表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/5

01_02 張り付く影

 昼になり、講義終了を示すベルが鳴った。


 柏木は顔を上げた。

 講義の内容はまったく頭に入ってこなかった。


 学生たちが一斉に立ち上がり、我先にと広い講義室から退室していく。

 教員はノートパソコンを閉じ、気だるげに荷物をまとめていた。


 柏木の講義ノートには、ついさっきまで書き込んでいた落書きがあった。

 美女が化け物の塊に変貌していく精巧な絵だった。

 赤や青のボールペンで色が付き、陰影が丁寧に書き込まれていて立体感があった。


「飯行こうぜ」

 前の方の席に座っていた久保塚が、最後列の柏木の元に来て言った。


 久保塚は柏木の落書きに目を落とした。

「うっわ、そりゃホラーか? それともSF?」


 柏木は慌ててノートを閉じた。

「なんでもない」


「あの後も飲んでたのか」

「まぁな」

「完全に死んでるなぁ」


 久保塚が笑った。

「昨日の戦果はラーメンでも食いながら教えてもらおうか」




――――――・――――――・――――――




 食堂は今日も学生で混み合い、がやがやとうるさかった。

 長テーブルがいくつも並び、料理を乗せた盆を持った学生たちが行き来している。


 柏木の目の前では、久保塚が安い醤油ラーメンをテーブルですすっていた。


 久保塚は背こそ高くないが、がっちりと肉厚な体格の男だった。

 首も腕も太く、ラグビー選手であってもおかしくない風貌だ。


 それに比べれば柏木は、すこし背が高いだけで、風が吹けば飛んで行ってしまいそうな、ひょろりとした男だった。

 今日は顔色の悪さも相まって、今にも死にそうな病人のようだ。


 柏木と久保塚の隣を、女学生の集団が通りがかった。


「うーわっ、ひっどい顔だぁ」

「大丈夫?」

「まーた飲み過ぎたんでしょ!」


 彼女たちは柏木の顔を覗き込んだ。

 けらけらと笑って、柏木の肩を気さくに叩く者もいた。


 柏木は疲れた顔のまま言った。「まだ飲める」


 彼女たちはそれを聞いてまた声を上げて笑った。

 悩みなんて何一つない顔で、柏木はうらやましくなった。


「この前は楽しかったよ。次はいつにする?」

 女子の一人が言った。


「ごめん、元気な時にまた連絡する」

 柏木はそう答え、力なくひらひら手を振った。


 女子の集団が去ると、久保塚が鼻から息を吐いた。


「おい伸びちゃうぞ。まじで二日酔いか」

 久保塚はもう半分以上食べていた。


「違うって」

 柏木は箸で麺を掴み、無理矢理自分の口に入れた。

 食欲は全く無い。

 湧いてくる気配もない。


「昨日も街に出てたんだろ。バイト代もつぎ込んで女漁りして……」

「そのためのバイトだ」

「あーやだやだこの子ったら」

「うるさいなぁ。お前は俺のお袋かよ」


「あなたいつも脱いだら脱ぎっぱなし」久保塚は図体に似合わず甲高い声を出した。「洗濯するの誰だと思ってるの! あらいつものお店にブランド物のバッグ。お父さんに黙って買っちゃいましょう」


