阿蘇由実(会社員)【6】
由実は小走りにテーブルに近づきながら、ひとまず、つとめて笑顔を保っておくよう自分に言い聞かせた。
「ごめんね、待たせちゃったね」
「まだ時間じゃないよ。ごめんね、急に。ありがとう」
水を運んできたのは馴染みの店員で、いささか大きすぎるピアスが記憶に残る若い女性だった。注文票にアイスコーヒーを書きこんだ彼女がじゅうぶん遠く離れるまで、すこしのあいだ二人の間に沈黙が落ちた。洋子のまえに置かれたアイスティーは、グラスの結露がテーブルに輪を描いており、しばらくまえから待っていたのがうかがえた。中身はまったく手をつけられていないように思える。
由実は控えめに洋子の様子をうかがいながら待ったが、彼女の視線はテーブルの上を落ち着きなくさまようばかりで、色の薄い唇はかたく引き結ばれたまま開かなかった。
なにが彼女をここまで追いつめたのだろう? こんな彼女の姿を見るのは初めてだった――大学時代、既婚の文学教授に身も世もなく恋をした洋子が、駆け落ちしようかと思いつめて相談してきたときも、これほど深刻な表情はしていなかった(あのとき由実は全身全霊をかけて引き止めたものだった)。
由実は急に不安に襲われた。自分に手助けできることだろうか? 偽りのない誠意と友情から、当然のように手を差し伸べるつもりでこうして会ってはみたが、自分の手に負えることだろうか。“お願い”と電話では言っていた……なんだろう……お金のことなら、多少は用立てできないこともないけれど……。それとも、洋子か家族の誰かが大きな病気をしたとか――悪い想像は頭をめぐるが、このまま黙ってコップの水を見つめていても埒が明かないことは、もちろんわかっていた。
「だいじょうぶ?」
ささやくように問いかけたつもりだったが、洋子がびくりと肩を震わせて怯えた目を向けてきたので、由実はすこし口をつぐんだ。一言ずつゆっくりと、なだめるような声を心がける。
「お願いがあるって言ってたけど――どうしたの?」
洋子は口を開きかけたが、ためらうようにまた閉じ、窓の外に視線を逸らした。洋子もつられてそちらを見やる。ちょうどバスが走り去るところで、目のまえの停車場には、夕陽でほんのり茜色に染めあげられた降客がまだ多く残っていた。彼らがいぶかしげな顔で一方向を――自分から見て左のほうを――見つめているのに、そのとき由実は気づいた。そして救急車のサイレン――今まで耳に届いていながら意識していなかったその音にも。事故でもあったか、それとも誰か倒れでもしたのだろうか……。




