4 勇者の目覚め
翌日。
朝日差し込む森の中を、三人は歩いていた。
――険悪だな。
そう思いながら、イジャスラフは後ろを見る。
背後では、顔にアザと腕に包帯を巻いたイリヤーと、ぶんむくれた顔のセルゲイがいる。
彼は大きく白い息を吐いた。
昨夜のこと。
イリヤーのケガの原因は、やはりセルゲイだった。
剣を貸せ貸さないとの口論の末に、殴られたとのことであった。
ただ、殴られながらも、イリヤーは剣だけは死守したようで、何故か嬉しい気持ちであったと語っていた。
その後、アザと打ち身の手当をしたイジャスラフは、セルゲイと一緒の部屋で寝かせるのは、まずいと判断し、自分たち夫婦の部屋で眠ることを勧めた。
最初のうちは、恥ずかしがっていたイリヤーだが、あの部屋に戻って、また殴られるのも嫌だとの思いもあって、やむを得ずイジャスラフと共に眠ることにした。
いつも、一人寂しく眠っていたイリヤーだが、両脇を優しい夫妻に囲まれて、彼は、生まれて初めて、心から安らぎ、就寝することができたのである。
一方、セルゲイは、イジャスラフに説教をされたあげく、床で寝て反省しろとばかりに、ベッドをひっくり返されてしまっていた。
売り言葉に買い言葉で、彼はそのまま床で寝ようとしたのだが、下からしみこむ寒さがきつく、音を上げそうになりながらも、なんとか眠りについていた。
そして今朝。
打ち身で節々の痛みがあるイリヤーと、寝不足のセルゲイを思って、イジャスラフは、今日の伐採作業は延期としたかったのだが、二人とも今日がいい、と主張するために、渋々出かけることになっていた。
「お前、イジャスラフさんに、気に入られてるな」
セルゲイが、目を合わせずに言う。
「セルゲイの、気のせいだよ」
腕をさすり、イリヤーも答える。
さくさくと鳴る、霜柱を踏みながら、二人はイジャスラフを追った。
森の中、軽快な音がこだまする。
イジャスラフは、腕を大きく振り上げ、重量のある斧を、木に叩きつけた。
ある程度まで切れ込みを入れると、反対側からも斧を入れる。
小さく爆ぜる木の繊維の音を、彼は敏感に聞き取り、やがて二人を遠ざけた。
「危ないぞ、離れていろ」
ゆっくりと、大木がその身を横たえる。
腹に響く轟音をたてて、森の立木は木材へと変化していた。
「よし、一休みするか」
そう言い、彼は二人を、別の朽ちていない倒木に、座らせる。
二人の距離は、微妙に隙間ができ、冷たい風がその間を通っていた。
「これで、必要な材は伐ったな。後は白樺か」
先ほど伐った木を見やり、彼はつぶやいた。
「イジャスラフさん、白樺はどこにあるの?」
イリヤーが、疑問を投げかけた。
「白樺はな、ここより、ちょっと離れたところにある」
「やっぱり、白樺の木も伐るの?」
その問いに、彼は笑った。
「いいや、伐らない。表面の皮だけ頂くんだ」
手で、その動きをして見せる。
「皮をいくつも、いくつも重ね合わせて、そしてベレスタが出来上がるんだ」
イジャスラフの言葉に、イリヤーは目を輝かせる。
セルゲイは、それを面倒くさそうに眺めていた。
「あ、そうだ、これ」
イリヤーは、腰につけていた短剣を、手に持った。
「イジャスラフさん、この短剣、返します」
だが、彼はそれを手で制止した。
「いいよ、それはイリヤーにやる」
「えっ、で、でも」
「それは、お前が初めて魚を絞めたものだ、お前が自分の意志で掴んだ剣なんだ」
言われて、イリヤーは何かに気づいた顔をした。
「分かったか」
イジャスラフが、にこりと笑う。
イリヤーは、理解したとばかりに、大きくうなずいていた。
その時、セルゲイが、無表情で立ち上がる。
「どうした?」
「用を足してきます」
溶け始めた霜柱を踏み、彼は振り向かずに歩き始めた。
「……捨て子のくせに」
低く、吐き捨てるような、セルゲイの言葉に、イジャスラフは驚きを隠せなかった。
「捨て子?何を言っているんだ?」
ふと、イリヤーを見ると、彼は下を向いてしまっていた。
「イリヤー?」
小さく、その肩が震えている。
「寒いのか?」
その問いに、彼は頭を振った。
腕を押さえて、何かを我慢するように、大きく息をする。
心配そうに見守るイジャスラフに、彼は言葉を吐き出した。
「僕、捨て子だったんです」
震える声だった。
「生まれてすぐに、雪の、白樺林の中で、僕は、泣いていたんです」
イリヤーは絞り出すように、語った。
真冬の雪が降る中、たった一人、森に捨てられていたことを。
