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芹ケ野りさ(銀行員)【10】

「ひッ――い」

 恐怖が肺を突きあげ、しゃくりあげるような悲鳴が洩れる。りさは本能的に後退りかけ――その背中を、どん、と突き飛ばされた。まったく予期していなかった衝撃に、束の間、頭が真っ白になる。緩慢な時間の流れのなかで、血まみれの男の顔がみるみる迫ってくる。とっさにバランスを取り戻そうと、右の足を踏み出した。エレベーターの床を捉えた靴底はしかし、血溜まりにずるりと滑って宙に浮く。

 りさは血まみれの床にうつ伏せに倒れこんだ。

 頭上で人ならぬ咆哮が響く――だが、目のまえの男の存在も一瞬忘れて、りさは倒れたまま首をねじり、背後を振りかえった。彼女の目に、下唇をめくらせて歯を剝き出しにした川内の、恐怖に歪んだ顔が飛び込んだ。川内はすでに逃げだそうと半身をひるがえしかけており、倒れたりさの姿などまったく目に入っていないようだ。

 ――そんな、

 呆然とするりさの頭に、小さく、けれど激しい、電流のような認識がまたたいた。

 ――わたし、川内さんに突き飛ばされて……

 その衝撃が、怒りや悲しみに変わる時間はなかった。

 男が黒山の影となり、りさの身体に覆いかぶさった。

 嚙みつかれた脇腹で凄まじい痛みが暴れ、彼女は絶叫した。めちゃくちゃに腕を振りまわし、男の腹や太腿を殴りつける。だが男は、兇暴な力で彼女に絡みついたまま離れない。立ちあがって逃げようと必死に足をばたつかせるも、膝や靴底は血に滑るばかり。想像を絶する苦痛に思考を灼かれ、意思とは関係なく全身が指の先まで痙攣する。

 男がいったん顔を離し、それからより強く、より致命的な深部へと鋭い歯を埋めてきたのがわかった。

 喉が破れんばかりの悲鳴とともに、口から血飛沫が噴きあがる。

 目のまえの景色が色を失い、輪郭がぐにゃりと歪んでゆく。抵抗する腕からも、逃げようとする脚からも、どんどん力が抜けてゆく。

 なんで――。

 激痛と混乱に苛まれる頭のなかで、その片隅で、しかし小さな想いがまたたいていた。

 涙があふれて頬を流れたが、それが脇腹を喰い破られた痛みによるものなのか、それとも別のものなのかは知るよしもなかった。それに、意識が朦朧と揺らぐのにつれて、痛みは徐々に鈍いものへと変わってゆく。すでに悲鳴もかぼそく、途切れ途切れのものにすぎなかった。

 重い震動を腹の下で感じる。どろどろに溶けた視界のなかで、外窓の景色がゆっくりと上から下へ流れ出すのがわかる。エレベーターが動きだしたのだ。この密室に異常者と二人、閉じこめられたのだ。

 だがもはや恐怖も苦痛も感じる力は失せつつある。りさは唇の端と鼻腔から血を垂れ流しながら、最後の思考の切れ切れが訪うに任せていた。

 なんで、なんで、なんで……。なんでわたしは、いつもこうなんだろう。人を見る目がないんだろう。川内さんは既婚者だっただけじゃなくて、わたしを突き飛ばして見殺しにするような人だった……。なんでこんな人のこと……なんでこんな人についてきちゃったんだろう……。

 それは自責の念だった。自分を異常者のまえに放り出し、生贄にし、見殺しにした男への怨みや憎しみというよりも、そんな人間にすこしでも好意を持ってしまっていた自分に対する嫌悪――その人の本質を見抜けなかった自分への失望だった。そう、人間関係で失敗するたびに、彼女がいつも考えていたように。

 自分が悪いのだ。

 けれど……けれど、本当にそうなのだろうか。自分が悪かっただけなのだろうか……。

 エレベーターが五階に到着したときには、その想いも、闇に呑まれて消えていた。




―――――――――――――――

 芹ケ野りさ(29)

  Z化後の感染拡大  日置善文(38)の1人

  364日後、北朝鮮による九州各都市を対象とした核攻撃により死亡

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