「俺のお袋はそんなこと言わない」


 久保塚はげらげら笑い、柏木もついにつられて笑った。


 少し食欲が出てきて、柏木はラーメンを食べた。


 ラーメンが減るたび、昨夜の出来事が、どんどん現実味を失っていく。

 腹が減って気分が沈んでいただけだ、とさえ思うことができるようになった。



 昨夜、怪物へ変貌した美女を目の当たりにして、柏木は部屋から逃げ出した。

 そのままホテルのカウンターへ行き、従業員を連れて部屋へ戻った。

 しかし部屋には化け物もおらず、窓が空いてカーテンが揺れているだけだった。

 柏木は従業員の訝し気な目から逃れ、家に戻った。

 あのままだと薬物中毒者と疑われ、警察を呼ばれるところだった。


 こんなこと誰に相談すればいい。

 ナンパで釣れた女が化け物だったんですと言って、誰が信じる。

 証拠はない。

 柏木の証言が全てだ。

 まともに取り合ってもらえるはずがない。

 自分自身ですら半信半疑なのに。



 柏木は大きく息を吸い込んだ。


「……おい、お袋よ」柏木は久保塚の冗談に乗ることにした。「常盤さんとはどうなったんだよ」


 久保塚はコップの水をこぼしかけた。「あ、あらぁ、なんのことかしらぁ」


「お前の、アカペラサークルの、先輩の――」


「わかった。わかったって」久保塚は降参というふうに両手を挙げた。「何で知ってるの」


「アカペラサークルに知り合いがいるのはお前だけじゃない」

「……まさか」

「ホラー映画好きなんだってさ」

「おい!」

「言っとくが、女ならとりあえず声をかけるクソ野郎は俺だけじゃないからな。デートは? もう何か誘ったのか?」

「……まだなにも」


 柏木はため息をついた。「付き合いたいんだろ? 俺はいつもなんて言ってる?」

「先手必勝」

「具体的なアドバイスいるか?」

「いらない。どうせ下半身関係だろ」

「いいや上半身だ。手の爪はしっかり切っとけよ」

「いらん!」


 久保塚と馬鹿話をしながら食堂を出る頃には、昨日の出来事は、夢で見たような感覚にまでなっていた。




――――――・――――――・――――――





 柏木は電車を降りて、真夏の炎天下の中、実家へ向かって歩いていた。


 駅前のさびれたアーケード街を抜け、田んぼを脇に見ながら歩く。


 気がふれたように晴天の昼だった。

 蝉の鳴き声がうるさくて嫌になる。

 柏木はすぐに汗だくになって、白いシャツが張り付く不快感を味わった。


 自分自身の濃い影に視線を落とし、柏木は太陽にたっぷりとあぶられていた。


 ふと見上げると、電線の上にカラスがいた。

 カラスはこちらを見下ろしていたが、柏木と目が合うと飛び立っていった。


 住宅街を進むと、黒い野良ネコが、民家の塀の上で行儀よく座っていた。

 黒い猫は、まるで人感センサの付いた監視カメラのように、通りがかった柏木へ首を向け続けていた。

 奇妙な猫だった。



 そうして見慣れた道を歩き、しばらく進むと、実家にたどり着いた。

 小さな庭と小さな駐車場がある、古ぼけた家だ。


 玄関を開けると見知らぬ女物の靴があって、柏木は嫌な予感がした。


「雄一郎! おかえり!」柏木の母はエプロン姿のまま小走りで走ってきた。


「麦茶くれぇ」

 柏木は呻くように言いながら、母に手土産を渡した。

 中身は酒と茶菓子だった。


「あら、お土産なんていいのに」

「誰か来てる?」

「ふーちゃんよ。あんたも久しぶりでしょ」


 よく見れば母は目が赤かった。

 母は年を取って涙もろくなっていた。


「ちょっと待っててね、お茶用意するから」

 土産を手に、母は台所へ向かった。



 柏木は勝手知ったる我が家を歩き、洗面所からタオルを拝借すると、汗をぬぐった。

