能性だってある。


 柏木はふと、ポケットに紙切れが入っていることに気づいた。

 そこには電話番号とメールアドレスが書かれていた。


 柏木はそれをくしゃくしゃに握り潰すと、再びポケットに突っ込んで見なかったことにした。


 倉谷は、柏木に監視がついていると言った。

 今もそうだろうか。

 そういえば、大学の敷地の外で待機していると言ったモナは、どこへ行ったんだろう。


 そもそも、倉谷の言葉はどこまで信用できるのか。


 考えることに疲れ、柏木は背もたれに体重を預けた。


 ふいに振動があった。

 速度計の上に取り付けられたホルダーで、久保塚のスマホが短く振動した。

 見るつもりはなかったが、送信者が常盤であることが分かった。


「覗き見ヤロー」久保塚は柏木を睨んだ。

「悪い」柏木は素直に謝った。


「OKもらったんだよ。常盤さんに」

「……告ったのか?」

「まあな」

「デート何回目で?」

「一回目だよ文句あっか」


 柏木は口元を緩めた。「えっ、ヅカお前、なんだよ、いつの間にそんな」


「柏木、最近バタバタしてたから、言ってなかったんだよ」


 柏木は久保塚の肩を弱く殴った。「おめでとう」


「ありがとう」


「よくやった」柏木はもう一度殴った。


「運転中ですよ」久保塚は唇を尖らせた。


「アドバイスいるか?」

「だから、お前のだけはいらない」


 久保塚が笑い、柏木も乾いた笑いで返した。

 だが久保塚は、すぐに真剣な表情になった。


「……どれだけ切ったほうがいい?」


 柏木は笑い、しかし茶化すことなく伝えた。「深爪手前。ちゃんとヤスリかけとけ」


「……了解」久保塚は神妙に頷きながらハンドルを握り直した。



 久保塚のニュースを聞いて、柏木は少しだけ気が楽になった。


 そしてそのせいで、倉谷の言葉が現実感を伴った。


 例えば、久保塚が死んだらどうだろう。

 粘土のようにこねられ、臓器を取り出され、並べられる。

 資材だ。


 例えば、今、窓から見えているサラリーマンが死ぬかもしれない。

 子連れの主婦が死ぬかもしれない。

 楽しそうに談笑しながら歩いている学生が、死ぬかもしれない。


 両親が、死ぬかもしれない。


 畑のキャベツみたいに収穫されるのだ。


 それを止めるには、柏木がモナを篭絡し、人類の味方にするしかないという。


 夜の公園で、変形するモナを思い出す。

 強烈な映像は目に焼き付いて離れない。

 あんなのと一緒になる?

 恋人関係になる?


