6 子供たちの帰郷
翌日。
この日は、雲も少なく、とてもいい天気だった。
空気は肌を刺すほどに冷たく、また澄んでもいた。
そんな寒い日ではあるが、家の裏手にある、材木置き場のすぐ脇で、イジャスラフら三人が何かをしている。
彼らは、セルゲイの弓仕草を黙って見守っていた。
セルゲイの目の先には、無造作に積まれた丸太が一つある。
彼は、よく狙いを定めて、限界まで弦を引き絞り、そして離す。
鋭い、風を切るような音を立てて、矢は丸太に突き刺さった。
「よーし、なかなかの腕だな」
腕を組みながら、イジャスラフは、うんうんとうなずく。
「でも、指が痛い……」
痺れる痛みの手をさすり、セルゲイは苦笑いしていた。
「そりゃそうだ。この弓は、合成弓だからな」
「合成弓?」
その手にある弓を見て、セルゲイは首を傾げた。
「ああ、南方の遊牧民が使うものだ。木を複数種と、獣の腱を貼り合わせてある」
ここ、ルーシの地では、弓と言えば、一種類の木材から作られた単弓が主だった。
だが、南方の草原地帯に住まう遊牧民は、独自に開発した威力ある弓を用いていた。
それが、合成弓だった。
彼らは、木材を複数の板状に加工して、それらをにかわで接着し、さらに獣の腱と角などで貼り合わせたものを、戦いや狩りに使用していた。
弦も、苧麻ではなく、鹿の腱を使い、切れにくく、かつ長持ちするものを使い、その弦をも易々と引き切れるように、日々、その身を鍛えていた。
「昔、南の奴らとやり合った時に、その技術を知ったんだ」
若かりし頃の思い出を探っているのだろうか、彼はあごひげを撫でつけて、うんうんと頷いていた。
「すごいなあ、イジャスラフさん」
「イリヤー、これがあれば、お前を助けられるよ」
白樺装飾の、聖なる剣を持つイリヤーを見て、セルゲイは自信ありげに笑っていた。
「えっと、それで、イジャスラフさん」
「何だ、イリヤー」
大柄な彼を見上げるように、小さなイリヤーが、声をかける。
「僕たち、村に戻ろうと思うんです」
「……そうか」
イジャスラフは、なんとなく、それに気づいていた。
この子たちは、剣を作って欲しいと言ってやって来た。
とすれば、完成した暁には、彼の元を離れ、また旅立つことになるのも、当然だった。
彼の心に、隙間風が吹き始めていた。
――寂しくなるな。
引き留めようと思えば、いくらでも出来る。
だが、それは、単なる自分のわがままだというのも、彼は充分に承知していた。
この子たち、特にイリヤーは勇者として選ばれたのだ。
その歩みを邪魔してはいけない、邪魔をするのは、悪しき者と決まっているからだ。
「イジャスラフさん」
イリヤーが、ぺこりと頭を下げた。
「今まで、お世話になりました」
「……その挨拶は、まだ早いんじゃないか」
「えっ」
顔を上げ、イリヤーは驚いていた。
「最後に、飯ぐらい食っていけ。挨拶は、その後だ」
「はい!」
元気よく、返事をする様子に、イジャスラフは微笑んでいた。
家にて。
「そうかい、寂しくなるねえ」
食事の支度をする妻のスヴェトラーナに、イジャスラフは、イリヤーたちのことを伝えた。
「もっと、ゆっくりしていってもいいのにねえ」
「イリヤーには、使命がある。引き留めるのも野暮だ」
かまどの鍋をかき回し、彼女はスープの味見をする。
「あたしは、引き留めるつもりはないよ。ただ、慌ただしいと思っただけさ」
スヴェトラーナは軽く頷くと、鍋を火から下ろした。湯気の立ち上る鍋からは、おいしそうな匂いが、漂っている。
「そういうあんたは、ゆっくりしてほしいって、思ったんじゃないのかい?」
「俺は……」
幼い頃から一緒だった妻は、彼の心の内を覗くのに、長けていた。
楽しい時や辛い時、いつも彼女は側にいて、彼と共に思いを分かち合い、励まし、慰めてきた。
そんな彼女が、イジャスラフに問いかけている。
本当に、それでいいのか、と。
「俺は、思っていない。イリヤーには、一刻も早くドラゴンを倒せと願っている」
「強情だねえ、あんたも」
そう言って、スヴェトラーナは少し困った顔をしていた。
食事も済んだ二人は、居間でスヴェトラーナから、手土産を渡されていた。
「はい、イリヤーちゃん、セルゲイちゃん」
二人の手に持たされたもの、それは、暖かなフェルト地のマントであった。
「道中、雪が降るかもしれないからね。寒くないように、これを着なさい」
「おばさん、ありがとう」
「ありがとうございます」
ふかふかの手触りのマントは、揃いの動物文様が刺繍されていた。