 そのまま仏間へ行って冷房の恩恵を受けた。


 若い女性が仏壇の前に座っていた。


 女性の名前は、井口風香。

 穏やかな雰囲気で、ブラウンに染めた長い髪はゆるくカールしている。

 長いスカートに、白いブラウスと、落ち着いた恰好だった。


 二年ぶりくらいだろうか。

 柏木は動揺が顔に出ないように、静かに深呼吸した。


「……久しぶり。元気だった?」


「まあ」柏木は目を伏せたまま仏壇の前へ進んだ。


 仏壇には、柏木の兄である柏木優也の写真が飾られていた。

 柏木は兄と並び、その隣には井口もいた。

 兄が高校を卒業する時の写真だった。


 柏木の兄が交通事故で死んで、ちょうど四年経っていた。

 今日は命日だった。


 柏木は仏壇の前で正座し、線香に火をつけると、嗅ぎなれた匂いが広がった。

 静かに手を合わせ、ほんの数秒間目を閉じた。


 柏木は仏壇から離れ、写真を眺めながら肩をさすった。


「痛むの?」井口が心配そうに言った。

「……別に」


 どたどたと足音がして、母が麦茶を盆に乗せて戻ってきた。


「はい麦茶」母は仏間のテーブルの上に麦茶の注がれたコップを並べた。「ふーちゃんもどうぞ」


「ありがとうございます」


 井口が受け取るよりも先に柏木はコップを掴み、一息で飲み干した。 


「あんた聞いた? ふーちゃん、結婚するんだって」母は涙声で言った。「本当に良かった……」


「ありがとうございます。おばさん」井口も涙目になった。


「ねぇ、本当に良かった。優也も喜んでるよ」

「だといいんですけど」

「あの子は優しい子だから。きっとそうよ」


 柏木はコップを置き、仏壇の写真を見た。

 高校生当時、柏木の兄である柏木優也は、幼馴染の井口と付き合っていた。

 二人は両親公認の仲だった。


「あんたは調子どうなの」


 母の話の矛先が、柏木に向いた。


「普通」

「ちゃんと大学行ってるの? バイトばっかりじゃないの?」


 柏木はボトルから麦茶を注ぎ、再び飲みだした。

 とにかく水分が足りなかった。


「あんた近くに住んでるんだからもっと帰ってきなさいよ。お父さんも心配してるよ」


 柏木の実家は、柏木が今住んでいる大学近くのアパートから、電車で一時間ほどのところにあった。

 確かに、帰ろうと思えば週に一回帰ることも可能だった。


「忙しいんだよ」

「大学が? バイトが?」

「両方」

「ご飯食べてる? ご飯。だめよコンビニ弁当ばっかりじゃ。お米送ろうか」

「うるさいなぁ」


 柏木は麦茶を飲み干した。

 氷がカランと音をたてた。


「ふーちゃんの旦那さんも役所勤めなのよ。あんたも将来のこと考えてるの?」

「ちゃんと考えてるよ」

「だったらいいんだけどねぇ」


 柏木は腰を上げた。「もう帰る」


「えっ? もう? お昼食べてかないの? もうすぐ父さんも帰ってくるよ」

「バイトあるから」


「そう」母も腰を上げた。「次はお土産なんていいんだからね」

「親父に飲み過ぎるなって言っといて」

「ならお酒なんて買ってこなければいいのに」


「あっ、私も帰ります。長々とすみません」

「いいのいいの! いつでも来てね。ふーちゃんはうちの子みたいなもんなんだから。次は旦那さんも連れてきてね」


 柏木は汗を拭いたタオルを洗濯機に放り込み、母に見送られて実家を出た。



「いっちゃん! 待って!」

 井口が走って追いかけてきた。


「電車でしょ。……駅まで一緒に行こうよ」


 柏木は答えなかったが、井口に合わせて歩みを緩めた。


 井口は日傘を差した。

 柏木に入るように促したが、柏木は目を細めて辞退した。


 沈黙が訪れる。

 柏木は、井口が会話のきっかけを探っていることを察した。


 二人の隣を車が通り過ぎていった。

