なんとなく、歩む
今年は中途半端な夏だったと思う。
この感想を抱いたのも、夏が終わるかどうかという曖昧な日にちだった。
そのせいもあってか、今の気持ちを助長させてるのかもしれない。
別に気温は高いままだったし、汗をかかなかった訳でも、薄着にならなかったこともない。
蝉の五月蝿さも例年と大差ないはずだ。
それでも中途半端だと思えた。
良い加減な意味ではなく、本当に思いきりの夏ではなかった。
そこで、ふと思う。
ではいつ、どれがどう夏だと思えたのか、と。
雲っ子一つの無い、言わば快晴の中の日照りに焼かれながら帰った下校途中か。
粘り気を帯びた、鉄のように苦くなった唾に変わるほど汗を垂れ流して動いた、運動会の練習か。
梅雨の大雨に馬鹿な気分になって、傘をささずにはしゃいで濡れた帰り道か。
そういった過去を振り返ると、不思議と体が熱くなって、ノスタルジックな気分になる。
その時と特別何かが変わった訳ではない。
別にその時と今も住む場所は変わっていない。
行こうと思えば自転車で簡単に、近場のコンビニよりは少し面倒くさいが、それでも辿り着けるような、そんなところ。
けれどそういった場所にでも行けば、もしかしたら今でもその時と同じ気持ちに戻れるのだろうか、あの夏に。
そんな問いを、けれどそれは多分違うなと思った。
そこへ行ってももう無いのだから、あの時の自分の季節は。
だってあの時の、あの日々は何かが違ったから。
だらけて起きた昼間の日差しや、蝉の鳴き声を聞きながら漕いだ自転車のペダル。
映画館の暗くなった座席で、始まれば忘れるドキドキを噛みしめながらも待ちきれない高揚感。そして観終わったあとの後味。
無駄に消費する日々が。暑さや祭りごとが。ただただ特別に感じられていたから。
その時の夏は、非日常を与えてくれていたからだ。
自分は何かをしている。なにか楽しくて素晴らしいものを感じられている。そんな錯覚に浸っていた気がしていたのだ。
もしかしたら、それは童心や幼心、純粋な気持ちがまだ残っていた証拠なのかもしれない。
――いや、それも違うのかもしれない。
また、思わず否定の言葉が浮かぶ。
それをそう思えるのは振り返った今だからなのかもしれない。
ただ過去を美化していただけで、その時の自分は特別を、非日常を見向きもしていなかったかもしれない。
幸せな事を当たり前だと疑いもせず。
それどころかその時は不平不満を感じていたのかもしれない。
けれど、その時と今はやっぱり違う。
何かが違った。
では、それはなんなんだろう?
その答えが解れば、この煮え切らない夏の正体を知ることが出来るのかもしれない。
――と、ガ○ガリ君を頬張りながら、ぼやっと物思いにふける、夜のコンビニからの帰り道であった。
了