家事の合間の時間に、彼女は子供たちのためにと、それを懸命に縫っていた。
一針、一針、願いが叶うようにとの、祈りと願いを込めて。
食事や洗濯、掃除に水くみ、それらをこなす傍らに、彼女は針仕事を進めた。
その様子を、イリヤーとセルゲイの二人も、家事の手伝いの合間に、たびたび目にしていたのだった。
「おばさん」
マントをしっかりと握りしめ、イリヤーは頬を紅く染める。
「僕、おばさんのこと、本当のお母さんのように、思っています」
その言葉に、彼女は思わずイリヤーを抱きしめた。
「ありがとう、ありがとうね、イリヤーちゃん」
イリヤーの赤い頭を撫でながら、スヴェトラーナは涙を浮かべた。
彼の髪は、イジャスラフと同じ、赤い髪である。
ふわりと、炎が燃え上がるような、クセのある赤い髪だ。
彼女が遠い昔に見た、夫と同じ姿が、ここにあった。
家の前にて。
イリヤーとセルゲイは、旅支度を調えて、二人に見送られようとしていた。
「それでは、イジャスラフさん、おばさん」
まっすぐ前を見据えて、イリヤーは大きな声で、それを言う。
「今まで、お世話になりました」
そう言い切り、頭を深く下げる。
「このご恩は、忘れません。ありがとうございました」
彼に続き、セルゲイも頭を下げる。
「イリヤーちゃん、セルゲイちゃん、また機会があったら遊びに来てちょうだいね」
「はい」
涙を浮かべながら、笑顔で見送ろうとするスヴェトラーナに、イリヤーも思わず涙ぐむ。
「ドラゴン退治ね、頑張るんだよ。絶対に倒しなさいね」
「はい、頑張ります」
鼻を赤くして、イリヤーは元気よく答えた。
「ほら、あんたも何か言ってやりなよ」
彼女は、傍らのイジャスラフをつつき、何か話すように促した。
だが、彼はつつかれても、何も話そうとせず、もごもごと口籠もるばかり。
「あんたってば」
背中を少し強めに叩かれて、そしてようやく、彼は口を開く。
「あ、あー、その、なんだ」
目を伏せ、イジャスラフは、言いづらそうにする。
「イリヤー、セルゲイ、頑張れよ」
彼は、無理矢理作った笑顔で、それだけ言った。
「はい、僕、絶対頑張ります」
聖なる剣を掲げ、イリヤーは大きくうなずいた。
「それじゃあ、二人とも、元気でね」
「はい、イジャスラフさん、スヴェトラーナおばさんも、お元気で!」
イリヤーとセルゲイは、手を振り、大きくその足を踏み出した。
「ありがとうございました、さようなら!」
「さようなら、イリヤーちゃん、セルゲイちゃん」
「さようならー!」
子供たちの元気な声が、青空にこだまする。
次第に小さくなる二人の後ろ姿を、イジャスラフとスヴェトラーナは、ずっと見えなくなるまで送っていた。
「行ってしまった、ねえ」
赤い髪が、森の向こうに消えた後、彼女はぽつりと呟いた。
「あんた、これで、よかったのかい?」
その言葉に、イジャスラフは何も答えず、黙って家へと入っていった。
「……本当に、強情なんだから」
彼女もそう言うと、家へと戻っていた。
家の中。
居間の椅子に腰掛けて、イジャスラフはどこか遠くを見る目をしていた。
さっきまであった、子供たちの、楽しそうな声、そして賑やかな足音。
それすらも、今は無く、静かな二人だけの時が、再び流れはじめていた。
――本当に、行っちまったんだな。
最初は、おどおどとしていた、イリヤーの緊張した顔だが、それも長い時間を経るごとに、次第にほぐれ、彼は笑顔で旅立っていった。
本当ならば、イジャスラフも、心からの笑顔で見送れたはずなのに、彼はそれが出来なかった。
偽りの笑顔で、別れの言葉も言えず、心にわだかまりを残したままだった。
力の無い、彼の目から、何かがこぼれ落ちた。
一粒、二粒、それは留まるところを知らず、次々にあふれ出る。
イリヤーの、あどけない笑顔が、彼の胸を締め付ける。
小さな勇者は、あの子は、無事にドラゴンを倒せるのだろうか。
いくらシャマンの加護があるとはいえ、彼はまだ子供なのだ。
三つ首のドラゴンを相手に、上手く立ち回れるのだろうか。
そして、己の作り上げた、聖なる剣で、どうやって戦うというのだろうか。
イジャスラフの胸に一つの不安が、かまどの焦げのように、こびりついていた。
「ねえ、あんた」
エプロンの裾で、彼の涙をそっと拭い、スヴェトラーナは話しかけた。
「そんなに心配ならさ、行きなよ」
そう言いながら、テーブルの上に、重い彼の荷物が置かれた。
「あの子たちの、働きぶり、見届けてやりなよ」
そして、毛皮のマントも、彼女は持っていた。
「イリヤーちゃん、あんたそっくりだものね」