 住宅街は道が狭く、二人は身を寄せ合って車を避けた。


「……今どこに住んでるの?」井口が俯き気味に言った。

「大学の、駅近くのアパート」

「あ、じゃあ結構近いね。私もそっちの方に会社があるから、近くのアパートに住んでるんだ」


 再び沈黙が訪れる。

 セミの鳴き声がとにかくうるさい。


 柏木はため息をついた。「……お袋が、迷惑かけたな」

「え」

「すごい喋っただろ。機関銃みたいに」


「おふくろ?」井口は笑った。「『おふくろ』だなんて、えっ、いっちゃんが? 変なの」

「……変かよ」

「変だよ。だって昔は『まーま』って言ってたじゃない」

「それいつだよ……」


「こんな」井口は手を胸のあたりに差し出し、当時の身長を示した。「くらいかな?」


 柏木は照れ臭くなって頬をかいた。

 井口はそれを見て嬉しそうに口角を上げた。


「迷惑だなんて。いろいろお話しできて楽しかったよ」

「お袋、寂しいんだよ」

「そう言うならもっとこまめに帰ればいいのに」

「忙しいから」

「そればっかり」

「社会人は忙しくないの?」

「それなりかな。残業もあるけど、大したことないよ」


「旦那さん、どんな人?」

「えっと」井口は首を傾げた。「物静かな人かな」


「同じ職場の人?」

 井口は頷いた。


 もう一度沈黙が支配した。

 柏木は手で目元を隠しながら、空を見上げた。


「……いっちゃんのほうは? 彼女できた?」

「別に」


「すっかり大学生って感じだね」

 井口は柏木のピアスを見て言った。


「ナンパばっかりしてるんだって? よくないよ、そういうの」

「どうして知ってんの?」

「噂になってるから」

「噂ね」

「この街狭いんだから、誰が見てるか分かんないよ」


 柏木はため息をつく。「誰が見てたって気にしない」


「だめだよ。そんなことばっかりしてちゃ。いっちゃんも、ちゃんとお付き合いして、いい人見つけなきゃ」


 井口は肘で柏木をつついてきた。

 昔みたいな雰囲気だった。


 指先が冷たくなった気がした。

 耳の後ろで、ザッっと音がした。


 柏木は足を止めた。


「いい人って、あんたの旦那みたいな?」


 井口は息をのみ、顔を青くしていた。

 怯えたように言葉に詰まっている。


「俺が他の女とヤって、何か迷惑かけたのかよ」


 柏木は早歩きになった。

 井口はついてこなかった。


 柏木はそのまま一人で駅へ向かった。

 田んぼの隣を通り、さびれたアーケード街へ向かう。


 蝉の声がうるさかった。


 電線の上にはまたカラスがいて、こちらを見下ろしていた。




――――――・――――――・――――――




 陽が傾き、ようやく過ごしやすい気温になってきた。

 駅周辺の通りでは、会社帰りのサラリーマンや、下校途中の学生が数多く行きかっている。


 柏木は隣町の駅前まで来て、白石という女性とデートをしていた。


 白石は柏木の隣でラジオ放送のようにしゃべり続けていた。

 だいたい大学の話や、意味のないバイトの愚痴で、柏木はほとんど聞き流していた。


 視界の端を背の高い女が通り過ぎ、柏木は心臓が飛び跳ねるのを感じた。

 盗み見ていた白石の胸元から目を離し、女の姿を追う。


 違った。

 金色の髪の外国人じゃなかった。


「ねえ聞いてる?」

 明るい茶色の髪を指で弄びながら、白石は言った。


「聞いてるよ」

「聞いて! 信じられないの! なんていったと思う? そいつ!」


「あー」柏木は考えるふりをした。「一発ヤラせて下さい」


「馬鹿! そんなこと言うか!」白石はわざとらしく一度咳払いした。「『俺ェ、マスク嫌いなんスよ。だから風邪移したらすんませンね』だって! はぁ? って感じでしょ。まじでありえない。くっそキモい!」


