01_01 始まりの夜
――これじゃあ人形とヤってるみたいだ。
柏木雄一郎は、目の前に横たわる裸の美女を前にして、そんな感想を抱いていた。
彼女は動かないし、声も上げない。
無表情で天井を見上げているだけだ。
気味が悪いし、そんな相手とベッドを共にしているなんて、空虚な馬鹿馬鹿しさがあった。
だが残念なことに――正直なことに、柏木の腰は動き続けていた。
そこは地方都市の、高級さを売りにしたラブホテルだった。
閉じられたカーテンの隙間からは、中途半端なビル群の夜景が広がっている。
室内は洒落た間接照明によってやわらかく照らされ、ムードを演出していた。
室内には、柏木の荒い息づかいと、ベッドのスプリングが軋む音が響いている。
柏木は一息ついて一旦動きを止め、横たわっている今晩の収穫品を見下ろした。
彫刻みたいに美しい容姿の外国人の女だった。
背は柏木よりも少し高く、175cmはあるだろう。
手足はすらりと長く、胸は豊かに膨らみ、弾力と張りがある。
シミ一つない白い肌の下には、青白い血管がわずかに透けて見えていた。
彼女の肉体は、まさに、非の打ち所がなかった。
街の電光掲示板で輝いている、人気の外人女優にそっくりだ。
幻想的な北欧系の顔立ちに、幼さが残っていて、いかにも日本人が好きそうな印象だった。
柏木は、その小さな頭部から伸びる、長い黄金色の髪に手を伸ばした。
これが地毛だなんて信じられない。
なめらかな手触りで、ずっと触れていたくなる。
どんなトリートメント使ってるの? なんてくだらない冗談を飛ばす気にもなれない。
「終わり?」
美女は長いまつ毛を揺らし、柏木の目を見て言った。
――驚くべきことに、女は流暢な日本語を話した。
日本で何年も過ごさなければ身につかないレベルだ。
「ちょっと休憩……」
柏木は答え、額の汗をぬぐった。
「あとどれくらいかかる?」
柏木は不安になって、女の顔に手を伸ばした。
普通の人よりも体温が低い気がするが、確かに生きている人間だった。
「大丈夫?」
柏木はいたわるように頬に触れた。
「……何が?」
「痛くないかなって」
「痛くない。好きにしていい」
美女は平然と答え、柏木を見上げている。
そこには一時の興奮も、捨て鉢な諦観もない。
女の手が柏木の胸元へ伸び、ゆっくりと撫でた。
女の目は、虫の交尾を観察しているような目だった。
不思議なことに、柏木は、その目に吸い込まれてしまいそうな気分になった。
柏木は再び女の上に覆いかぶさり、細い首元に顔をうずめた。
体臭はほとんど無かった。
肌の上に鼻先を近づけても、わずかに生き物の匂いがあることが分かる程度だ。
心臓の鼓動が伝わってくる。
だがそれはあまりにも静かで、ちゃんと生きているのか不安になるほどだった。
柏木は、うっすらと浮かび上がる肋骨の間を、親指で優しくなぞった。
――――――・――――――・――――――
柏木はガラス張りのバスルームで、熱いシャワーを浴びていた。
短く刈り込んだ髪を洗い、全身の汗が流れて気分が晴れやかになっていった。
美女は情事の後も特に態度を変えず、汗一つかかず、ベッドに横たわったままだった。
今も寝転がって天井を見ているだろう。
柏木は、あの美女が精神病棟から逃げ出してきた患者だと聞いても驚かない自信があった。
柏木はこれまでにも、心を病んでいる女や、薬に手を出している女と寝たことがある。
もっとも、ナンパして簡単についてくるのは、そういう何かしらの問題のある女が多いというだけかもしれない。
ともかく、柏木の――無駄に豊富な――女性経験の中でも、こんな女性は初めてだった。
良く言えば純真無垢。
だが、そんな言葉を当てはめるには、女はあまりにも機械的すぎた。
日本語が異常に流暢なのも、不気味である。
極めつけは、手荷物すら持っていなかったことだ。
まるでハリウッドの舞台に立つような、場違いにきらびやかなドレス一着だけだった。
「うあぁあぁ」
柏木は後悔のため息をついた。
――だからやめとけって言っただろ?