イジャスラフと同じ、赤い髪のイリヤーは、あの雪の日に消えた、小さい炎のような髪の少年だ。
彼は、目を真っ赤にして、微笑む妻を見つめた。
「後悔するぐらいなら、行ってきなさい。あんたは見届ける義務があるよ」
「でも、かあちゃんを置いては……」
「あたしはいいよ、あんたの留守番程度は出来るからさ」
そう言われ、彼は立ち上がると、妻の身体を抱きしめた。
一人で抱え込んでいた胸の内の心情を、見抜いてくれたことと、踏み出す勇気をくれた感謝の意を込めて。
「かあちゃん、ありがとう……」
「安心しなよ、あたしはここで、ずっと待ってるから」
子供をあやすように、彼女は夫を優しくさすってやった。
「ほら、急がないと、あの子たちに追いつけなくなるよ」
「……そうだな」
イジャスラフは、大工道具をまとめ、荷物袋を持ち、毛皮を羽織った。
「じゃあ、かあちゃん、留守を頼むよ」
「あんた、気をつけなよ」
玄関の扉を開け、彼は笑顔で家を出る。
「いってくるぞ」
「いってらっしゃい」
お互いに笑顔で、そう言葉を交わす。
長年、連れ添った妻は、いつものように、彼を見送った。
森の中の道を、二人が歩いている。
「ねえ、セルゲイ、それどうしたの?」
弓をいじるセルゲイの手を見て、イリヤーが問いかけた。
「これか?」
彼の手には、指から手の平を覆う、革の当て物が付けられている。
イリヤーは、それを興味津々であった。
「これな、イジャスラフさんがくれたんだ。手を守るようにって」
とても強いセルゲイの弓は、素手で引き続けると、いずれ手に傷を負ってしまう。
それを防ぐためにと、イジャスラフは、彼にそれを渡したのだ。
とは言っても、端切れの革に麻紐を通しただけの、シンプルなもの。
「それに、もっと軽々引けるようにならないと、いけないしな」
セルゲイは弓を構えて、弦を思い切り引っ張った。
合成弓の弦を引き切ることは出来るのだが、かなりの体力を使う上に、腕の震えで照準も合わせるのは難しい。
「村に戻るまでに、慣れないと」
ゆっくりと弦を戻し、セルゲイは笑った。
「僕も、この剣に慣れないと、いけないよね」
イリヤーも、腰に下げた剣を、すらりと引き抜いた。
彼の手にあるそれは、日の光を浴びて、銀色に輝いていた。
「錆だらけだった、僕の剣。イジャスラフさんが、生まれ変わらせてくれたんだ」
「本当に、これが錆まみれだったって、信じられないよなあ」
金属で出来た剣には、鏡のように、森の木々が映り込んでいる。
青い空に、白い雲、緑の森を落とし込み、剣はこの世界をその刀身に宿す。
「この剣と、聖なるベレスタの剣。イジャスラフさんのためにも、僕は頑張る」
澄んだ瞳で、真っ直ぐに前を見つめ、イリヤーは、そう誓った。
「よーし、まずは村に帰らないとな。帰って、準備をして、やることはたくさんだ」
「そうだね、セルゲイ」
二人は街道をテクテクと歩く。
口から、白い息を吐きつつ、揃いのマントを靡かせて、彼らは歩き続ける。
そうして、しばらく歩いた後、背後から声をかけられたような気がした。
「セルゲイ、何か言った?」
「いいや、何も言っていない」
イリヤーは首を傾げ、また歩き続ける。
「ぉーぃ」
またも、声がする。
二人は立ち止まると、振り向いた。
「おーい、イリヤー!セルゲイ!」
街道の向こうから、荷車に乗ったイジャスラフが、大きく手を振っていた。
「あ、イジャスラフさん!」
イリヤーも大きく手を振り返し、一目散に彼の元へと走り寄っていった。
「イジャスラフさん、どうしたの?」
そう疑問を投げかける彼だが、不思議と声は弾んでいた。
「イリヤーたちが心配でな、俺も一緒に行くことにしたんだ」
荷台に上がる彼を抱きしめて、イジャスラフは嬉しそうに語った。
「イジャスラフさん、僕、嬉しいよ」
「俺もだ、イリヤー」
まるで父親が子にするように、イリヤーは彼の大きな手で、頭を撫でられた。
「どうしたんですか、一体?」
驚いた顔で、セルゲイが言った。
「お前たち二人のドラゴン退治、俺も手助けさせてもらうぞ」
「ええっ、本当ですか?」
「ああ、本当だとも」
満面の笑みで、イジャスラフはそう答える。
「ほら、セルゲイ」
手を差し出し、彼はセルゲイを荷台に引き上げた。
「二人とも、しっかり掴まっていろよ、ちょいと飛ばすからな」
ピシリ、と馬の尻に鞭が入る。
馬は軽くいななくと、その足を動かしはじめた。
ゴトゴトと音を立てながら、イジャスラフ一行は、森の中を駆け抜ける。
澄み切った空に、白い雲が、二つ三つと浮かんでいた。