 白石の付けまつげが震えた。


「そいつやばいな」柏木は大げさに表情を変えて見せた。

「でしょ! おかしいよほんと……。はやく辞めないかなぁ。あー思い出したらムカついてきた」


「色変えたんだ」柏木は白石の目を見ながら言った。「いつ?」

「あー」白石は目を泳がせた。「ちょっと前かな。雰囲気変わった?」

「変わった」

「どう? 前のほうがいい?」

「うん。前のほうが似合ってる」


「はぁ?」白石は一拍遅れて笑った。「なにそれ! 正直すぎでしょ!」

「うそうそ。冗談。似合ってるよ」

「なーんかぁ、うそくさーい」白石は笑った。




――――――・――――――・――――――




 情事のあと、柏木がシャワーから出ると、白石は「ごめん、親に呼び出されちゃったから」と言って、先にホテルから出て行った。


 今回は街から少し離れた、普段利用しないホテルだったが、これは白石のチョイスだった。


 柏木は支払いを済ませ、ホテルを出た。


 人気のない薄暗い高架下を、駅に向かって歩いていく。

 終電まではまだ何本か余裕がある。


 白石は、自身に彼氏がいることを柏木に黙っているが、柏木はそれを見抜いていた。

 柏木も追求しない。

 体だけの関係だと割り切っているからだ。

 親に会いに行ったなんて、つまらない嘘だ。

 おおかた彼氏に呼び出されたのだろう。


 これまでの経験から、白石とはもうじき連絡を絶たれるという確信があった。

 もってあと二か月。

 半年後には連絡を取っていないだろう。


 柏木は構わなかった。

 白石とは付き合っているわけじゃない。

 他に相手はいるし、すべてダメになったら、また探せばいい。


 柏木は歩きながらスマホを取り出そうとして、前方の電灯の下に誰かが立っているのを見た。


 背の高い女が、仁王立ちでこちらを向けている。


「あ」柏木は間抜けな声を出した。


 逆光で顔が良く見えない。

 だがきらめく金の髪が、柏木の心臓をわしづかみにして、一歩も動けなくなった。


 線路を電車が通り抜け、風が吹いた。

 柏木の髪が、頼りなさげに揺れた。



 ――あの悪夢から、二週間経っていた。

 柏木は、「すべては夢だったのだ」と半分くらい思えるになっていたところだった。



 モナは黒いキャミソールにジーンズのショートパンツをはいていた。

 前回着ていたきらびやかなドレスとは違い、比較的一般的な服装だった。

 だが胸元は凶悪に盛り上がり、大胆に露出した太ももは光り輝いているようだ。


 モナはその長い脚を優雅に動かし、ゆっくりと歩いてきて、柏木の前で立ち止まった。


 モナの足元には真っ黒な猫がいて、柏木を見上げていた。


 柏木は怯えて目を閉じた。

 次の瞬間、頭からぱっくりと食べられていてもおかしくない。


 だが目を開けても、何も起きていなかった。


「どうだった?」モナは柏木の顔を覗き込んだ。


 柏木はぱくぱくと口を開いた。

 息ができない。


「……なん、なにが」


 モナはさらに顔を近づけた。

 蛇に睨まれた蛙のように、柏木は顔を背けることもできない。


「あの女との交尾。気持ちよかった?」

「え」

「どうなの?」

「はっ、はい」

「そう」モナは無表情に頷いた。「デートしよう」

「え」

「デート嫌?」


 モナの目は、青く輝く宝石のようだった。




――――――・――――――・――――――




 街灯に照らされながら、駅までの道を遠回りして歩くと、住宅地の端に小さな公園があった。


 使い込まれたジャングルジムと、ブランコがある。

 近くに住む子供たちが、ここで遊んでいるのだろう。


 柏木はさまようように公園に入った。

 モナは柏木のぴったり後ろをついてきた。

 黒い猫は公園に入らず、どこかへ走っていき、すぐに見えなくなった。


「ここは?」

「公園。子供たちが遊ぶところ」