白樺の皮を編んで作られた籠に、あの剣と共に入れられて、泣いていた彼を拾ったのは、セルゲイの父親でもある村長だった。
居候という形で、セルゲイの家にお世話になっていた彼だが、その生活は惨めなものとしか言い様がなかった。
幼いときから、彼は理不尽な暴力に晒されていた。
ことあるごとに、拳が身体にめり込み、痛みと共に彼は従うことを強要された。
最初は優しかった村長も、ある時を境に人が変わったようになり、彼を邪険に扱うようになった。
褒められたことなど、一度もなかった。
忌み子だと言われ、表に出ることも出来なかった。
「だから、勇者に選ばれた時、本当は嬉しかったんです。これでお外に出られるって」
イリヤーの人見知りは、後天的に形成されたものだった。
「でも、セルゲイも一緒だった。見張られてるって思ったら、何もできなくなってた」
イジャスラフは、初めて会ったときのことを思い出していた。
確かに、彼は、セルゲイの影に隠れていた。
セルゲイに代弁してもらい、セルゲイに判断してもらい、何もかも丸投げしていた事実に。
これでは、まるで。
「セルゲイが、勇者の扱いだな」
その指摘に、イリヤーがビクリと震えた。
「旅に出る前に、村長さんに言われました。本当なら、セルゲイが勇者になるはずだったって」
白い息が、彼の顔に絡みつく。
「僕は、詳しいことは、分かりません。でもその時、村長さんがとても悔しそうにしていたのを、覚えています」
声を震わせ、泣きそうなのを堪えるように、彼は語っていた。
「イリヤー」
イジャスラフが、彼の震える肩を抱いた。
「辛かったな」
その言葉に、イリヤーの目から、涙があふれ出ていた。
一方、セルゲイは森の中を、あてもなく彷徨っていた。
「ちぇっ、イリヤーのやつ、上手く取り入って……」
誰が聞くでもない、独り言をぼやく。
彼は、少し前から気づいていたことを、口に出していた。
「なんで、あいつばかり贔屓されるんだ。勇者ってだけなのに」
転がる倒木を、蹴り飛ばす。
「選ばれるのは、私だったはずなんだ」
腐りきっていた倒木は、彼の足に蹴り抜かれ、苔と埃を巻き上げていた。
その物音に驚いたのか、兎が一羽、目の前を走り抜ける。
セルゲイは、背中の弓をつがえると、そいつに標的を定めた。
ひょう、と音がして、矢は兎の胴に突き刺さった。
「これぐらい、簡単に……」
血を流し、痙攣する兎を前に、彼の心を何かが支配していた。
「……遅いな、セルゲイ」
彼が姿を消して、しばらくが経った。
未だ戻って来ないセルゲイを心配し、イジャスラフは森の奥を見る。
「探しに、行きますか?」
不快な相手ではあるが、やはり心配なのか、イリヤーは彼に問いかけた。
「そうだな、行こう」
二人は立ち上がり、セルゲイが消えた、森の奥へと歩き出す。
「ゎぁぁ」
と、その時、遠くから、人の叫び声が聞こえた。
「セルゲイの声だ」
「何かあったようだな、急ぐぞ」
二人の足が、早くなった。
息を荒らげて、セルゲイの身体は、地面に横たわっていた。
彼の前には、矢の突き刺さった、一頭の鹿がいる。
「はぁー、はぁー、いってぇ……」
仰向けに倒れたまま、彼は思わずつぶやいた。
「くそ、いつもなら、すぐ倒れるのに……」
急所を外した矢は、無駄に鹿の怒りを買い、彼に跳ね返ることになっていた。
いきり立った鹿は、前足を強く踏みしめ、地面を抉り続ける。
その一連の動きの中、彼の弓は、無惨にも破壊された。
「あーあ、弓、が……」
ぶしゅぶしゅと鼻息の音がし、再び鹿が頭を下げて、突撃の姿勢を取る。
鋭い角が、彼に向けられた。
その時。
「セルゲイ!」
赤い髪の男が、彼と鹿の間に立ち塞がった。
男は手に短剣を持ち、威嚇するように、鹿を睨み付ける。
「え、イ……」
「イリヤー、無理はするな!」
遠くから、大人の声がした。
「嘘だ、イリヤーが……」
今、彼の目の前で、立ち向かっているのは、弱虫のイリヤーだ。
小さな身体で、懸命にセルゲイを守ろうとしている姿だった。
「セルゲイ、しっかりしろ」
「あ、イジャスラフさん……」
倒れたセルゲイの身体を起こそうと、イジャスラフが触れる。
「痛っ……」
「どこか、ケガしたのか?」
「鹿に、体当たり、されて……」
そう、腹をさする様子だが、彼の衣服に、血は付着していなかった。
血は出ていない、だが、早く手当した方がいいと、イジャスラフは判断する。
「急いで戻ろう、ここは危険だ」
