第1話 水鏡の乙女
夏休みスペシャル2本立て! と銘打って、この『降嫁おとめと守護ぎつね』のなろうさんへの転載と『香りの精霊の母になりました』第2章の連載を同時進行でぶちかまします。どうぞよろしくお願いします。
空気はしっとりと水分を含み、甘い花の香りをまとっている。
輝更義は大きくとがった耳を頭の両脇にピンと立て、太い枝の上、森を背負うように立っていた。
「はぁ……。つらい」
眼下に開けた光景を見つめながら、ため息混じりに両手を合わせる。
「あのお方が美しすぎてつらいので、とりあえず拝んでいいですか」
苔蒸した岩が細く高く、何本もそびえている。そんな巨岩群の合間から、山の斜面に張りつく赤い欄干に黒い格子窓の建物群が見え隠れし、回廊や階段でつながって下へと続くのが見えた。岩壁のすきまからは白糸のように、細い滝が幾筋も静かに流れ落ちている。
滝を眼下に臨む位置に、まるで広い舞台のような円形の見晴らし台が突き出ていた。輝更義の視線はそこに据えられたまま、離れない。
なぜならそこには、彼の憧れの女性が立っているからだ。美しい、年上の女性が。
高く結い上げた黒髪は、金の頭挿花を挿した両耳の上から肩に垂れている。袖のゆったりした前合わせの上衣と袴は浅黄色、黒い帯に金の帯締め。広がった裾から、小さな靴のつま先がのぞいていた。
この見晴らし台は、神に祈りを捧げる場所で、水鏡壇と呼ばれている。
花の形をした大きな水盤の上に、女性の手からひらひらと花びらが落とされた。彼女が歌うように祝詞を上げると波紋が広がり、小さな花びらは踊るように、水の上に模様のように広がった。
女性は緩やかに両手を合わせたり、片手を額や耳にあてたりする祈りの所作をしながら、水盤を見つめている。
緩やかに風が吹き、女性の羽織った薄物がほっそりした身体の周りを、天女の衣のようにふわりふわりと舞う。
「……今日も尊いな……霽月さま。こうやって霽月さまの占いを最前で見ていられるこの仕事、最高の中の最高……」
頬を緩めてはため息をつく、輝更義である。
山の奥深くに存在するこの建物群は、『祈宮』という。そして、彼がうっとりと見つめている女性こそ、祈宮の主である『祈乙女』だ。
祈乙女とは、ここ果雫国において、神と人の間に立つ神聖な職務である。占いを行うことで神の意志を人に伝え、また、神事を行うことで人から神への祈りを捧げる。
皇帝は、祈乙女の占いを元に政を行うのだ。
そして、祈乙女を含む皇族を守る『守護司』の任には、玄氏と呼ばれる一族が就いていた。
玄輝更義は、祈宮守護司の一部隊を任されている玄氏の武官である。
「静かだ……」
つぶやく彼の姿もまた、彼の一族が、とある神の血を引くことを示していた。
長い黒髪は後ろで一本にまとめられ、その頭の両脇の黒い耳が遠くの音まで拾おうと澄まされている。上衣は丸首の襟を首の横で留め、下衣は袴、その袴の隙間からどのように飛び出ているのかふっさりとのぞく尾は黒。剣の鞘と長靴、籠手は黒地に赤い模様が入り、赤茶色の瞳とよく合っている。
玄氏の本性は、瑞獣の黒狐なのだ。
普段は耳や尾を出したままだと女官たちに厳しく注意されるが、誰も見ていない今、そして周囲を警戒するべき時には、人間の耳よりも遠くの音を聞き分ける狐の耳を立てている。
彼が今まさに従事しているのは、水鏡壇で占いをする祈乙女に、誰も近づかないように見張る職務である。
祈宮では一旬(十日)に一度、次の一旬のことを占うことになっており、この日を毎回、輝更義は楽しみにしていた。
ふと、祈乙女・霽月の動きが止まった。
しばらくの間、彼女は水盤を見つめたまま静かに立っていたが、やがて身を翻した。占いが終わったのだ。
彼女が背後の床から突き出した柄を倒すと、見晴らし台の上を通る水路が開かれ、水盤の水が花びらとともに川へと流れ落ちていく。この花びらを下流で拾った民は、縁起物として身につけるという話を輝更義は聞いていた。
(むしろ俺が欲しいわ! 霽月さまのお手に触れた花びらとか! むしろ花びらを包む水になりたい! ……はぁー。さて、仕事、仕事)
祈宮の存在する山全体は神域であり、守護司は常にそこを護っている。輝更義はいい加減にうっとりするのをやめて、霽月が水鏡壇から降りるのを待ってから見回りの任務に戻ろうとしたのだが――
壇を降りる石段の途中で、霽月がふらりとよろけた。欄干にすがるようにして、座り込んでしまう。
「あっ」
反射的に、輝更義は枝から跳んだ。
いくつもの岩を足場に、一気に壇に近づく。女官は水鏡壇への立ち入りは許されておらず、祈乙女に何かあったときに助けられるのは、ここでは狐神の子孫である玄氏の者だけだ。
「霽月さま!」
ざっ、と石段に着地した輝更義は、霽月のそばに片膝をついた。
「いかがなさいましたか!」
「……あ」
欄干に捕まった手に顔を伏せていた霽月が、ゆっくりと顔を浮かせた。
伏せられた長い睫からのぞく、青みがかった黒い瞳。陶器のようななめらかな頬、薄紅色のふっくらした唇。その唇が、澄んだ声を紡ぐ。
「少し……めまいが。香に酔ったのかも、しれません。大丈夫です」
(わあああ! 霽月さまのお声! 祝詞じゃないやつ!)
輝更義は声をうわずらせてしまう。
「こ、香、ですか」
身じろぎする霽月から、馥郁とした、高雅な香りがふっと立った。香は、占いの場や占者を清め、邪気を払うために焚かれるもので、霽月の衣にも焚きしめられている。
狐の鼻は敏感だが、この香は祈宮ではよく焚かれるもので、輝更義は慣れていた。
「そ、それでは、早くお着替えを。下で女官が待っております。……よ、よろしければ、そこまで、お手を」
輝更義は、緊張でがくがくぶるぶると震える手を差し出した。もちろん、霽月に触れたことなど今まで一度もない。初めてである。
「はい……」
小さくうなずいた霽月は、ようやく顔を上げた。
二人の視線が出会う。
霽月の瞳に、ふと光が点った。
「……輝更義」
「えっ」
名前を呼ばれ、かちーん、と、輝更義は固まった。
霽月は、彼をじっと見つめる。
「輝更義、でしょう……? 小さい頃、山で熱を出した、あの……。違ったかしら」
「そ、その輝更義でございますー!」
輝更義は思わず、その場に平伏した。
(覚えていて下さった!)