「遊ぶ……」


 モナは公園を見渡し、ブランコに近づいて鎖を鳴らした。


「やりかたを教えて」


 柏木は怯えながら近づき、モナの隣のブランコに乗った。

 体重を移動し、ブランコのふり幅を大きくしていく。


 モナは柏木を見ながらブランコに乗った。


 長い金の髪が揺れ、ついでに胸も揺れた。

 柏木はつい胸を目で追ってしまって、すぐに逸らした。


「どう?」

「……合ってる。なあ、何しに来たんだ」

「まだ怯えてる」


 じっと見られながら、柏木は隣で更にブランコを漕いだ。

 こんな風にブランコに乗るなんて、いつ以来だ?


 きいきいと金属のこすれる音が響く。

 誰かが来ないか不安だったが、同時に誰かに助けてもらいたくもあった。


 手の中の金属が柏木の手のひらと同じ温度になったあたりで、柏木はついに口を開いた。


「俺を殺すのか?」

「なぜ」

「……秘密を守るために」

「それが目的なら、もう殺してる」モナはこともなげに言う。「良く考えたほうがいい」


 柏木は身構えた。「じゃあ一体……」


「目的なら、先ほど言った」

「デート?」

「私は人間社会に溶け込み、様々なことを学んだ。この社会では、一般的な男女はデートによって相手のことを知る。合っているでしょう」


 一体どこで何を学んだんだ。

 ナンパの横行する夜の街じゃないだろうか。


「つがいになる過程で、相手のことを深く知ることができる。そして男とつがいになるためには、まずはデートが必要」

「つ、つがい?」柏木は息をのんだ。「誰と、だれが」

「私とユウ。柏木雄一郎。あなたの趣味はなんですか?」


 きいきい。

 ブランコが鳴る。


 柏木は眩暈がしてきた。


 どこにでもいる大学生と、絶世の美女が、深夜の小さな公園で、並んでブランコを漕いでいる。

 柏木はその異常さを改めて認識した。


「趣味は何ですか」モナは柏木に気にせず続けた。

「え、映画鑑賞……」

「映画か。見たことがない。映画には種類がある。知っている。ユウは何が好きなんだ」

「俺の質問にも答えてくれ。お前は、なんなんだ」

「いまは私が質問している」


 柏木はブランコを降りた。「……これはデートと言ったよな」

「その通り」

「お互いを知るんだろ。俺が答えたら、そっちも答えて」


「それがデートか?」

「そうだ」

「つがいになるために必要な手順?」


 柏木は無理矢理頷いた。「そうだ!」


「分かった」


 モナもブランコを降り、柏木の正面に立った。


「質問に答える。『何』とは? 質問を具体的に」


 柏木は息を吸った。「人間じゃあ、ないんだろ」


「その通り。我々は『ガリオン』という名の種だ。人類とは違う」

「ガリオン? どこから来た。エイリアン、なのか?」

「こちらの番。どんな映画を見る?」

「れっ、恋愛モノだ!」柏木ははやる気持ちを押さえつけられなかった。「さわやか系の! ハッピーエンドのやつ!」


 モナは柏木に手を差し向けた。

 こちらの質問の番ということだ。


「どこから来た! 宇宙か?」

「我々の次元から」

「次元って、なんだ、異世界……、的な?」


 柏木はファンタジー映画を思い浮かべた。

 ドラゴンが空を飛び、魔法使いが火を放つ。


「異世界で間違いない。この世界とは異なる世界だから。週末の予定は? 一緒に映画を見に行こう」

「週末はバイトで行けない!」

「そう」

「何が目的なんだ」

「どうしてユウは何度も同じことを言わせるのか、理解できない」


 柏木は額に手を当てた。

 わざわざ異世界から来て、やることがこんな一般人を捕まえてつがいになること?

 信じられるわけがなかった。


 モナは顔を上げ、公園の外の街灯へ目をやった。


 そこには人影がいくつか立っていて、こちらをみているようだった。


 柏木もそれに気づき、助けを呼ぶべきか考えた。

 しかし、どんなふうに?

