阿蘇由実(会社員)【8】
そして彼女は夢を見た――それがどこまで現実に侵食されていたのかはわからないけれど。
台風が暴れまわったあとのような騒然とした店内に、ひとり横たわっている。何かが突っ込んできた窓はぽっかりと空いた穴のようで、そこには駅前広場が見える代わりに、真っ赤な渦巻きがごうごうと音を立てている。まるで異界につながる門のように。壁も床もどろりとした黒い泥にまみれ――いや、壁そのものがどす黒く溶けて、由実の全身を覆うように流れてくる。痛みはない。だが動けない。横たわる由実の目のまえには、頭をもぎとられた洋子の身体。肉や血管や繊維やよくわからないものでごちゃごちゃと埋め尽くされた切断面をこちらに向けている。ぬらつくそれはしばらくビクビクと細かく痙攣していたが、やがて血がひと塊、ごぼりと溢れ出す。
店に飛びこみ洋子をすり潰したのは、巨大な芋虫だった。由実の眼の前にぬたりと横たわるからだ――白と赤が交互に渦巻くからだが、心臓の鼓動のように収縮している。皺だらけのすぼめた口唇部には小さな牙が何重にも並び、そこから何かが這い出してくる。人のかたち。真っ赤な人。頭はふたつにざっくり割れて、ねばつく血が顔や首や上半身を染めぬいている。芋虫から生まれる芋虫。身をくねらせながらどさりと床に落ちる。炯々と光る目がこちらを見つめる。由実は動けない。どろどろに溶けた壁に身体を包まれ、ずぶずぶと床に沈む。窒息しそうになる。
そのとき、何かが自分の手をにぎる感触があった。
ねばつく悪夢の光景のなか、見慣れた顔が――いちばん大切な顔が――なににも侵されていない娘の顔があった。
みのりの口が大きく動いている。おかあさん、と呼んでいるのだ。けれど耳のなかは、やすりをかけているみたいにざらついた雑音で満たされており、その声は聞こえなかった。娘は泣いていた。大きな両目――奥二重で小さい目のわたしの子がどうしてあれほど大きく、澄んだ瞳を持ちえたのか、いまだに軽い驚きを抱いてしまう――から、それに似つかわしくない小さな涙をぽろぽろとこぼしている。
こんな夢にみのりが出てくるべきではなかった。こんなおぞましい世界にいるべきではなかった。
(泣かないで)(はやく覚めて)(ああ、そんな世界が終わったような顔)(はやく)(終わって)(夢なら)
夢にまどろみながら由実は手を伸ばし、娘の頬に触れた。撫でてやろうとするが、かざした腕に力が入らず、掌が顔の表面をすべっただけだった。落ちかけた手を娘が支え、強く握りしめる。おかあさん、と唇がふるえるように動くのが見えたが、聞こえたのはかすかに語尾だけだった。けれどみのりは何度も繰り返している。おかあさん、おかあさん、おかあさん――、その声に導かれるように、すこしずつ夢がほどけ、現実が輪郭を取り戻す。