セルゲイを抱きかかえ、彼はゆっくりと身体を立たせた、
「イリヤー、もういい!戻るぞ!」
「イジャスラフさん、この鹿、手負いです!」
「なんだと!」
そう、叫んだ瞬間、隙に気づいた鹿が、イジャスラフに襲いかかる。
セルゲイを抱えた彼は、なすすべもなく、鹿の動きを見ているしかできなかった。
大きな角が、もう、目の前まで迫る。
あれが、腹に突き刺さったら、間違いなく死ぬ。
だが、負傷したセルゲイを、放り出すわけには、いかない。
ゆっくりと、全てがゆっくりと動く、その中で、イジャスラフは、最善の策を出そうと思案する。
そんな中、突如、鹿の動きが止まった。
鹿のそばには、赤い髪のイリヤーが、立っている。
小さな悲鳴を上げ、鹿の身体が倒れる。その腹には、彼の持つ短剣が突き立てられていた。
「はあっ、はあっ、はあ」
大きく息をし、震える手を見つめる、イリヤーの双眸。
痙攣をする鹿は、まもなく、その動きを止めていた。
「イリヤー、お前……」
イジャスラフの声に、彼は我に返る。
彼は、目の前のものに、驚きを隠せなかった。
「あ、し、鹿、これ……」
力が抜けたように、イリヤーは、その場所にへたり込んだ。
ほんの少し前まで、何もできなかった子供が、仲間を守るために、自ら立ち向かった。
それも、手負いで気性の荒くなった獣を、たった一撃で仕留めたのである。
有り得ない成長、いや、天性の才能としか、言い様がなかった。
――やはり、この子が、選ばれる運命だったか。
冷たい風が抜ける森の中、イリヤーの身体を、熱い血が駆け巡っていた。
森の脇の街道筋。
荷車に、木材とイリヤー、負傷したセルゲイを乗せ、一行は家へと急ごうとしていた。
「よし、行くぞ」
馬の尻に、鞭を入れるが、馬はその場から動こうとしない。
「おい、どうした」
ふと前方を見ると、みすぼらしいなりの、人物がいた。
「……シャマン」
イジャスラフが、小さくつぶやくと、シャマンはその手を、森に向けた。
「ついてこい、ということか?」
荷車から降りようとすると、シャマンは、手で制止する仕草をした。
『乗ったままで、良い』
彼の頭の中に、声が響いた。
何事か理解出来ずに、驚いていると、今度は馬が、ひとりでに歩き始めた。
「おっ、おい」
森へと消えたシャマンを、馬が荷車を曳き、追う。
揺れも、木材の重さも感じることなく、彼らは森の中を進んでいた。
陽炎のように、姿を揺らめかしながら、シャマンは馬の前を歩く。
馬が、道なき道を進むたび、森がざわめいて、障害物となる木々を退かせる。
「すごい、木が退いているぞ……」
まるで、命があるかのように、それらは動き、シャマンと彼らを、その先へと進ませる。
そして、一際明るい、そこに、目指すものはあった。
まぶしいばかりの、一面の白い世界が見える。
そこには、白樺の林が姿を現していた。
「これは……」
イジャスラフは、思わず息を呑んだ。
白樺の森は、白く輝いている。ここまできめ細かく、白いものは、今までお目に掛かったことはなかった。
荷車から降り、一本の白樺に近づく。
樹皮に手をつけ、彼は少し考えた。
「……違う」
手を放し、また違う白樺に手をつける。
「これでも、ない」
同じように並ぶ白樺の中から、彼は何かを探していた。
幾度も幾度も、それを繰り返し、一本の木の前で、彼は動きを止めた。
「これだ」
確信した。これこそが手の平に、吸い付く感触だと。
ナイフを手に取り、その表皮を丁寧に剥がし取る。
白樺の樹皮は、つるりとキレイに取れた。
イジャスラフは、それを手にして、何かが見えてくるような、錯覚に陥っていた。
雪の降る森、泣き叫ぶ一人の赤ん坊、その髪の色は。
「イジャスラフさん!」
その声に、後ろを振り向くと、赤い髪の少年が、自分を呼んでいた。
「……イリヤー、か」
心配そうに見つめる、その顔に、彼はなぜだか、ほっとしていた。
「急にどうしたんですか、フラフラ歩いていましたけど」
イリヤーの言葉に、彼は周囲を見回す。
回りは街道。荷車の車輪は動いた形跡がなく、荷台の木材もずれた様子がなかった。
「あれ、俺は、森の中で……」
両手には、白樺の樹皮が。輝くような白さのそれがあった。
「もしかしてそれ、ベレスタになるんですか?」
「……あ、ああ、そうだ」
彼はそう笑うと、荷台に樹皮を載せ、馬を走らせた。
「大事に持っていろ、それは材料だからな」
家へと向かう道すがら、青く見える空に、彼の声が響いていた。