 悲鳴でも上げればいいか?


 柏木が悩んでいるうちに、人影はこちらに向かって――走ってきた。


 途中にあった花壇や車止めの柵を一息で跳び越え、複数の影がまっすぐ、モナと柏木に向かって迫る。


「――えっ」

 それから起きた一秒に満たない攻防を、柏木はほとんど認識できなかった。

 柏木にできたことは、間抜けな声を出して、腰を抜かすことくらいだった。



 人影は走りながら腕を振るった。

 五指が根本から外れ、頭部が鋭利に尖った甲虫に変形した。

 それらは羽音を立ててモナに突き進んでいく。


 甲虫たちは槍のような角を突き出していた。

 モナの柔肌に突き立て肉を抉ろうと飛翔する。


 だがモナに触れることは叶わなかった。


 虫たちは見えない壁にぶつかり、踏み潰されたように平たくなったからだ。

 モナの目が、青く光り輝いている。


 しかし襲撃者たちにとって、虫による攻撃は牽制でしかなかったようだ。

 虫が体液をまき散らしてつぶれるさまを見ても、構わず向かってくる。


 それらは若い男女の集団だったが、皆一様に目に光が無く、人形の群れのようだった。


 彼らは一斉に、様々な戦闘形態へと変形した。


 服が裂けて、筋肉が隆起する。

 腕が伸び、関節が増える。

 顎が外れ、牙が生える。

 頭部が二つに割れ、巨大な眼球が現れる。


 一瞬で変形を終えた怪物たちは、左右から、頭上から、足元から、モナに迫る。

 後方に控えた人影たちは、虫を飛ばし、不可視の力場を生成し、前衛を援護した。

 その動きはまるで訓練された猟犬のようだった。 

 

 モナは一切動かず、襲撃者の動きを観察していた。


 ――怪物たちが一瞬で変形を終えたとするなら、

 ――モナは一刹那で変形し、そして迎撃を終えていた。



 柏木は尻餅をついて、眼前の光景を目にした。


 血しぶきと、内臓と、肉片たちが、宙を舞った。

 怪物たちは両断され、穿たれ、ねじり潰され、焼き殺されていた。


 距離を取って援護に徹していた個体も例外ではない。

 前衛と同様に、無残な死を遂げていた。


 柏木は怪物たちの血を全身に浴びた。

 むせかえるような鉄の匂いがしたが、柏木は硬直していて咳込むこともできなかった。


 恐怖に縛られ、息ができない。


 一呼吸の間も持たず、怪物たちは滅ぼされた。 


 ――怪物たち?


 いいや、違う。

 本当の怪物は、目の前に立っている。


 モナの変形は、頭部と、胴体に限られていた。


 頭部は左側面がめくれるように開き、数個の目玉が筋肉の筋でつながって浮かび上がっていた。

 それらは光を反射する結晶のように、赤や青など様々な輝きを放っている。


 胴体では、肋骨の辺りから突き出した何本もの骨は、刃のように伸びて、怪物たちの血に濡れていた。


 モナは胴から伸びた骨で足元に転がる怪物の一体を突き刺し、持ち上げた。


 持ち上げられた怪物は、下半身が無く、顔が半分欠けていた。


 まだ生きていたのか、ただの神経の反射なのか、右手がピクリと動いた。


 瞬間、モナの複数の眼球のうちの一つが光を放ち、怪物は不可視の力場によって雑巾を絞るようにねじりつぶされた。


 残った血液を絞り出され、公園の地面が、更に血で染まっていく。

 

 何が起きているのか、柏木にはさっぱり理解できなかった。

 夢の中のような光景に、柏木は理性の手綱を手放していた。


 急速に曖昧になっていく五感のなかで、鼻をつく血の匂いだけが、これが現実だと教えていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