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阿蘇由実(会社員)【10】

 自分になにが起こっているのだろう、どうしてみのりはここにいるのだろう、どうして独りなのだろう、娘を見てくれているはずの父はどこに行ったのだろう……疑問が泡のように、次々と弾けては消えてゆく。けれど今はそのどれにも答えが得られるわけもなく、そして考える時間もないことぐらいは由実にもわかっていた。助けを呼ばなくてはならない。自分がどれほどの怪我をしているのかわからないが、すくなくとも動くことはできそうもなかった。

「みのり……」

 絞りだした声はほとんど吐息のようで、みのりの耳に届いたか確信が持てなかった。けれど娘は顔をあげ、涙に濡れた大きな目でこちらを覗きこんだ。

「おかあさん?」

「みのり……おじいちゃん……呼んできて」

「おかあさん、血……すごい、血……」

 みのりはふたたびしゃくりあげた。抑えつけようとしていたパニックがまた鎌首をもたげる。どれほどの傷を負ってしまったのだろう? 頭が重くて眩暈がするのは血が足りないせいだ。一刻を争うのかもしれない。

「みのり……お願い、だれか……だれか、呼んできて」

 一言吐き出すたびに力が抜けていくような気がする。必死の思いで右手を動かして、みのりの胸を軽くたたく――たたいたつもりだったけれど、指先が胸のフリルをかすめただけだった。手先が冷たくなって震えていた。瞼が重い。視界はどんどん暗くなる。心は焦りが募ってゆくのに、思考と身体はむしろ緩慢になっていった。

 弱々しい指に押されるように、みのりは後ろに身を引いた。

「待っててね……」

 泣きながら数歩あとずさり、「待っててね!」と繰りかえす。走りだした娘の後ろ姿を見ながら、由実は全身に残った力をふりしぼって目を開きつづけた。闇はもう視界の半分以上を侵し、残った部分もぼんやり滲んでまともには見えない。頭の片隅、どこか醒めた部分で、もうだめだと――手遅れなんだと、なだめるような声がした気がする。

「……だれか……」

 唇からこぼれたその言葉は、けれど、もう、だれかを呼んできてほしいというみのりへの頼みではない。

 ――だれか、みのりを守ってやってください。

 近くにいるはずの父でも、ここにはいない夫でも、誰でもいい。

 私はもうみのりのそばにいてやれそうもないのだから。

 だれでもいい。だれか、だれか、みのりを守って。


 こんな唐突に、あっけなく、どんなかたちの準備もなく死ぬなんて。


 娘の背中が店外に消えたのと、重い瞼が鎖されたのと、どちらが先だったのかは由実にもわからなかった。




―――――――――――――――

 阿蘇由実(42)

  日本における最初期のアウトブレイク(九州南部)において、混乱のなか発生した事故で死亡

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