友人の久保塚の声が聞こえた気がした。
全くその通りだ。
どんなに美人でも、こんないかにも怪しい女に声をかけるべきじゃ、ましてやベッドを共にすべきじゃなかった。
だがそもそも、口説き落とせるなんて思わなかったのだ。
ダメ元だった。
こんなに上手くいくなんて、予想もしていなかった。
柏木は、情事の後特有の冷静な思考に苦笑いした。
出すものを出すと、男はこうなってしまうのである。
気を引き締めてバスローブを羽織り、タオルで頭を拭きながら浴室を出た。
美女は裸のまま立ち、カーテンの隙間から街の夜景を見下ろしていた。
見栄を張って、ちょっと良いホテルを選んでよかった。
普段の安いラブホテルでは、窓を開けて外を見るようなことはできない。
柏木は、美女の背中に見とれていた。
背中の中央を走る筋肉のラインと、くびれた細い腰と、引き締まったハート形の尻に釘付けになった。
エクササイズやトレーニングでは到達できない境地にあるように思える。
美しくあれと、誰かが作り出したような気さえする。
これほどの美女と一夜を共にできた奇跡を噛み締めていると、先ほどの後悔が嘘のように洗い流されていった。
柏木は自分の性の馬鹿馬鹿しさに呆れつつ、備え付けのケトルで湯を沸かしてインスタントコーヒーを入れた。
美女はカップを受け取り、コーヒーを一口含むと、自分の顎を触って、口の中をもごもごと動かした。
柏木は笑顔を作った。
「ブラックはダメ? 砂糖とミルクは?」
柏木は備え付けてあるポーションとシュガースティックを手渡した。
女は流れるような動作でそれらを、――口に放り込んだ。
柏木が止めるような時間は無かった。
女は容赦なく咀嚼した。
口の中でプラスチックの砕ける音がする。
柏木は動けなくなった。
女はやがて自分の手のひらに吐き出し、分別不能になった紙とプラの混合ゴミをまじまじと見つめた。
「これは食べ物じゃない」
女はそう言った。
あまりの光景に、柏木は目をそらした。
部屋の隅のゴミ箱を掴み、女に差し出す。
「こ、ここに捨てて」
「これは食べ物じゃない」
「分かったから、それ、ここに捨てて」
女は言われるままに、手のひらのものをゴミ箱に捨てた。
柏木は自分の見ているものが信じられなかった。
どう考えればいいのか分からない。
頭のねじが二三本外れているとしか思えない。
柏木は酸欠の鯉のように口をパクパク動かしていたが、女の呆けたような表情を見ていたら、なんだか笑えてきてしまった。
呆れからくる笑いか、質の悪いジョークを見た時の笑いか、柏木は自分でも判断がつかなかった。
「マジかよ、どこの病院から抜け出してきたんだ? ……それとも、地球に来てまだ日が浅い?」
「……なに?」
「人間じゃないだろ」柏木は茶化すように言った。
女の動きが止まった。「どうして」
「……え」
「どうして、そう思った」
女の言葉に、柏木は笑って見せた。
笑うしかなかった。
そんな言葉、真顔で言うことじゃない。
「人間じゃなかったら、どうする」女の目が細まった。
柏木はほんの少しだけ夢想した。
この女が精神病棟から逃げ出してきた患者などではなく、
これが一般人を狙った深夜番組のドッキリ企画でもなく、
大規模な心理学の実験に巻き込まれたわけでもなく、
ピントのずれた美人局でもないとして。
本当に、日常にはない何かが、この女の正体だったとして。
柏木はベッドからくしゃくしゃになったシーツをはぎとり、女の肩へ外套のように羽織らせた。
「……お名前は?」
柏木は美女に向かって、正面からそう言った。
「名前?」
柏木は照れ臭くなって咳込んでみせた。
「えーっと、俺は柏木です。柏木雄一郎」
「なに?」
「俺。俺の名前。柏木。雄一郎。長いからユウでいい。あなたは?」
女は考える素振りで、わずかに口を開き、何かに詰まって口を閉じた。
「モナ」
「モナ?」
「名前。モナ」
「……それだけ?」
「なにが」
「何でもない」柏木は手を振った。
「ユウ」モナは何かを確認するように言った。「ユウ。ユウ」
「はいはい」柏木はおどけて返事をして見せた。「なんでしょう」
――美女は、死体なんかじゃなかった。
柏木はこの段階になって初めて、モナが確かにここに存在していることを知った気がした。
ちょっと変なだけ、なんて前向きには考えられないが、もう少しくらい話をしてもいいかもしれない。
モナは柏木に向かってゆっくり左手を伸ばした。
彼女のほっそりした人差し指が柏木の頬に触れ、そして、モナはゆっくり目を閉じた。
キスでも待っているのかと思ったが、どうにも様子がおかしい。
モナは強制終了したPCのように、動かなくなっていた。
十秒経っても変化が無く、柏木は我慢できなくなった。
「えっと、大丈――」
――最初の変化は、柏木の頬に触れているモナの指先からだった。
丸みを帯びたピンク色の爪が、少しずつ伸びていった。
赤黒く変色し、鋭利に尖り、指、腕と、合わせて変化が続いていった。
瞬きの間に、モナの腕は人間の腕ではなくなった。
続けて、モナの左肩の肉が裂けた。
血は出ない。
裂け目には鋭い牙が並んでいて、それが何かの生き物の口なのだと理解するのに時間がかかった。
背の筋肉が膨れあがり、裂けると赤黒い肉塊があふれた。
中から人間の頭部よりもはるかに巨大な一つの眼球が現れた。
異形の目はぎょろぎょろと動いて室内を探っているようだったが、柏木を見つけるとぴたりと動きを止めた。
モナの皮膚を裂いて、肉塊は次々に現れた。
膨らみ、よじれ、それぞれが全く別の生き物の形を模っていく。
昆虫のようであったり、
魚のようであったり、
爬虫類のようであったり、
幻想の生き物のようであったりした。
モナの人間の部分は変異し、肉塊に飲まれ、徐々に減っていく。
多種多様な未知の生物の部位が、次から次へと現れ、そしてまた別の生物の部位へと姿を変えていった。
柏木はその現実感のなさに、唖然として動けなかった。
だが自分の頬に触れている怪物の爪は、その鋭利さを想像させるのに十分な圧力を放っていて、柏木はおかげで現実にとどまっていた。
目の前にあるのは、あふれかえる悪夢そのものだ。
『ゆウ』
悪夢は言葉を放った。
――増え続ける生物たちの、どの口から言葉が出ているのか、柏木には分からなかった。