第4話 『狂血』
その時ようやく沙織の目から光が消えている事に気付いた。まるで虚空を覗いているかの様な無感情な瞳。結人は一旦距離を取ろうと思ったが沙織の方が早かった。
ぐしゅぅ……。
「ぐっ――!!」
音と呼んでいいのか分からない鈍い音と感触が腹部から全身に広がっていく。結人はブレザーの前を閉めない派の人間で腹部を守っているのがシャツと局所的にネクタイだけ。
ソーイングセットの鋏で刺されたのは胸の上のあばら骨付近。骨があった事と一センチ程度の刃では到底心臓を破壊する事は出来ずに激痛に襲われるだけで済んだ。出血も脅威を感じる程ではない。
「ぐ……一体何のつもりなんだ」
「ねえ、結人君。私生きたいの……こんなところで死にたくないの……ねえ、だから死んでよ。私のために死んで……」
突き飛ばすようにして距離を取って改めて沙織を見るが、その表情から生気が感じられない。思考を捨てて本能で動いていればこうなるのだろうか。
「お願いだよ……彼女のお願いを聞けないの……?」
「冷静になれって!」
「こんなに頼んでいるんだよ」
刺された箇所は痛いが、構っている余裕がない。結人も緊張と不安で爆発しそうな意識を保っているとおもむろに沙織が靴下を脱いだ。タイツだったそれを手にくるくると巻いている。嫌でも分かる。あれで絞首でもするつもりなのだろう。
「くそが……」
非常によろしくない。
緊張とは違った汗が流れて来る。そして、嫌な出来事と言うのは重ねて起きる物なのだ。
「あいつら……」
この中で正常に動いているのは結人だけ。暴徒と化している連中の波がこっちに移動してきたのだ。既に数は減っているが暴動が治まる気配はない。つまり、今生き残っているのは喧嘩的に結構強い人。
「うわぁあああああああああああああああああああああああああああ!!」
その内の一人がこっちにやって来た。血走った眼に崩れた表情。一発のパンチで相手を数メートルふっ飛ばしている。恐怖から脳のリミットが外れてしまっている。格闘経験のない結人が一撃でも貰えばぽっくり行ってもおかしくない。
壁に背をついている前に沙織がいて、その後ろから男が迫って来る。このままだと沙織が背後から強襲を受けてしまう。
「――さ、沙織!」
反射的に体が動いた。殺されかけていても恐怖や緊張によって思考が狂っているだけ、人として、彼女として捨てられないのだ。彼女を腕で横に飛ばすと迫って来る男と対峙する。
対話をしても向こうに聞く意思が感じられない。確かに力は驚異的だが、思考が止まっている分対処するのは楽だ。
しっかりとタイミングを見計らって躱すと頭を持って壁にぶつけた。死んではいないと思うが痛かっただろう。しかし、こうしないと止まってくれないと思いやむを得ないのだ。
「ふぅ……沙織大丈夫がっ――!!」
対処出来て安心できた一瞬の隙に背後を取られて首を思いっきり絞められてしまう。
「これで、これで、私は生き残れるっ!」
「が……沙織……やめろ! こんな事をしても生き残れはしな……い」
「私は私は……」
「ぐぞが……聞いてねえ……」
沙織もリミットが外れているのか女性とは思えない力で結人がどれだけやっても振り払う事が出来ない。やがて意識が遠のいていく。余りに強く絞めているので首の骨も軋みをあげている。
――ここで死ぬのか。
――彼女のために死ぬ。それは美徳なのか。
――いや、違う。俺はこの死に方に納得していない。
――もっと正直になれ。俺は沙織のために死にたくない。
――俺の人生がこんなところで終わっていいはずがない。
――でも、俺にこれは振りほどけない。
――憎い。
――そうだ。憎い。これを仕組んだすべての人間。俺は守ろうとしたのに俺を殺そうとしている沙織。自分勝手に暴徒と化して暴れている馬鹿どもも憎い。お前達が冷静ならもっとやりようがあっただろうか。
憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い。
遠くなっていく意識のはずなのに鮮明に感じ始めた。湧き上がってくる感情は体を支配していく。脈打つ心臓の音が大きくなっていく。
そう、狂気に染まっていくのがよく分かる。
なんで、自分がこんな目に合わないといけない。理不尽に押しつぶされそうなのに、俺は何もしないのか。
いつだってそうだ。俺は我慢をしていたんだ。縛られたルールの中、優秀な妹の顔に泥を塗らないためにも劣等生なりに優等生を演じていたつもりだ。
ずっと嘘をついて、虚勢を張って、まあまあな見てくれで付き合ってくれた彼女には裏切られた。
なんだ? なんなんだこの仕打ちは? 俺が何をしたって言うんだ。今だってまじめに意識を保っている俺だけが苦しんで、他は思考を飛ばして成すがまま。いつも俺だけが損をしている。
だけど、ここはルール無用。だったら好きに生きていいよな。お前らだって俺を殺そうとしたんだ。
首に巻かれ強く絞められているタイツを手の取ると簡単に振りほどけた。どうやら結人も頭のリミットが外れた。後ろから絞めていた沙織は体を前に引っ張られる。そこをすかさず結人の右手が首を掴んで、沙織の体を宙に浮かせた。
「俺を壊そうとした。守らないと、守らないと。壊される前に全部……壊してやるよ」
「が……がぁ……」
もがき苦しんでいる沙織を一瞥する。その目は赤く染まって頬には流血が流れる。
「何も……壊させない……」
バギッ! 鈍い音が洞窟内に響いた。がくっと支えを失った頭部は項垂れて大きく見開いたまま命を絶たれた。肉塊と化したそれを無造作に捨てると、結人は自分の頭を抱えて体を揺らして懺悔する。
「ああ……俺は最低だな。憎いよ。俺は全部が憎い。彼女を殺した。仕方がない。本当に仕方がないで済むのか。駄目だ。このままだと彼女を殺したのが特別になってしまう。忘れないと……どうやって……簡単さ……殺しを日常にしてしまえばいい。どうせこいつらは助からない。だったら俺の礎になれ」
ゆっくりと未だ暴力の渦になっている中心部に進んでいく。
「痛い……痛い……なんだ……全身が痛い……」
一歩進むごとに一か所の皮膚が裂けて血が噴き出る。また一歩歩けば違うところから血が溢れ出る。渦中に到着する事には全身から血が流れ出ていた。しかし、流れた血は軌跡を描く事なく彼の周りに漂っている。まるで、彼を守る盾の様に。
――この感じはなんだ。俺は知っているこれを。
皮膚が裂けているのだ。全身から激痛が届いてきて少しでも気を抜けば倒れてしまいそうだが、今の自分が普通の自分ではない事はよく分かる。
この血は普通の血ではない。
結人の憎しみを始めとした負の感情で創り出された生きた血。
――俺はこれの使い方を知っている。
周りが結人に迫って来る。思考を止めている彼等には対象物の強弱を判別する事が出来ない。恐怖を感じている限りずっと暴力を振るうだろう。
「あいつらは言った最後の一人まで生き残れば出してやると、俺はまだ死ねない。だからみんな俺のために死んでくれ」
静かに手にした能力の名前を唱える。
「狂血」