 柏木は投げ出すように窓の外へ視線を向けた。

 景色はとどまることなく流れていた。




――――――・――――――・――――――




 柏木は病院で医者に診てもらった。

 疲労がたまっていたのだと言われ、点滴を打ってもらった。


 よく食べて、適度に運動して、よく寝ること。

 医者はそう言っていた。


 柏木は、点滴を打っている間に久保塚を帰らせた。

 もう一人で歩けると判断したからだ。


 久保塚は最後まで悩んでいたようだったが、柏木に押され、帰っていった。



 柏木は点滴針の刺さった跡を軽く押さえながら、院内を一人で歩いていた。


 子どもを連れた母親、

 腰の曲がった老人、

 マスクをして咳込んでいる青年、

 それから忙しそうに歩き回る白衣の医療関係者たちとすれ違った。


 市民病院にはたくさんの人がいて、眩暈がした。


 柏木は病院の入り口を出て、ロータリー付近のベンチに座った。

 傾いた太陽が見える。

 今日も昨日と変わらず良い天気だった。



「いっちゃん?」



 柏木が顔を向けると、知っている顔があった。

 井口風香だ。

 彼女はジャケットとスラックスを着ていて、仕事を抜け出してきたようにも見えた。


 井口は柏木の顔を見るや、歩みを止めて隣に座った。


「どうしたの? 何かあった?」


 柏木はぼんやりした頭で答えた。「風邪ひいただけ」


「大丈夫? マスクあるよ」井口はバッグから新品出そうとする。

「いらない」

「顔青いよ。もう診てもらったの? 熱は?」


 井口は早口でまくしたてた。

 この前の気まずい雰囲気など、無かったかのようだった。


「そっちこそなんで病院に」


 井口は身を引いた。

 バツが悪そうに手をこすっている。「あー。その……」


 柏木は胸を締め付けられるような気分を味わい、わずかに腰を上げた。


「病気?」

「ちがうよ! その、子どもが、ね……」

「……できたの?」


 井口は頷いた。「さっき分かったの」


「おめでとう」柏木はベンチに座り直し、目を合わせずに言った。

「あ、ありがとう」


 心地よい風が吹いていく。

 じきに夜がくるだろう。


 柏木は病院から出てきた老夫婦を眺めた。

 杖をついて歩くおばあさんを、おじいさんが手助けしながら歩いている。

 仲睦まじい光景だった。


「兄さんが生きてたら」

 柏木はそこまで言ってから後悔した。

 こんなこと言うべきじゃない。

 だが言葉は止まらなかった。


「……生きてたら?」井口も遠くを見ていた。


「兄さんと結婚した?」


「……うん」井口は俯いた。「ゆうちゃんが死んだのは、いっちゃんのせいじゃないよ」


 何度も聞いた言葉だった。


「いっちゃんが無事で、うれしかったと思うよ」


 それも何度も聞いた。

 柏木は鼻から息を吐いた。


 兄さんは優しかった。

 だから俺をかばった。


 事故があった。

 柏木は道路に飛び出して、兄がかばってくれた。

 柏木は肩に傷を負うだけですんだが、兄は死んでしまった。


 もし事故が無かったら。

 俺が道路に飛び出さなかったら。


 あの日、兄と喧嘩しなかったら。

 俺がもっと大人で、兄と井口が付き合っていたことを、素直に祝えていたら。


 そもそも、

 俺が井口のことを好きじゃなかったら。


 俺の初恋の相手が、井口じゃなくて、別の人だったら。


 これまで何度も何度も想像した。

 頭が痛くなるほど繰り返している。



 柏木は一瞬だけ目を閉じた。

 少しだけ長いまばたきの間に、柏木はあり得た未来を想像した。


 兄と井口が子どもを作って、病院に来ている。

 名前を付けるところに、柏木も参加している。

 柏木の両親は手放しで喜んでいる。


 俺の隣には、誰か別の女がいる。

 顔は見えない。



 そんな未来は来なかった。

 来なかったのだ。


 兄は死に、井口は将来を約束した幼馴染との離別という絶望の淵から立ち上がり、別の男と愛を育み、子どもを授かった。


 それがすべてだ。


 柏木は、絶望の淵にいた井口を知っていた。

 兄が死んでからは、それはもうひどいものだった。


 そんな状態の井口を知っているからこそ、ここまで回復したことを、素晴らしいことだと思えた。


 柏木は、自分だけが足踏みをしていることを自覚していた。


 井口は乗り越え、きちんと前に進んだのに。



 視界の端に、金髪の美女が映った。

 モナだ。

 こっちを見ながら歩いてくる。


 足元には黒い猫がいる。

 大学でカラスと戦っていた、あの猫だ。



 ロータリーに車が停まった。

 運転席にいる男が手招きしている。

 井口は立ち上がった。


「ごめん、迎えが来たからいくね。体調が悪いなら送ってこうか?」


「いや」柏木はモナを見ている。「俺も迎えが来たから」


 井口は柏木の視線を追い、歩いてくるモナを見たが、何も言わなかった。


 井口の乗った車が去っていく。

 柏木はそれをいつまでも見送っていた。


 井口は兄の死を飲み込んで前に進んだ。

 そしていま、ようやく手に入れた新しい人生を進もうとしている。


 それを台無しには、できない。



「あれは誰? ユウのつがい候補?」


 モナはアイスクリームを手に持っていた。

 足元に黒い猫がいる。


「俺はモナとつがいに……、恋人になるよ」


 モナはアイスクリームを舐めるのをやめ、柏木を見た。


「回答に三日かかるんじゃないの?」

「もう決めた」

「人間ではないことを気にしていたのは?」

「些細なことだった。気づいたんだ」


 モナは何も言わなかった。

 表情からは何も読み取れない。

 戸惑っているのか、喜んでいるのか、それすらも分からない。


 だが柏木は構わなかった。


「まずはデートしよう。モナ。何がしたい」


 モナはアイスクリームのコーンをかじった。


「映画館へ行きたい」

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